"それでも"、わたしは「新姓」を名乗りたい
今年の春に結婚して。
社会的に名字が夫と同じに、「新姓」と呼ばれるものになりました。
これまで過ごしてきて、なにか、自分の中にそれに関する感情がある、と感じてきました。
例えば仕事のやり取りのメール中でとか、手紙の宛名とか。
そういったもので、「旧姓」の名前で自分のことを呼ばれた時の感情。
実は、ずっとそこに"違和感"がありました。
これは想像もしていなかった、自分の中に生まれた"意志"、しかも意外と強い意志でした。
これには、"理由"として"考える"なら、社会的なもの、それを受け取ってきた自分の背景など、色んなありますが。
ただ、1番は、「夫と同じ名字の自分でいたい」という、強い気持ち、"感情"であると思いました。
「選択的夫婦別姓」というものについて。
わたしと繋がってくれている方々には、
社会のこと、一人ひとり違う人が生きる社会のこと、そしてその一人ひとりが共に生きる社会のことへ心を向けられている方が多いかと思います。
例えばわたしが「旧姓」で呼ばれる時。
おそらく、まだ「新姓」になって時間が経っていないとか、ただ"うっかり"とか。それか、むしろ"配慮"の結果などもあるかもしれません。
しかし、呼ばれた時の自分の心に、"なにか"あっても、「まぁ、ええけど」的な感じで流してはいました。
結婚するまで、そしてする時、この「姓」にまつわる議論のことは考えていました。(そもそもの「結婚」という制度についても。)
この議論において、一人ひとり、特に女性が抱えることになることが多い、"問題"となることには、社会的に見て、そして在りたいように生きる選択を阻まれている人がいる、という現実を見て。
それ自体、そのことがある社会には、"問題意識"はあります。
ただ、ただ、わたし個人、自分自身に寄せて考えると、そこは大きな"問題"ではありませんでした。
もちろん、手続的なことで面倒があったり、大金ではないにしろ、そして、これにかかるお仕事をしてくれる方への想いもあるにしろ、
「あー、またお金かかるのね〜〜〜」みたいな気持ちはあっても、その程度でした。(正直いまだ手を付けられてない事もいくつか、、、)
しかし、社会の中には、やはり、それでもここに乗り切らない、護られるべきものがあると思うので。
"選択的"夫婦別姓という考えには、積極的に賛成の立場でしたし、それは今も変わりません。
例えば、もし。"選択的"ではなく、「夫婦別姓」という世の中であったとして、同じように感じるのかと言うと。
もしそうであれば、夫と今感じられている「つながり」がなくなるものだとは、決して思いません。
それでも、今、生きていて。例えこれが、あらゆる社会的な背景で作られたものだとしても、
わたしの中には、「夫と同じ名字の自分でいたい」という気持ちがあるのだと気づきました。
今回、この、自分の立場から考えてみて。
もしかしたら、何か新しいものが語られる時、
その反対にあるようなものは、声を上げにくくなる、というのもあるのではないかと。
そちら側にあるものを、もしかしたら見落としがちなのでは、と。ふと省みて思いました。
しかし、やはり、わたしのような感情や考えを持つ人も、包摂しようというのが、この"選択的"とついた議論であると思うのです。
先日、是枝監督の映画『怪物』を観ました。(ちなみに同じ日に『君たちはどう生きるか』も観ました。)
あの映画を見て感じたことは。
「自分も、何かに気付くことが出来るけど、何かに気付けないでもいる。」きっと、間違いなく。
そしてきっと、「わたしも誰かの心を刺してしまっている。」
ということでした。
例えば、「わたし」という一人を社会的に見て。
日本という国に生まれて、生育環境としても現状としても、経済的な困窮はしておらず、女性として生まれて女性として生きて、結婚して家庭があり、仕事もあり、人との交流のある社会生活も送っている、等々。
この"情報"を見たら一見、「あなたは恵まれている」と言われるものかもしれません。
それは、ある面で見たら、現在のある面で見たら、確かにそうかもしれない。
でも、このような"情報"には乗り切らない、到底かんたんには語れない、人生の出来事一つひとつはあって。
この、お腹の内に抱えてきたものを、すべて見せれば、何を思いますか。みたいな気持ちにもなったりもします。
しかし、例えばで、一つ挙げるとすると。
それでも。わたしは、それを誰かに求めるとかではなく"わたし自身"は。
「女性らしさ」「女性性」というものをこのんでいて、そして、自分の「女性性」を愛して、女性であることを誇り、自分が「女性であること」を喜んで生きたい。
そんなことを思っています。
きっと、この表現によって、「それは社会が〜こうだからだよ」「もっと、"あなたらしさ"でいいんだよ」と言うふうに、一人の存在を大切にしてくれる方が言うかもしれないし。たしかに、姓の話同様、社会の物事によって作られてきた部分はあるとは思います。
また、一方これによって、「誰かの苦しみを生むことに加担しているのだ」とか、そういった声もあるかもしれなく。そしてそれもまた、どこかである事を心に留めないといけないとも思います。
なにか、"問題"というものがある時。
「正しさ」とかでは語りきれない、「感情」の話があるということを、感じました。
何かの肯定は、必ずしも対義の否定とイコールではない。
自分が"何か"を選ぶことが、「誰かの生きにくさ」を生むかもしれない。
でも、ただ、そういう形だけではなくて。
「もっと、なにか、あるのではないか」と。
その「難しさ」こそが、人が考えるべきものなのだと思います。
すべてに配慮し切ることは、できないかもしれない。
それでも、"それでも"とわたしたちは、人と共に生きるのだと。
自分を守ろうと、だけではなく、共にある形を求めて。何かを形にしようとしてきている歴史の流れの、ひとつなのかと。
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