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表現について考える。

「表現とは何か」を考えさせられるような出来事が多く起きている。

韓国の慰安婦を表現した『平和の少女像』や天皇の写真を燃やしたものなど、物議を醸す展示をした、あいちトリエンナーレ『表現の不自由展、その後』は会期満了とならず終了してしまった。

その理由は「ガソリンを撒く」という脅しのFAXがあったからだという。

ちょっと前に京都アニメーションの放火事件も起きていて、普段なら単なる脅しと思える言葉も、タイミングがタイミングなだけに信憑性を持つ。

ある意味「ガソリンを撒くぞ」というFAXも表現と呼べるかもしれないし、先鋭化された表現がぶつかり合っているような気もしなくもない。

だんだんと「表現に良い表現、悪い表現というのはあるのだろうか?」とすら考えてしまうくらい、表現の自由とは?と考えさせられる。

まずは表現という言葉を調べてみよう。

ひょうげん【表現】

( 名 ) スル
① 内面的・精神的・主体的な思想や感情などを、外面的・客観的な形あるものとして表すこと。また、その表れた形である表情・身振り・記号・言語など。特に、芸術的形象たる文学作品(詩・小説など)・音楽・絵画・造形など。 「適切な言葉で-する」 「 -力」 「 -方法」
② 外にあらわれること。外にあらわすこと。 〔英語 representation や expression の訳語。ロプシャイト「英華字典」(1866~69年)に display の訳語としてある。また、「哲学字彙」(1881年)に presentation の訳語として「表現力」と載る〕
大辞林 第三版より

①と②と分けられているものの、実際は②の「外にあらわれること」「外にあらわすこと」という原始的なものから、①の外面的・客観的な洗練されたものへと昇華していくことが「表現」の道程なのかもしれない。

表に現すということは、赤ん坊から動物、ありとあらゆる生物が実際は行っている。

そこに優劣や善悪を規定するのは人間社会の話であり、各々は思うままに表現し、受け手の社会に裁かれるという、その摩擦によって人間社会用に洗練されていく、ということかもしれない。

それはそれで裁く受け手もかなりエゴイスティックなもののように思う。

ウケる表現のために

しかし、表現によって稼ぎたいとか、称賛を得たいなら、実際は仕方ない。

ウケる人がいなければ成り立たないのなら、ウケるものを作らなくてはいけないのだろう。

この「ウケるもの」というのが難しい。

誰にウケるか、というのはマスになればなるほど難しい。

万人に好かれる人がいないように、万人にウケるものというのはないからだ。

万人に好かれる、ウケることよりも、万人の目を引くことの方が実際は簡単なんじゃないかと思う。

ある人が、ある美大生の集団に対して「誰が一番奇抜なことをやれるかゲームをしているように見えた」と言っていた。

なるほど、それはよくわかるなと思う。

奇抜なことをしているという、個性と呼ばれるものが、実はステレオタイプなように見えるのは、作為があるからだろう。

作為が上手になるのは、表現として洗練されていくと同義かと言うと、私には疑問が起こることである。

本当は、私たちは作為が達者になるものを観たいのではなく、溢れかえって表に現らざる得ない、ドロっとした原始的な欲求を観たいのではないか。

ただ、その原始的な欲求を保ちつつ、洗練させるというのは、「達者」にならなくてはいけない。

人はそういう達者なものを芸術家と呼ぶのだろう。

「平和の少女像」を作る夫妻の想い

韓国軍のベトナム戦争虐殺、被害者を慰霊する銅像を建立へ 作ったのは「慰安婦像」の夫妻

https://m.huffingtonpost.jp/2016/01/25/vietnam-war-korean-massacre_n_9067140.html

これはハフィントンポストコリアの記事である。

これを読むと『平和の少女像』は日本への敵対心でもなく、自国を称賛するためのものではないことがわかる。

対のようにベトナム虐殺への慰霊の『ベトナムピエタ』も作られたのだ。

これを読むとこの夫妻が、それぞれの慰安婦たちの痛みを追体験し、表現に昇華したことがわかる。

願いは平和であり、傷ついた人々を風化させないことであり、未来に繋げていくためのものである。

遺り続けるために

そう、芸術の重要な要素の一つに「未来を見据える」「時間を経ても遺り続ける」ということがあると思う。

芸術家は昨日今日のことを吸収したとしても、自分が死んでいっても作品は遺っていかなくてはいけないという使命がある(それが決定的に私のやっているファッションとは大きな差だ)。

