ADHDとか。その9〜親の話〜

ADHDが発覚して、それを受け入れられないのは本人が一番かもしれないが、親や家族も受け入れ難いことだろうと思う。

私は30歳になってADHDが発覚したが、そのことで親に対して「何故気付かなかったのか?」という恨みがなくもないし、実際それを言ったことがある。

しかし現在、この先もしかしたら親になるかもしれない自分が、親の立場になって考えてみたときに、もし幼少期や実家にいる間に発覚したときに、両親の間で「どっちのせいだ」みたいな話に発展しなくもないし、もともとそんなに仲良くもない両親なので、そんなことで口論されたとしたら、たまったもんじゃないだろうと思う。

親は私がADHDであることをあまり理解しようとしなかった。

「どうして出来ないの?」が口癖の両親には、自分の娘がずっと混乱していたことを信じ難かったのかもしれない。

先程の「どうして気付かなかったのか?」という問いに対し、母は「ずっと頭がいい子どもだと思っていし、頭がいいから気付かなかった」と言われた、また「それよりも身体が弱い子だったから、それどころじゃなかった。」と言われた。

私は幼少期は病弱で、アレルギー体質で、アトピーやアレルギー性鼻炎、喘息を持っていたし、年末年始は必ず発熱をして救急病院に行くような子どもだった。

確かにいつも病院に行っていた。

小学生の卒業式も発熱をして欠席したのだ。

母の回答に唖然とした。

私は母から「頭がいい」と褒められたことなんて全然なかったのだ。

そんなこと思ってるなんて全く思わなかったし、時々母とぶつかっては、何も言わぬ母に私が苛烈に怒り、母が困っていることがしばしばあって、私は母が自分に無関心なのだと思っていた。

しかし、多分母は私ほどに言葉が巧みでもなければ、言葉で何かを表す人ではないのだ。

去年の春、ストレスで自律神経失調症になり、過呼吸を起こしたり、食べても吐いたり、連日寝込むような状態で、言動も不安定で、毎日母にすがって電話をしては罵倒し、喧嘩をけしかけるような状態で、そのうちそれまで特段自分から連絡することのなかった父にも怒りをぶつけるくらい、本当に自分でも頭がおかしくなったのではないかと思った。

そのときに疾患がひどくなり、自分が「もうこのままいくと死ぬかもしれない」という妄想に取り憑かれたりもして、このまま死ぬなら最後に両親に甘えようと考え、札幌に住む母に「東京に来て欲しい」と訴えた。

最初は、うちは実家で飲食店を営んでいるので、母はあんまり気乗りしておらず、行きづらい、いつか行くみたいな態度だったのが、私の怒りを増幅させた。

そこで父に「母はどうにかこちらに寄越せ」と過呼吸を起こしながら訴えた。

父は狼狽えていた。父は私のそういう姿をあまり知らなかった。

母が東京に来る直前、来てからも私はずっと情緒不安定で、子ども返りのような状態になったり、母の航空券の手配のことで今度は弟と喧嘩になり、私は弟に絶縁宣言もした。

元々アダルトチルドレンの傾向があったのだが、ここに来てそれが爆発し、自分が自分の放つ業火に焼かれるような気分でその時期を過ごした。

そして、母は東京にやってきて、二人で病院に行った。

今まで散々母にはADHDについて話していたはずだった。

しかし、たかだか10分程度の診療での医師の言葉で、母はやっとADHDについて理解したようだった。

医師は「ヒグチさんの知的能力に関しては問題がありませんが、バラつきがあります。なので、任務遂行能力に欠けるところがあります。なので、今こうやって薬やカウンセリングによって、改善を図っています。」というような簡単かつ明快な説明をした。

母は、すごくホッとしたような顔をしていた。

そして医師は私に「お母様もきっと色々考えてくれてるわよ。」と言った。

母は病院のあとに「先生ってすごいね。よくわかった。」と言ったのだった。

私が今まで散々した説明はなんだったのか、という怒りがなくはないが、母はそこから急激にADHDを理解した。

たった一回の付き添い診療でかなり変わったのだった。

父や弟とはあまり話さないのでよくわからない。

ただ、母だけでも理解してくれるようになって、私は昔より楽になった。

そして、母は昔よりも私を褒めるようになった。

「よく頑張ってるよね。」と。

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