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「社会問題を『自分ごと化』するとは」#自分ごと化対談(小説家 平野啓一郎氏)≪Chapter1≫

※本記事は、YouTubeで公開している自分ごと化対談
【生活実感から、市民社会をどう作るのか】(https://www.youtube.com/watch?v=yr86REjZ-OE&t=950s)について、Chapterごとに書き起こし(一部編集)したものです。

政策シンクタンク構想日本とは

<加藤>
社会のことは他人ごとになりやすいです。貧困でも、子育てでも、自分が直面しない限り。ましてや原発や地球環境のように自分から遠い問題はそうです。構想日本はそれを“自分ごと化”しようという活動を続けています。それは、無作為に選ばれた人たちに、自分の町の話題について議論をしてもらうもので、この場を「自分ごと化会議」と言っています。例えば、ゴミの問題なら、この会議をやると、ゴミってこういう風に処理されているのか、これだけお金がかかるのか、ということがわかると、ゴミの問題が“自分ごと”になるんですね。原発の問題であっても自分ごとになるんです。

私は“自分ごとにする”というのが、政治の原点だと思います。例えば沖縄の基地の問題で「自分ごと化会議」を是非やりたい。沖縄の人にとっては自分ごとなんですけども、沖縄以外の人にとっては本当に「他人ごと」なんですね。ですから、例えば沖縄の人を20人、沖縄以外の人を20人、その40人でこの問題を議論することを是非、やってみたい。そういうことをすると、基地のことだって、原発のことだって、すべてが自分ごとになるんじゃないかなあと思っています。

今日は第三回目の自分ごと化対談です。ゲストは小説家の平野啓一郎さんです。
平野さんについて、私からもう、ご説明する必要はないと思いますので、それでは対談を始めたいと思います。

政治や法律、みんなのことを誰が考えるのか

<平野>
自分ごと化というテーマについて、少し思うところを、最初にお話したいんですけども、ずっと公共性という言葉と、それから自分の生活ということの問題を、いろんな人が、色んなかたちで議論しています。けれども、ひとつ気になっていることがありまして、どうも日本人の議論の中からは、市民社会、市民的生活というものが欠落しがちです。特に文学者について考えた時に、例えば僕は三島由紀夫という作家に関心を持って評論を書いているんですけど、「プライベートとパブリック」といった時には、「個人と国家」なんです。中間に市民社会というのがまったく無くて、ほとんど欠落しているんですね。

市民社会についての言及というのは、ほとんどプチブルジョワ批判みたいな、非常にアイロニカルで、市民社会的な安定とか、市民的な生活の安定というのを、かなり揶揄するような口調になってしまうんですね。それで、これは何故なのか、ということをずっと考えていたんです。

これは戦後の問題だけじゃなくて、もっと近代化以降の大きな時間の流れの中で考えるべきことじゃないかと思います。僕たちはもちろん利己的になってはいけなくて、自分の生活があり、もう一方で、公共的な関心を持たなきゃいけないということは当然なんですけど、そのときの“公共的な関心”というものは、多くの人がいきなり“国家”に飛躍してしまうんです。そうすると、利己的じゃない生き方をしよう、となると、「国のためにどういう風に役に立つか」「国にとって良いことなのか」ということに飛躍してしまう。

だから、法律を考えるとか、政治について考えるというときにも、やっぱりその中間の市民としての生活というのを飛び越して、いきなり国家の役に立つかどうかというところになってしまう。

例えば、夫婦別姓を認めるかどうかということに関して、僕なんかは認めれば良いという立場ですけど、反対する人たちは家族制度というのを維持しなきゃいけないとかっていう理屈で言っています。彼らは「一人ひとりの人間に夫婦別姓が認められたら便利かもしれないけど、国家という公共的な関心の中では、それは認めるべきじゃないんだ」という考えだと思うんですよね。だけどそのときに、ひとりの人間が個人として存在しているけど、もうちょっと大きい領域では“市民的な公共空間”というのがあるわけですよね。そこでは、夫婦別姓が認められずに非常に大きな問題が生じている、というのが現実のはずです。だけどその“市民的な公共性”というのが、まったく考えられないわけですよね。それで、一気に国家という次元に飛躍して、国家の制度として、あるいは日本という国の伝統文化として、という話になってしまう。

僕も「自分ごと化する」ということは政治において非常に重要だと思います。しかしそのときに、国家か個人かという、二元論的なフレームで考えていくと、自分ごと化というのが、あたかも非常に利己的なもののように捉えられてしまうのではないか。そして利己主義じゃ駄目だということがあって、「自分はちょっとくらい不便でも、国のためには我慢しなきゃいけないこともあるよね」みたいな理屈になってしまうことが、非常に問題だと思っています。

自分ごと化というときには、「“市民社会的な公共性”の中での具体的な生活」の中での自分ごと化、という、つまり一個人であるのと同時に、市民的な公共性というものを含めたことを考えていくことが、非常に重要なんじゃないのかなと思っています。ですから、その公私の考え方のところで、いま政治についての議論も、あるいはイデオロギー的な話も、いつも躓いてしまっているのではないのかという風なことを思っています。そういう上で、原発をどうするか、基地問題をどうするかというのは、個人か国家かという間の、やっぱり市民社会として、市民的な公共権のなかでそれを、受け止めるかどうかということが、まさに、“自分ごと化”ということを考えるうえでの肝になるのではないかなということを考えました。

