自分が何者かの答えなんて、無理に出さなくていい
つい先日、とある写真館に立ち寄った時のことです。
スーツを着た、自分と歳の変わらなそうな子が「就活用の証明写真を……」と受付の方に言っているのを横で聞いていて、私の中に応援の気持ちが湧き上がるとともに、少し苦い気持ちになりました。
というのも、私の就活は順調とは言い難いものだったからです。
本当のことをいうと、就活のことにはあまり触れたくないのですが、苦い思い出からも何か学べることがあるでしょう。そういうわけで、今日は、就活について語ろうと思います。
これから就活を頑張ろうという方を怖がらせるつもりはないので、もし就活生の方がいらっしゃたら、気楽に読んでいただけたらと思います。そして、ご自分の就活に活かしてくださればと思います。
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就活で一番辛かったことは何か、と問われたら、私の場合は「自分が何者なのか分からなかったこと」です。
随分大きなことに悩んでいると思われるかもしれませんが、私の場合は、そうでした。
自己分析をしても、自分という人間の悪いところばかりが目について、そういう自分のマイナスの部分を除いて考えようとすると、自分が空っぽの人間のように思えてしまったのです。
面接で色々聞かれても、すぐには答えられず、納得のいく言葉が出てこず、結果にも繋がらず……。
後から振り返って考えを深められたこともあるので、感謝はしているのですが、自分という人間を理解するプロセスと就活とが絡み合ったことが、私にとっては最悪といっていい状況を作り出していました。
次第に、自分が何者なのか分からなくなり、そんな自分には居場所なんてないように思えてしまったのです。
選考にことごとく落ち続け、周囲が就活を終わらせていくのを横目に、終わりも勝ち目もない闘いを続けるなかで、その思いは、どんどん膨らんでいきました。
そうしてある日、ふと、思ってしまったのです。
「私って、社会にとって無意味な存在なのかも」
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就活をしていた頃は、アルバイトにも殆ど入らず、学校の授業も取っていなかった(単位はすでに取りきっていた)ので、自分の話相手は、家族か、面接官か……。
私の世界は、ひどく狭くなっていたのです。
でも、そんなことに気がつく余裕すらなくなっていました。
そして、「今、この瞬間、私がいなくなったとしても困る人なんてどこにもいないのだ……」と思い詰めていきました。
何者でもない自分にとって、それは当たり前のことのように思えたのです。
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何とか就活を終わらせ、それでも、「自分が何者か分からない」「価値がないように思える」という思いは、そのまま残り続けました。
就活は終わっているのに、まるで毎日面接があるかのように自分について考えました。
答えは出ず、ますます自分が空っぽに思えては、重苦しい気持ちになっていったのです。
その負のループから救いだしてくれたのは、恋人の言葉でした。
ある日、何の話の流れだったのか、その「自分探し」の辛さのようなものを恋人に吐露したことがありました。
自分がどんなことを言ったのかは覚えていませんが、その時の恋人からの言葉は、以下のようなものでした。
そう言われた時、はっとしました。
自分が何者なのか、完璧に理解して、完璧な言葉で、面接で証明しなければならないように思っていた自分に気がついたのです。
就活が終わった後も、自分について考える時、そこには言いようのない苦しさがありました。
選考に落ち続けたことが、どこかで私の考えを歪めてしまっていたのだということが、その時になってようやく分かりました。
自分というものが会社の役に立つと証明しなければならない、そうしなければ自分には居場所がなくなってしまう……。
その焦りや恐怖が、自分のことを考える時につきまとい続けていたのだと気がついたのです。
でも、私は、誰かに何かを証明するために生きているわけではありません。
本来、自分が何者なのか知りたいと思っているのは、他でもない自分自身であり、それを他人に対して上手く説明できないことと、私自身の価値や存在意義は、少しも関係がないことを、私はすっかり忘れていたのです。
自分が何者なのか、どうなりたいのかの答えなんて、無理に出さなくていいのです。
なぜなら、それは、自分が、自分自身のために探し続け、創り続けるものであると同時に、変化し続けるものだからです。
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もしかすると、こんなことで悩む就活生は、いないのかもしれません。(いるのかな??)
でも、もし、就活に限らず、何らかの形で自分探しに苦しさを感じる人がいたら、私の恋人の言葉は救いになるのではと思い、書き上げました。
これを読んでくださっている皆さんの心に、少しでも何か響くものがありましたら、嬉しく思います。
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