一度は挫折したけれど
以前、noteを始めた頃のことを書きました。
あの時、随分重い質問を自分に投げかけたものだな、と我ながら思うのですが、あそこまで自分に問いかけたのは、実はnoteでの挫折の経験があったからです。
とはいっても、私はこれまでのところ、毎週、noteを更新し続けています。
そんな私がnoteの挫折経験があると言っても、すぐには信じていただけないかもしれません。
実際、元町ひばりとして活動を始めてからは挫折的な気持ちになったことすらありませんし、挫折とは無縁のnote生活を送ってきたと思います。
けれど、ペンネームを決める前、今とは似ても似つかない、全く別の名前で書いていた頃、私はnoteを途中で諦めてしまったことがあるのです。
記事の数も大したことありませんし、フォロワーさんの数も少ないので、その頃の記事は、もう完全にnoteの海に沈んでしまいました。
それでも私個人はその頃のことを覚えていて、元町ひばりとしてnoteを再スタートさせようと思った時も、「また以前と同じように、途中で心が折れてしまわないだろうか……」という嫌な想像が頭の片隅にこびりついていました。
だからこそ、noteを始めた初期に重い問いを投げかけ、続けていくために色々と心がけてきたのです。
だから、続けられている。
……というのも確かなのですが、それだけではないとも思うのです。
なぜ、続けられなくなってしまったのか。
なぜ、今は続けられるのか。
一番の要因は、今は顔見知りの(といっても、たいていお顔は拝見したことがないのですが)noterさんたちがいらっしゃることだと思います。
それは本当にありがたいことで、毎週、感謝の気持ちでいっぱいになります。
でも、それだけでもないのです。
それが何なのかということを考えた時、自分の気持ちが変わったからかもしれないと私は思いました。
気持ちといっても、それは、noteを投稿する時の意識の底にある、自分でも気づきにい気持ちです。
以前は、その気持ちというのは「誰かは読んでくれるだろう」くらいだったんです。
今はというと、「誰かに届くと信じる」という感じです。
「誰かは読んでくれる」
「誰かに届くと信じる」
両者は、近いといえば近いのですが、全くの別物であると私は思います。
「誰かは読んでくれるだろう」というのは、「誰かが見つけてくれるだろう」というどこか受け身な姿勢です。
そして、そんな意識の底にあるのは、誰かに見つけてほしいという少し自分本位な思いです。
一方の「誰かに届くと信じる」というのは、「誰かにこの言葉が届いて欲しい」という切実な願いです。
でも、それは「自分を見てほしい」というのとも違うのです。私は、自分を見つけてほしいとは思いません。ただ、私の言葉を読んでほしいのです。
そう思うのは、自分の言葉は、自分の内側から生み出されただけではない、もっと遠くから降ってくるような感覚があるからです。
私が伝えたいと思うのは、ここで書き始めるまでは、自分の中で見つけることのできなかった言葉たちなのです。
「いい言葉が見つかったから、書こう」ではないのです。「書いていたら、いい言葉が浮かび上がってきた」という感覚です。
だからこそ、この言葉を誰かに届けたいと思うのです。……その言葉が、自分だけのものではないような気がするから。
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今日のnoteは、
「そういえば、もう何か月も書いてない」
「下書きだけたまっている」
「noteをどうやって続けたらいいいのか分からなくなってきた」
そんな方に届いてほしいと願っています。
noteが続けられなくなる要因は、様々だと思います。
でも、もし、一度挫折した私の言葉が、挫折的な気持ちになっているあなたに届いたなら、心から嬉しく思います。
noteは続けなければならないものではありませんが、続けたいという気持ちがあってモヤモヤしているなら、一度、ご自分がどんな気持ちで投稿しているか振り返ってみてください。
何か新しい発見があるかもしれません。
あなたが伝えたいことを生き生きと発信し続けられるよう、noteの街の片隅から応援しています。
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