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映画『おばけ』感想 ~消費者のために作品が存在するのか、作品のために観客がいるのか~

8月某日にポレポレ東中野で映画『おばけ』を観てきた感想を徒然なるままに書きます。

あらすじ

まだ見ぬ観客はどこにいる?遥か宇宙にも!
一人で自主映画をつくり続ける監督と、彼を見守るはるか宇宙の星たち。誰も知らないささやかな映画制作の過程は大きな宇宙へとつながってゆく。手作りの宇宙にときめき、映画への愛に胸が熱くなるロマンチックな作品。(Filmarksより)
初長編監督作となる本作でPFFアワード2019グランプリ、第20回TAMA NEW WAVE特別賞を受賞した中尾広道監督作品。男は1人でこつこつと映画を撮り続けていた。そんな彼の孤独な制作活動は、周囲の理解を得られず、妻と子どもも愛想を尽かしていた。そんな男の作業を遠い空から見つめている星くずの存在があった。男の姿を見守る星くずの雑談とカメラを通し、男の日々の生活や映画制作のさまざまな局面が語られていく。主人公を中尾監督自身が演じ、男を見守る星の声をお笑いコンビ「金属バット」の小林圭輔と友保隼平が務める。(映画ドットコムより)


予告


金属バット

 最近お笑い芸人の金属バットさんにハマっていまして、お二人が「星」の声役で出演なさっているということで今回劇場まで足を運び、観に行って来ました。予告編の、水野晴郎さんの名ゼリフ「いやあ~映画って本当にいいもんですね」を思わせる「いやあ~映画ってホントよろしゅうおまんな」「そうですなあ~」のやり取りが大好きです。星たちが中尾監督の映画の制作過程を追いながら雑談したりツッコんだりするという、金属バットの漫才スタイルやネットラジオそのままのキャラクターでした。
 お二人がラジオで話していることって内輪ネタが多くて、ものすごい狭い範囲の話(高校の先輩でよくめばちこができていたシゲの話とか)だったりします。一方で映画の星たち(ちなみに小林さんが黄色、友保さんが緑の星でした)は「星」なので宇宙にいて、「地球まで映画見に行った」みたいな、文字通り宇宙規模でスケールのでかい話をしているのがすごく新鮮で面白かったです。かと思えばカレーの味は何がいいかで揉めたりして、金属バットのおもしろさを存分に楽しめる映画でした。

映画の感想(ネタばれあり)

 ここからは映画の筋や星たちの会話についてのネタばれがあるので、事前情報を入れずに映画を楽しみたい方は読まないでください。  たしかにこの映画は「手作りの宇宙にときめき、映画への愛に胸が熱くなるロマンチックな作品。(映画comより)」なんですが、でもけっこう観るのがつらかったです。おしゃべりする星たちと汽車にのってビーズの星を拾いに行くところは、ロマンチックで綺麗で音楽が素敵でした。でも星たちはストレートな言葉で罵倒してくるし、結婚して子供がいるのに映画で借金を抱えているし、制作を始めるとバイトに行かなくなり、妻が実家に帰ってしまっても映画制作を続け、ゴミ箱にはサッポロ黒ラベルの空き缶がたくさん。そうして作った映画も評価されず、上映の機会がない。しゃべる星とか宇宙を走る汽車はロマンチックだけど、それは監督がGALAXY MASTERで操っているもので、よしもとと交渉して金属バットのスケジュールをおさえて撮ったもので、結局、監督はほぼひとりで孤独に映画を作っている。監督が映画をやめてからはもうロマンチック担当の星たちの声は聞こえなくなって、代わりに監督が父親として家族と向き合います。代わりに流れてくるのはマーシーのHAPPY SONG。お笑い(金属バット)とか音楽(マーシー)への純粋な愛はすごく感じましたが、やっぱり映画に関しては“愛”ではくくり切れないいろんな感情が渦まいてるんじゃないかなぁと感じました。金属バットみたいに、やりたいことをやりたいようにやっていそうで、でも多くのひとにその面白さが認められていて、お笑いで食っている人を起用して自分を罵倒させる監督、すごすぎるなあと思いました。

 黄色い星が新品のばんそうこうとかコッペパンを拾ってくるのを緑の星が「ばっちぃなあ」っていう会話がすごくコミカルで面白かったんですが、中尾監督を気絶させて宇宙まで呼んだのも、星としては「なんか地球から拾ってきた」的な感覚なのかもしれないなあと思ったり。 

消費者のために作品が存在するのか、作品のために観客がいるのか

 作品の造り手の顔がダイレクトに見えたとき、作品を純粋に娯楽として消費することができず、むしろまなざす側である鑑賞者とまなざされる側である作品という本来 鑑賞者>作品 であるはずの力関係が逆転して、「観客が造り手のために存在している」と感じることがあります。『おばけ』はまさにそうでした。
 私はマーベルのアメコミ映画やスターウォーズなどいわゆるメジャーなハリウッド映画が大好きなのですが、これらは消費者が消費するために作られており、興行収入や観客動員数がランキング化されます。いい悪いの話ではなく、資本主義の社会では「消費者のための作品」、具体的には「より多くの人に見てもらうための趣向を凝らした作品」がむしろ健全なのではないでしょうか。観客は暇をつぶしたり、感動したり、人生の教訓を得たり、家族や恋人との共通体験をつくるために映画を消費するわけです。
 一方で、生のステージを見に行くと、「演者やスタッフのために観客が存在しているな」と感じることがあります。私は今大学生で、音楽系サークルに所属して舞台に立ったりしています。大学のホールで同世代の人たちがやっているアマチュア演劇やライブなどもよく見に行きます。これらは演者やスタッフがお金や労力をかけて作っており、利益を出すことを重要視しません。極端なことを言えばだれも観客がいなくても上演することができます。しかしそれでは本番の舞台として成立しないので、やはり観客が入って演者をまなざすことで「本番の舞台」として完成します。消費者が主体となって消費するために作られる大衆映画とは異なり、アマチュアやアングラの舞台などでは作品が成立するための要素として、観客が取り込まれるのです。観客に消費されないと作品にならないのです。『おばけ』で緑の星の「誰にもみられない映画なんかただのゴミ」といったようなセリフがありましたが、監督が魂をこめて作った作品はただ完成してそこにあるだけでは「ゴミ」で、評価され、鑑賞されないと「映画」ですらないわけです。プロの世界では利益を出すことが求められますから、鑑賞者は「好きなアーティストが作品をつくり続けるために作品を消費してお金を落とす」ことが求められます。

 私はこの作品を鑑賞するために時間とお金をつかい、そしてこうして文章のネタとして『おばけ』を消費しています。これが私なりに正解な作品の愛し方なんだな、と感じました。映画『おばけ』に出会えて良かったです。サントラ買います!


ポレポレ東中野まで自転車を漕ぐついでに撮りに行った椎名町駅前

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