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『ビューティフル・マインド』の中のエゴと愛

『ビューティフル・マインド』

久しぶりに映画を見てたくさん泣いた。『ビューティフル・マインド』を久々に見たのだ。この映画は2001年の映画で、昔に確か観たことがあると思ったが、ストーリーを全然覚えていなかった。

あなたは『ビューティフル・マインド』を観たことがあるだろうか? 昔の映画なので、観た人が多い前提での話になっていて、観たことがない方はネタバレになるので、ご注意ください。

幻覚への恐怖と現実へのチューニング

この映画を観ているうちに、「私が長年恐れていたことは、これだった気がする」と、昔の恐れを再体験するようだった。なんだかぞわぞわした。

私が、幼い頃から体験してきた不思議な体験や、科学では説明できないことを、誰にも素直に話せなかったのは、「私が見ているものはみんなには見えない。そして、私は狂人扱いされ、孤立する」という恐れを、なぜか強烈に持っていたからだと思う。

印象的なシーンがある。終盤にさしかかるシーンだ。映画の主人公であるジョン・ナッシュは天才的な能力を持ち、数学学者の道を歩むが、統合失調症を病んでしまう。闘病は長いのだが、彼はその後、病気(幻覚)を抱えながらも教鞭を取ることになる。授業が終わって、教室の外で話しかけてきた男性を見て彼は、まず振り返り、そこにいた生徒に尋ねるのだ。「この人が見える?」と。つまり、彼は目の前の男性が自分だけに見えているのではないかどうかを確認したわけだ。

私も彼と同じことをやってきた気がするのだ。「みんなが信じる現実世界がどこか?」「何が普通か?」を探し、チューニングしながら私は生きてきた。確かに一般的ではないだろうけれど、同じようにチューニングしながら生きている人は、世の中に確実に存在する。

「現実はどこか」を探し、自分を抑える日々

実際には、私は一般的に見える人間だ。自分の不思議な体験を話すことを自粛していたからか、狂人扱いされたことはない。あなたが世間の一般人を想像したら、私はその中に入っている。まあ若い頃は「変わっている」と言われたけれど、それくらいだ。そこからも努力して、擬態しながらうまく溶け込み、しまいには「むしろ、一般的な人より常識的な人の印象だよ」とまで言われた。

私はあえて努力してきたのだ。「どれが一般に言われている現実で、どれが空想なのか。私の感覚の中で、どれがみんなには感じないことなのか」を注意深く観察して、みんなが現実と言っている世界に、自分を合わせようと努力した。一度狂人と言われると、もう私の言葉は誰にも聞いてもらえなくなるからだ。

でも、違ったのだ。

私が生きていくために必要なアドバイスだと信じ切っていたものは、《エゴによるささやき》だったのだ。もし、今の私が過去の私に出会ったら、「その不安に耳を貸さずにいていいよ、あなたのままで大丈夫だよ」と必ず言うだろう。

エゴが人格を持つ夢

主人公のジョン・ナッシュが振り回され、苦悩したことの全部も、〈エゴのささやき〉だとすると、うまく説明できる。彼の場合、そのエゴは人格を持って彼の人生に登場人物として現れる。それぞれ、エゴ①、エゴ②、エゴ③だ。彼らは「世の中を信じるな」「こちらが本当だ!」「お前は騙されている」と叫び続けるけれど、その世界も幻想だ。

幻想の世界で、エゴの声に耳を貸し、そこからもう一段さらに幻想を見ると、統合失調症と診断されてしまう可能性があるのかもしれない。愛とは真逆の方向だ。彼の病気の原因は、いろいろあるのだろうけれど、エゴの自分を自分の外に見ている分、彼はとてもピュアな人間として存在している。

愛への選択

ジョン・ナッシュは精神病院への入院し・壮絶な治療と挫折・投与付きの回復、そして統合失調症の再発を経験する。再び幻覚の世界に入った彼は、幻覚の矛盾によって、ようやく自分が見ているのが現実ではないと認識する。そして自分が誰にも危害を加えないようにするために、妻を家から出ていかせようとする。大切なシーンだった。彼女は一旦出て行こうとするけれど、決心して彼の部屋に戻ってくる。

彼女は言うのだ。「何が本物か知りたいでしょう?」。彼の頬を大切そうに触り「これ」と示す。彼にも自分の頬を触らせ「これ」と同じく示し、それからその手を心臓の上に移動させて「これ」と言う。まさしくこのシーンは、夫婦でエゴからを選択したシーンだった。〈彼が見ていた幻覚〉と対極である〈血の通った愛〉によって、幻覚ではない方向を夫婦で選ぶ決心をした美しい場面だった。

耳を貸さないトレーニングを続ける

その後も彼は統合失調症を完治させたわけではない。彼の言った言葉を借りると、「ダイエットしているように、耳を貸さないでいる」ことで、現実にいるようにしている。彼がまさにエゴのささやきに耳を貸さない努力をしていくのだ。彼はエゴが幻想であることを知り、そこに惑わされない自分を選んでいった。

その努力を始めて、彼が幻覚の声に耳を貸さなくなった時、人格を持ったエゴ達は行動を激しくした。彼を怒鳴りつけ、脅迫し、同情を誘う。あの手この手で、彼を幻覚の世界に呼び戻そうとしたのだ。

私たちが、エゴの声に耳を貸さなくなるときも、実は全く同じことをする。私たちの不安をあおり、「こうしないと、お前は見捨てられるぞ」「こんなことが起きるけどいいんだな」と対応を迫る。

エゴは、この幻想の消滅が、自分の消滅だと知っているからこそ、あらゆる手を尽くして、私たちに分離の世界を選ばせようとする。選んだつもりがなくても、ふと気づくと、いつもの調子で毒づいたり、失礼な態度を取ったり、相手を非難しているのは、エゴの誘いがとても強力だからだ。私たちのほとんどはエゴのささやきが作る世界を、実在する世界であり生活だと認識しているし、これが幻想なのだと認識している人でも、反射的に自動的に、愛ではない方を選んでしまうことはよくある。

実在の人物の体験から愛を学ぶ

大丈夫。心配しなくてもいいらしい。私たちは過去を赦す力もあるし、今どちらを選ぶかの選択権を持っている。私たちは愛を選択することで、自他を赦す取り組みを続け、少しずつ、真実を選ぶ時間を多くしていけばいいのだ。

ジョン・ナッシュは実在した人物で、晩年にはノーベル賞を受賞している。彼が病を持ちながらも、愛を選択していったそのプロセスは尊敬に値するし、彼を受け入れ、彼の実績を評価した人たちにも心打たれる。

この映画自体は結構フィクションも入っているようだけれど、私たちに大きな道しるべとなってくれる映画だった。どんどん悪化すると言われた統合失調症は完治したらしいし、ノーベル賞受賞時に言った妻への感謝のスピーチも事実みたいだ。彼が実際に愛を選んだ結果としたら、私たちに素晴らしい道を見せてくれたと思う。
とにかく、映画はなぜ初回の印象が薄かったのだろうと、首をかしげるほど良かった。以前観た方も、愛とエゴの視点から見てみると、きっと発見があると思う。

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