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95.人、人と人

ブレない人は格好良いとか言われることも よくありますが、実際のところ、生きていると誰でも毎日心が揺らぐことがあるのではないかと思います。

それも他者と交流する機会が増えると、日々、いろいろな人からの刺激を受けて揺らぐことも多岐に渡ると思います。

実は自分一人だけの毎日だったとしても知らず知らずのうちに“このままで良いのだろうか”とか“どうしてこういう生活をしているんだろう”とか揺らいでいるのかなと思います。

ここで言う揺らぎは、動揺とか迷い、葛藤のことです。

動揺は心や気持ちが揺れ動くこと、平静を失うこと、社会などが秩序を失って乱れていること…といった意味があります。

迷いは、心が乱れて判断がつかないこと、心が煩悩に乱されて悟り切れないこと、紛れること…といった意味があります。

葛藤は人と人が互いに譲らず対立して啀み合うこと、心の中に相反する動機、欲求、感情などが存在してそのどちらを取るか迷うこと…などという意味になります。

対人支援のお仕事では、揺らぎの中でも葛藤に直面する場面が多いのかなと思います。

私の場合はまず、仕事をしている時の自分…要するにソーシャルワーカーとしての心と、普段の有りの儘の自分自身の心の両方と素直に向き合う時間が葛藤する時間ということになります。

それは自己覚知の時間でもあります。

最初は物凄く嫌な時間でした。

でも、それはほぼ毎日のように襲いかかってきます。

自分自身の見たくない部分を見ることであったり、それを見ると“マジでこれが自分か”と苦しみ恥ずかしくなるわけです。

そして、その葛藤は支援の方法に関することや自分の成長に関すること、支援の対象となる人との関りによって自分の心が揺らいだことなど…広がっていきます。

結局のところ、待ったなしの場面の連続の中で、“これで良かったのかな、違った方法が良かったのではないか”という葛藤を日々するわけです。

葛藤は人それぞれ、経験年数や経験値の違いもありますし、内容や悩み方も違うはずです。

その中で、葛藤の起源に対して周囲の人と相談してでもきちんと向き合うことで、これまでとは違う新たな自分に気付けるのかなと思います。

葛藤することで、人生を前に進めることができると思います。

このように対人支援をするお仕事をしている人は、葛藤に限らず、困りごとを抱えている当事者に対する援助で、かなり揺らぎます。

“もう私のことなんか放っておいてほしい。もう死にたい。私に生きてる価値はない” なんて言われた場合、どのように返せば良いのでしょうか…。

“そんなこと言わないで、一緒に頑張りませんか”…良いですね。

“あなたは充分生きる価値ある人だと思いますよ”…これも良いんじゃないですか。

“どうして、そんな気持ちになったのですか?”…これだってありないんじゃないですか。

“生きる価値がないと思うくらい辛いのですね”…これだって良いでしょう。

“あなたは今、生きる価値がないと感じているのですね”…これも悪くないでしょう。

何も言葉を返さず、しばらく沈黙してしまうのだって素晴らしい方法だと思います…下手に返すより良いでしょう。

他にもあるでしょうが、1つ言えるのは、これまでのその人の暮らしやその人との関係性などによって、どれが適した声掛けなのかが変わってきます。

また、選択した返答が本当に適した正解だったかどうかは誰も決めることができません。

その時には良い影響を与えなかった場合でも時間が経ってから、“あの時のあの言葉で助かりました”と言われるぐらいの良い影響に変わることもあります。

こうしたことがあるので、援助をしている人は常に揺らぎます。

揺らぎを感じた支援者本人は、そんな迷いや葛藤を感じることに未熟さを感じたり、自分を責めたりすることで苦しむことが多いわけです。

こうした面から、揺らぎは良くないと思ってしまいがちですが、その根底には、当事者への向き合い方は1つではないと複数の方向性を見出していて、今後の関わりをより良いものにしていきたいという信念があります。

逆に、揺らぎが全くなくて、どんな相手にも、どんな時も同じ回答をする人がいたとしたらどうでしょうか?

首尾一貫した素晴らしい人と思うでしょうか…。

私はそうでもないと思います。

人は生き方を模索しながら、揺らぎを繰り返すことで人生を進めるものだと思います。

そのような 生活や人生に関わる社会福祉の実践も、常に正しい答えをあらかじめ用意することはできません。

生きる時代によって社会が人々に要請する生き方も違います。

いろいろな挫折や葛藤、社会の矛盾や変動と関わる中で支援者も迷い、悩み、葛藤します。

実践の中で経験するこれらの揺らぎをがあるから、我々それぞれの生活や人生の持つ現実や本質を初ハッキリと捉えることができるのかなとも思います。

これらの様々な揺らぎと丁寧に向き合うことによって、生活や人生を構造化している社会の仕組を捉えることができるのではないかと思います。

揺らぐことこそ、当事者に合った対応を導き出す為に適した反応なのだと思います。

確かに自分の問題ではあるのですが、相手がいることで葛藤するわけで、1つの正解はないと考えられ、その場合はできる限り一人で抱え込まないことが大切になってきます。

対人支援のお仕事であるソーシャルワーカーは、揺らぎが多い職種なので、スーパービジョンが必須であると言われるわけです。

スーパービジョンは…、

“援助者の専門的実践についての指導や調整、教育、評価する立場にある機関の管理運営責任を持つ職員が行うもので、スーパーバイジーとの信頼関係を基底にその人の仕事を管理し、教育し、指示することによって専門家としての熟成を図る”

