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【第4回】八角円堂を訪ねて

執筆:桂田 菊嗣
   大阪急性期・総合医療センター名誉院長
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 八角の円堂としては法隆寺の夢殿がよく知られている。聖徳太子の死後、太子を供養するために斑鳩の宮の住居跡に建てられた奈良時代のお堂である。
 奈良の興福寺にも二つの八角円堂がある。北円堂はもと奈良時代に建てられた美しい八角円堂で、調べてみるとこちらのほうが夢殿より先輩であった。興福寺境内でも隅のほうにあるが、創建当時は平城京を見渡せる絶好の地であったに違いない。北円堂は藤原不比等の一周忌に際して彼の菩提を弔うために建てられたという。平氏の南都焼き討ちで興福寺のすべての諸堂が消失し最初に再建されたのがこの建物である。

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興福寺北円堂 鎌倉時代再建の円堂であるが、創建時の面影を残し、簡素ながら無駄のない落ち着いた優雅さがある。現存する我が国の八角円堂としては最も美しいと思う。

 本尊弥勒仏坐像の脇に目的の無著・世親像が立つ。残念ながら天平ではなく何百年もあとの鎌倉時代は運慶ら慶派による木像彫刻である。無著世親は法相宗(興福寺の宗派)の原理を確立したインドの僧である。この像を眼前にすると、まるでその生きているような強烈な写実性に思わず立ちつくす。我が国の「人間」を彫った彫刻としては奈良時代の鑑真和上坐像(唐招提寺)以来の傑作であり、東大寺俊乗堂の俊乗上人坐像とともに鎌倉時代のリアリズムの頂点にある。

画④2無著世親

無著・世親像 再現する手立てのないなかで、袈裟を着た日本の僧の姿を借りて具現したものであろう。無着(右側、兄)はやや老人の風貌で右下方に目線をやり、求道者であると同時に慈悲の心を持つ優しい表情を見せている。世親(左側、弟)は壮年の風貌で眉をひそめて何かを眺め、真理を追究する強い意志が現れている。どちらも人間はこうあるべきという姿表情を表しているように見える(私の絵では到底実物の持つ人間性は描けない。作者に対する侮辱でもある)。

 運慶作品としては私の知るものに円成寺の大日如来と東大寺南大門仁王像がある。運慶を含めた慶派の作品には他にも傑作が多い。それまでの定朝をはじめとする京都派の仏師たちは、飛鳥奈良時代からの仏像をさらに和様に純化し、優雅さを特徴とした貴族趣味で一世を風靡していた。平等院鳳凰堂の阿弥陀如来がその例である。慶派の仏師たちはまるでそれに反発するかのように伝統から脱皮して自由な姿態をほしいままにした。時には筋肉質で男性的に、時には表情に精神性を秘め、鎌倉以後の新しい仏師集団となった。とくに運慶の作品は人間的な悩みや欲望を確かな写実性で表現している。

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金剛力士像(東大寺南大門) 八角円堂から話題がそれるが運慶と言えば東大寺の仁王さんに触れざるを得ない。重源によって再興された日本最大の東大寺南大門に立っている金剛力士像で、運慶を総指揮者として慶派の仏師たちが制作した渾身の巨像である。この数年後に同じ作家が無著世親像を彫ったとは信じがたい。

 北円堂の南に南円堂がある。創建自体も平安初期で北円堂よりかなりあとであったが、焼失後の再建も江戸時代というからまだ新しい。堂内に大きな不空羂索観音と法相六祖の坐像がありいずれも康慶(運慶の父)らの作である。三眼八ぴの不空羂索観音は東大寺法華堂にもあるが、こちらは坐像であり肉付けよく若々しい。法相六祖像は法相宗の6人の高僧をしのんだものである。法相宗はインドに起源し遣唐使によって伝わって奈良時代に大いに隆盛した。いまは興福寺や薬師寺が本山になっている。康慶は子の運慶や弟子の快慶など慶派一門を率いて東大寺や興福寺の復興事業にあたった。南円堂は鎌倉彫刻の幕開けということにもなる。

画④4南円堂

興福寺南円堂 まだ新しい江戸時代の建物であるが、北円堂が参考にされたのかどうか。日本最大の八角円堂で、朱色が映える。正面に拝所が付いている。堂の周囲には藤原氏の象徴である藤が季節になるとみごとな花を咲かせる。

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行賀玄賓坐像 南円堂内の法相六祖像のなかの二人を選んだ。向かって左が行賀、右が玄賓である。いずれも髪を剃り、厳しい表情で趺坐または立膝している。過剰なまでの写実的表現である。同じ興福寺の十大弟子像を思い起こすがあちらは奈良時代の塑像の立像である。

 かって私は奈良になぜ鎌倉時代の仏像が多いのか訝しんだ。京都では京都仏師が主流のなかでうだつの上がらなかった慶派の仏師たちは、南都焼き討ち後に復興の兆しがあった奈良の地に活躍の場を求め、ここに多くの作品を残すことになったのを知った。彼らは以後奈良仏師と呼ばれている。
 奈良時代建立で現存する貴重な八角円堂が五條市の栄山寺にもあった。近くのゴルフ場へ通っていた時に知って訪れた。奈良ははるか南方の吉野川(紀の川の上流)に近い地で、この田舎が古代から開けた地であったのだろう。栄山寺は由緒ある藤原南家(不比等の長男の家系)の菩提寺で、法隆寺の夢殿と共に現存する奈良時代の貴重な遺構である。
 八角円堂は鎮魂のためのストーパや仏塔(仏舎利塔)が発展したものであり当初はどこからでも拝める円形であった。木造では円形を作りにくいからであろうがなぜ八角なのか。八には仏教的意味があるともいう。仏舎利(釈迦の遺骨)は八方に送られた、八大菩薩、八大竜王、八部衆(興福寺)や八大童子(金剛峰寺)など八の数字が多い。ひょっとしたら四角の角を取ると八角になるので造形しやすかったというのが事実かも知れない。

画④6栄山寺八角堂

栄山寺八角円堂 奈良市からはるか遠く五條市の何もないような過疎地に国宝よと威張ることもなく建っている。素朴ながらやはり無駄のない造りのお堂である。音無川(吉野川)を眼下に望むのどかな地である。

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【著者プロフィール】
救命救急医療の実践のかたわら、三次救急医療機関(のちの救命救急センター)の確立とわが国の救急医療体制(一次・二次・三次の機能分担)成立への模索、同時にプレホスピタルケア(いうならば病院前の救急体制)の拡充のための救急隊員教育の体系作り、その延長上での救急救命士教育へのかかわり
【経歴】
昭和35年  大阪大学医学部を卒業
昭和37年  インターンの後、大阪大学医学部附属病院第二外科にて研鑽を 積む
昭和42年  同病院特殊救急部創設に参加(救命救急医学の研究・診療に従事)
昭和49年  大阪府立病院部長に就任(全国初の救命救急センターを設立、重篤な救急患者の診療にあたるとともに、救急医療体制の整備、全国救急隊員教育の拡充等に貢献)
平成11年  同病院病院長に就任
平成14年  大阪府北大阪赤十字血液センター所長に就任
 現在は、大阪府北大阪赤十字血液センター検診業務、救急救命士養成教育、老人介護保健施設管理などに従事

2020年に発刊された『救急救命士標準テキスト第10版』の編集顧問を務める

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近著:救急救命士国家試験問題集ではなく、救急救命士という職業人のためにつくられた、今までにない”新しい”問題解説集

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へるす出版 『救急救命士実践力アップ119
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