それが人間社会の一番の摩擦に耐えた表現ということなのだろう。

そこは政治的にならざるを得ない場合もあるし、政治的な動向をも超越しなくてはならない。

そうなると、精神性の純度を高めないと、ただの小手先の技術、作為を上手にするだけでは難しいところがある。

人の気持ちを揺さぶるというのは、やはり表現する者自身が震えていなくてはいけないのではないかと思う。

音が震えて振動し伝わるように。

村上隆は「怒りを持ち続けないといけない」と言っていた。

表現をする者は感受性が強く、自身が揺さぶられ続け、そこから自身を突き破り、表に現れていくのだろう。

それを続けるには、タフでなくてはいけない。

揺さぶられ過ぎて、自身の破滅に進む者だっているからだ。

表現は誰かを傷付ける

私のパートナーは「傷付けない表現はない」と言う人である(私は彼のそういうところが大好きだ)。

表現者自身が揺さぶられ、自我を突き破り表に現れたものは、他人をも揺さぶる。

その揺さぶりというのは、受け手に取って鮮烈な痛みでもあるのだろう。

また、表現はどんなに客観的に仕上げたとしても、表現者の主観が強く現れる。

それが鮮烈であればあるほど、誰かの主観とぶつかっていく。

「完璧な芸術は、たくさんの者たちが作った宗教美術にしかない」と私の大学時代の亡くなった恩師が言っていた。

人間個人単位では、やはり不完全な、一面的な表現でしかないのだろう。

それはその表現で汲み上げられない人間もいるだろうし、結局誰かを傷つけていくのだろう。

すべてが達者なわけではない

エヴァンゲリオンなどのキャラクターデザインや漫画を担当している貞本義行氏が今回のあいちトリエンナーレの『平和の少女像』のことを「キッタネー少女像」という言葉をTwitterで使ったことが問題になった。

貞本氏は「ただ像が美しいと思えなかった」というツイートもしていたけど、影響は大きく、貞本氏が関わったアニメを遠ざける人々も出ているようだ。

それは本心であったのだろうし、本心まるまんまだから、それに拒否反応を出す人が多いのだろう。

作品とその本人は切り分けて考える人と、そうじゃない人がいるけど、それは受け手の問題になると思う。

私自身、ものを作る身として、まったく作品と自分が切り分けられるとも思えないし、けれど作品と自分がイコールというわけでもないからだ。

フィルターを通すという時点で、やはりその人のパーソナルな部分は切り離せないようにも思う。

あとはそのあたり、受け手が自由に決めるべきだと思う。

表現はただ表現者の身体から放たれ、放たれたあとはもう受け手のものだ。

そこをコントロールすることはできない。

そして、コントロールできないことを貞本氏もわかっていて、その後のツイートで「どう思われても構わない」という主旨のツイートをしている。

表現に対する評価が自分の思い通りにいかないというのは、表現者の宿命だろう。

ただ、思うに、貞本氏は言葉の表現のプロではなく、絵を描くことのプロ(その中でも漫画というカテゴリの)である。

表現者はすべての表現に達者ではないし、それどころか、一つの表現を極めるために、そこが突出した結果、他の表現が稚拙になるということは多々ある(身体性も表現の一つである)ことは覚えておきたい。

不幸でなければ表現できない?

これは私事なので、ただの与太話として読んで頂きたいところなのだが、今年に入って私の環境は大きく変わってしまった。

まず、去年バイトで入った会社に、社員として所属するようになった。

長らく良縁に恵まれず、だめんずと呼ばれたのに、今年に入ってパートナーができて、来年には結婚することになった。

生活に追われ、依るところもなく不安定な、謂わば「不幸」な自分から、生活も安定し、凸凹あれど依ることのできるパートナーとの生活で、「幸せ」な状態になった。

私はその状態になって、今まで「不幸」に依存していたのではないか?と思ってしまった。

私は「不幸じゃなきゃ表現できない」とどこかで思っていた。

確かにできなくなった表現もある。

しかし、現在、新しい展示会への構想を練っているけど、楽しみで仕方ないし、お金のことを気にしないでいいので伸び伸びできる。

お金のことを気にする、つまり「ウケる表現」を考えるのは、私にはあんまり向いてないんじゃないかと思う。

言い訳といえば言い訳だけど、他人に何がウケるかばかり考えても、よくわからないし、正直楽しくない。

純粋に表現をしたい自分の気持ちがブレてしまう。

それより現在の環境でものづくりをした方が、自分にはずっといいもの(自分が納得できるという意味の)が作れるように思う。

不幸な状態から産み出される表現は、人を惹きつけるのかもしれない。

だけど、受け手もそればかりを求めるわけではないと思う。

自分が不幸でなくてはいけないと思い続けていたのは、受け手に対する自分の不信感もどこかあったのかもしれない。

もう少し肩の力を抜いて表現したものがどう評価されるか知りたいし、変わり続けることをありのまま表現したい気持ちもある。

そういう意味でただ自己満足ではなく、社会の摩擦を求めるのは、表現者としてまだ意欲があるのかもしれない。

というか、自分は少し疲れてしまったのだ。

ここ最近の刺激ばかり求めてだんだんと不感症になっていくような表現が。

もしかしたら、同じような人がいてそんな人たちと仲良くなれるような表現を、今自分はやりたいと思っている。

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