…ものです。

方法としては、事例または課題を題材にしながら、双方向のやり取り(口頭わ文書等)で進められます。

スーパーバイザーは、スーパービジョンを行う人です。

上記の定義でいえば、“機関の管理運営責任を持つ職員”を指します。

スーパーバイジーは、スーパービジョンを受ける人で、これから専門家としての熟成過程にある人です。

スーパービジョンは、一人前の信頼できるソーシャルワーカーとして機能してもらう為に行う様々な支援です。

新しく職に就いた人は組織に入ってきてもすぐに仕事ができるわけではないので、業務を全うする為に必要なことを身につける為の方法がスーパービジョンです。

その必要なことも、その組織と個人の背景によって異なりますし、その時に担当するケース内容によっても要求されるものが変わるので、それに合わせて変化していきます。

必要なことを必要な時に補うのもスーパービジョンの1つの要素で、決して画一的なものにはなりません。

揺らぎに直面した場合、私たちは必ずしも上手な言葉、明確な助言を伝えられないこともあります。

しかし、少なくても、揺らぎを否認しないで、回避もせず、その場凌ぎの誤魔化しなどではなく、真っ正面から向き合おうとする真摯な言葉や姿を相手に伝えることはできるかもしれません。

そのような揺らぎに直面した時の言葉や姿勢によって、その人との関わりを育て、深めることもできるのかなと考えられます。

これも人相手なので相手次第ではありますが…。

揺らぐことは自己知覚の起点になります。

それは成長の1歩です。

でも、バーンアウトに繋がるリスクもあるので、誰かに相談することは大切ですし、助けてもらうことは恥ずかしいことではありません。

支援を受けているその人は揺らいでいます。

支援者も揺らぎます。

揺らぎながら向き合っている姿を当事者に見せたり伝えることで揺さぶり合う関係性になります。

お互いに揺さぶり合うことを通して形成していく関係性が、ノーマライゼーションを具体化していく為に必要な流れになります。

つまり対立や葛藤を含めて、緊張した力関係の中で心の繋がりを形成していくことが求められます。

この段階がないと共有化や合意形成などは難しくなってきます。

多様な人が社会で共に生きていくには、固定しがちな力関係を揺さぶって、そこから生まれる揺るぎを活用しながら真の合意形成を図ることが重要になってきます。

表面上の馴れ合いでは多様性のある関係性は成り立たないと考えられます。

そして、社会の仕組や構造との軋轢から揺らぎが生じる場合もあります。

ある特定の当事者の揺らぎに向き合うことで、同じような生きづらさを抱えている多くの人の揺らぎに対する理解に繋がる場合もあります。

社会の変革はそこから始まります。

実践では、まず当事者の生活や人生に関心を持つ力や感情移入する力が求められます。

しかも、生活や人生はひとりひとり個別的であり、それはその時々でどんどん変わっていきます。

家族関係、社会関係にも広がり、更に過去や未来との繋がりもあります。

その為に、簡単には理解できないような複雑さや多層性を持っています。

また、当事者の生活や人生には問題や課題も存在していますが、健全な側面、可能性を秘めた力も持っていたりするので、これらに対して関心を向けることも欠かせません。

更に、支援者は自分と向きあう力も不可欠です。

しかし、支援者自身もひとりひとりが個別的であり、どんどん変わっていくので、自分と向き合う作業にはおそらく結末はありません。

死ぬまで続くということです。

そもそも、障がいや病気など、多様な生きづらさを感じている人の存在自体は社会問題ではありません。

社会がそうした人たちに適応していないことが問題なわけです。

嫌われたら、自己否定するのではなく、万人に好かれる人はいないと再確認したということです。

嫌いだと言われたら、意見として受け止めるぐらいで良いわけです。

失敗したから、向いていないということにはなりません。

それぐらい気楽に、あくまで人対人のお仕事であったりボランティアです。

自分を追い詰める必要はありません。

もちろん、たくさん学び経験して成長しながら最善を尽くすのは当然のことですが、あくまで支援者も人ですから。

誰もが苦しい時にはもっと気楽に“助けて”と言える社会…相談できる社会が求められるのかなと思います。

…というところで、こんな感じで本日の ふくしのおべんきょう を終了します。

写真はいつの日か…札幌市内で撮影したものです。

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