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菜箸で毛糸編む母弘法か

季語:毛糸編む(三冬)

さいばしでけいとあむははこうぼうか

弘法筆を選ばず

弘法大師は達筆で知られた平安時代初期の僧侶です。空海の名の方が知られているかもしれません。死後に贈られた名が弘法大師です。死後に贈られる名は諡号といい、生前の評価に基づいて贈られる名前です。弘法大師は、醍醐天皇から贈られた諡号です。

「弘法筆を選ばず」とは、弘法大使くらいの書の名人になると、道具の良し悪しにはこだわらない、というのが表面上の意味です。正しくは、凡人ほど失敗を道具のせいにすることを戒めるために使用することわざです。

菜箸で毛糸編む母弘法か

先日実際に、菜箸で編み物をしている母を見て驚いたのが、この句のきっかけです。ただその光景を詠んだだけでは、編み棒と菜箸の区別がつかなくなったボケを嘆く句だと誤解されるのでは、と思いました。例えば、

毛糸編む母編み棒なくし菜箸で

上5が7文字の字余りも問題ですが、これだと本当に身の回りのものの区別がつかない、ボケ老人のようにも詠めてしまいます。

倹約家の母は若い頃から、何かで代用できるなら新しくものを購入しない人でした。5月に転居したとき、体調が悪いこともあり母の荷物は引越し業者が適当に梱包していきました。さらに引越し先では、父が必要不必要を自分一人の判断で仕分けして、不要と仕分けされたものは廃棄業者が持っていってしまいました。

そんな段取りだったので、あったはずのものがない、という困りごとがその後多数発生しました。編み棒が見当たらないのも、廃棄されたかどこか適当にしまわれてしまったか、でしょう。

そこで、菜箸で編み物を始めた次第です。

倹約根性と熟練の技あってのこと

菜箸での編み物は、これから何年も編み棒を使えるとは思えない、それならこれでいいかという、母の倹約根性による選択です。そして、編み棒だろうが、菜箸だろうが、道具を選ばず何十年も鍛えてきた技。

下5を「見事かな」で結ぶことも考えましたが、編み物歴数十年を讃えるのにはまだ物足りない。そこで「弘法筆を選ばず」のことわざにかけて、「弘法か」という下5を捻り出しました。

ちょっと母を褒めすぎたかな。視力、体力ともに落ちてしまって以前と同じようには動けないのですが、わたしよりもアクティブです。夫のあとを一歩下がってついていくような、古い昭和的な母です。無理せず1日でも長生きしてほしいです。

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