<加藤>
そうですね。日本で、メディアや学者が言う“公共の利益”というのは、リアリティが感じられないんですよね。公共とは何なのか、利益とは何なのかを決められないんですよね。

今、平野さんがおっしゃったのはその通りだと思いますけども、「公共」、これは平たく言えば、「みんなのこと」ですよね。じゃあ「みんなのこと」というのは誰なんだということです。家の中に2人居たら、それはもうある種の二人というパブリックな面がありますよね。それが、町内会では30人かもしれない。ひとつの市になると5万人。日本全体で、1億2千万、地球全部で何十億という話ですよね。それが全部「入れ子」だと思うんですが、その「入れ子なんだ」ということが、学者の頭の中にあんまり無いような気がするんですよね。

国というのは「概念」で、みんな日本国民だけど、例えばコロナのワクチン打つとなると、国だけでは出来ないんですよね。国が主催で国がお金を出していたとしても、具体的にやるのはどこかのまちなんですよね。まちでないと、何処に誰が住んでいるのかわからないわけですから、国家というのは あくまでもそれを纏めているだけなんですよね。ですから、1人が2人になる、それが30人になる、1万人になる。

全部入れ子なんだけども、10人というパブリックについての利益、10人にとって良いこと必要なこと、こっちの10人にとって良いこと必要なこと、それを全部含んだ1万人にとって良いこと必要なこと、というのは、ちょっとずつずれているんですよね。簡単に言えば同じ町でも海か山か、北の方か南の方かということで、違うかもしれないですね。例えば道路一本作るにも。

ですから、そういうものを、入れ子になっているという中で、10人の話をしている時と、千の10人が集まって、1万人が話をするというときには大きくずれてくる。そこを日本は市とか、県とか、国ということで、制度で分けているわけですけども、ところが制度になった瞬間にね、制度の枠の中で考えるという発想しかなくなるんですね。

入れ子になっていて元のところから、もう一回、ちょっとずつ積み上げていって、この人たちが10人の中でどうするか、この人たちが1万人の中でどうするか、この人たちが1億人としてどうするかというプロセスみたいなものが全部切られてしまう。その一人ひとりも、10人ぐらいまでならわかるけど、1万人になったら、もう俺たちわからないよね、1万人みんなが、俺たちのことじゃないよね、と思っている。1億人になったらますます、ほとんどみんなが、俺たちのことじゃないよね、と思うような仕組みにしてしまっている。現実的には、そういう問題が大きいんじゃないかと思いますね。

<平野>
そうですね。システム論的に考えたら、個人から、家族から、町内会からという風に、“共同体のレイヤー”という規模が大きくなるように、積み重なっていっていて、それぞれのレイヤーで、自治体なり、政府なりが行う“機能”があるはずなんですよね。ところが、例えば「二重行政解消」の議論のなかで起きているのは、それぞれのレイヤーでの機能を統合していった方が効率化するという発想です。けれども、住民のニーズは、より細かな、具体的事象への対応を求めることが、社会の欲求として大きくなっている。だから、それぞれのレイヤーのなかで起きていることを統廃合してしまったら、サービスの質というのは低下するに決まっている。

また、レイヤーの中には一見重なっているように見えても、レイヤーが異なるのだから、実際には、全体としての機能で考えると違うことが起きているはずなんですよね。だけど、それを統合しようとすると、非常に粗雑な住みにくい社会にしかならないというのに、ごちゃごちゃにしながら議論している。それを、理解しないでしゃべっているのか、意図的にしゃべっているのか、わからないですけど。

この構造を究極的に言えば、個人と国家の間に何もいらなくなるようなシステムをつくること。垂直的に、国家の命令が全部、個人に到達して、個人の欲望を国家が直接吸い上げるようなシステムを作った方が、最も効率的という事になりますけど、そんな仕組を作れるはずがないんですよね。

ですから、僕はやっぱり、それぞれのレイヤーの機能によって何が最適化されていくのかということを、細かく見ていく必要があって、今までは国家規模でしかできなかったものが、より下位のレイヤーでも可能になってきていることが沢山あると思うんです。 

その象徴が“発電”だと思います。かつては原発のような非常に中央集権的なモデルでしか作れなかったものが、今は自治体レベルで作れる。あるいは個人のレベルでも発電できるノウハウの積み重ねが重要になってきている。

だから、今はシステム論的に社会をとらえた中で、どこのレイヤーで何をするのが最適なのか、ということを、まさに“割り振る”ということをやらなきゃいけないはずです。なのに、相変わらず、社会を「あの頃は良かった」という状態に引き戻そうとする人たちが沢山いるから、日本はどんどん遅れて、世界の中でもにっちもさっちもいかないような状況になっているというのが、僕の認識です。

過去の自分ごと化対談はこちら 
・第一弾 JT生命誌研究館名誉館長・中村桂子氏 
・第二弾 プロ登山家・竹内洋岳氏 
・第三弾 小説家・平野啓一郎氏 
https://www.youtube.com/playlist?list=PL1kGdP-fDk3-GPkMkQsCiYupO4L9rS3fQ


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