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大きい風景、小さい風景

大学2年の頃。

私は、写真の勉強とばかりに、様々な写真展に足を運んでいました。

風景写真だけが展示されている写真展に行った時のことです。

私は一通り展示を見終え、出展している写真家さんとお話しする機会がありました。

その時、印象に残った会話がありますので、ここで少し語らせてください。


その頃、私は、自分の作品に自信が持てずにいました。作品に、といより被写体に優劣などないのですが、自分がカメラを向ける対象そのものが、他の人に比べて劣っているような気がしていたのです。

インスタグラムで流れてくる同世代の写真仲間の写真には、山や海、そこでしか見られない雄大な光景、珍しい生き物の姿……。一般的な生活圏では見ることのできない風景が写真におさめられていました。

それは、「大きい風景」とでも言うべき、誰が見てもすごい、と息をのむような写真です。

一方、その辺の公園で撮った自分の写真は、迫力に欠けていて、物足りないと思うようになっていました。

私は、誰もが通りすぎてしまうような風景を拾い上げること自体は好きでした。しかし、所詮、誰でも撮ることのできる風景じゃないか、と何となく引け目を感じるようになっていたのです。

だから私は、ある「大きな風景」写真の前で、写真家さんに、こう打ち明けました。

「私も、こういう大きい風景、撮りたいんですよね。私が撮るのって、足元の風景みたいのが多いんですけど、いつまでも公園で撮ってちゃいけないなって……」

言いながら、「人と比べて、どうするんだ」と自分にツッコミそうになりました。

でも、このことは、その頃の私の心の中を暗くしている考えでした。どうしても、言葉に出さずにはいられなかったのです。

その時の写真家さんの答えは、こうでした。
「小さい風景のなかに大きな風景が隠れていることがあるから、小さい風景=小さい風景ではない」と。

逆に言うと、「大きい風景」だからといって、そこに本当に「大きな風景」が写っているわけではない、というのです。だから、「小さい風景」の中に「大きな風景」が写ることだってあるのだ、と。

この答えを聞いた時の私の気持ちが分かるでしょうか。

自分が、足元の風景に惹かれる理由の一つが、急に言語化されたのです。身の回りに、すぐ近くに、何て沢山の可能性が転がっているのだろう、と一気に心が軽く、明るくなりました。

まだ私が歩いたことのない小道や、誰も気づかないところで咲いている花や、庭の芝生の上、家の近くで見られる鳥たちの姿に、数えきれないほどの宇宙の秘密がキラキラと秘められているような気がしました。

それから今日に至るまで、私は、自分のどんな写真も、被写体も、愛することができるようになったと感じています。

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