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【小説】『マルチェロ・フォスカリーニのカーニヴァルの最悪な一週間』 3. 金曜日


 翌日。
 マルチェロは寒さにぶるっと身を震わせ、目を覚ました。
 窓辺の光からして、もう昼に近いようだ。
 昨夜はコーヒーを四杯も飲んでしまったせいで帰宅してもなかなか眠れず、明け方にようやく眠ることができたのだった。

 マルチェロはむくりと起き上がり、緊張しながら左頬に手をやってみた。
昨日ほどの痛みはないが、まだ固い。口の中に何か物を入れているようにも感じる。おそるおそるベッドから出て鏡台に歩み寄った。
 鏡に映った自分の頬は、赤くはないがまだ腫れが引いていない。
 マルチェロは整った眉尻を下げ、深いため息を吐いた。今日こそは舞踏会にいこうと思っていたのに。カーニヴァル期間最後の金曜日。おそらく今日も広場では様々な催しが行われていることだろう。

 暗い顔で食堂へ下り、口の右側でパンを咀嚼していると、召使いがお盆に手紙を乗せてやってきた。

「マルチェロ様宛でございます」

「私に?」

 エドアルドからの謝礼だろうか。マルチェロは受け取ると中身を開いた。

“マルチェロ様

至急お伝えしなければならないことがあります。どうか本日金曜日の正午に、リアルトの教会の前に来てください。とても大事なことです。
あなたの友人より”

 なんだこれは。マルチェロは眉を寄せた。差出人の名前はどこを探しても見当たらない。筆跡からして貴族の女性ではないな……行く価値はない。
 そう思ったとき、すぐ後ろの耳元で「行きなさいよ」と声がかかり、驚いて思わず振り向いた。

「あああ、姉上っ! 人の手紙を盗み見るのはやめていただけますか!」

 いつのまにか後ろにいた姉のルイーザは、腰に手を当てて立っていた。

「どうせ筆跡で判断して行かないつもりなんでしょう。だめよ、大事なことって書いてあるんだから」

「……姉上には関係ないでしょう」

「ほんっと器の小さい男ね。とにかく行きなさい。ひょっとしたら貴族のご令嬢からの呼び出しかもしれないじゃない」

 マルチェロはばかにしたように鼻で笑った。

「こんな字が? 万に一つもあり得ないでしょう。貴族の家の者ならもっと美しい字のはず。こんな字を書く女なんて、たとえ名門でもこちらからお断りです」

 ルイーザは弟に憐れむような視線を向けた。

「あんたねえ。そんなだから毎年ご令嬢に振られるのよ、わかる? 今回は顔を殴られただけでよかったけど、刺されてもおかしくないのよ。いつになったら成長するんだか」

「な、殴られたのは別にそういう理由じゃ……というか姉上に言われたくありませんよ、私はただ……」

「お黙りっ! つべこべ言わずに、さっさとリアルトに向かいなさい!」

 ルイーザの金切り声に追い立てられて、マルチェロは食事もそこそこに、仮面とバウタ、タバッロ、帽子を手に持ってポーチへ飛び出した。
 水門の玄関口で、いつもの船頭がにやついた笑みを浮かべていた。

「行き先はリアルト橋の方でいいですかい」

「……聞こえていたのか」

「あそこまで大きな声だと流石にね」

 マルチェロはため息を吐いたが「……そうだ、リアルトまで頼む」と言ってゴンドラに乗り込んだ。

「旦那」

「なんだ」

「俺も筆跡で判断するのはどうかと思いますよ」

「うるさいっ! いいからさっさと出せ!」

 マルチェロはバウタや仮面を身につけながらわめいた。くそ、絶対に新しい船頭に替えてやる。


 リアルト橋のたもとは、カーニヴァルのために普段より一層賑わっていた。
 昼時なので、出店は食べ物ばかりが目についた。ツグミの串焼きやポレンタ、砂糖のかかった揚げたてのフリトーラ、カスタニョーレ、またリボン状の形をしたパイ生地のようなガラニなど、この時期ならではの菓子も売られている。
 おいしそうな匂いに腹が鳴りそうになるのを、マルチェロはぐっと堪えた。
 姉に追い立てられたせいで朝食もそこそこに屋敷を出てしまったのが悔やまれる。だがこんな出店で私は食べ物を買ったりなどはしないぞ。

 マルチェロは仮面の下で仏頂面をしたまま教会を目指した。六時課の鐘が鳴り始める。約束の時間だ。
 教会の前に来ても、マルチェロはバウタや仮面を脱ぐつもりはなかった。つけるなと手紙に書いてあったわけでもない。ちゃんと言われた通りの時間に来たのだ、文句はあるまい。マルチェロは教会の出入り口の前で仁王立ちし、踏ん反り返っていた。
 一体この私を呼び出したのは誰だ。目の前の広場には仮装した人々の姿があったが、こちらを伺うような人物や誰かを探しているような者はいない。ついでにひとりで暇をしていそうな貴族のご婦人も見当たらなかった。悔しいが、今年のパートナーを見つけるのは、ほんとうに諦めるしかなさそうだ。
 そのときだ。

「マルチェロ? マルチェロでしょ」

 急に後ろから名前を呼ばれ、さっと振り返る。
 そこにいたのは、昨日もその前も会った人物で、マルチェロは仮面の下で口をへの字に曲げた。

「……またお前か」

 彼女ーークリスティーナは、空色のドレスの上にタバッロとバウタを身につけ、仮面は顔につけずに三角帽子の上に乗せていた。貴族の流行りのスタイルなど真似したところで、所詮娼婦であることには変わらないくせに。
 マルチェロはふんと鼻を鳴らした。

「お前と構っている暇はない、私はーー」

「呼び出されたんでしょう」

 クリスティーナがそう引き継いだのに、マルチェロは眉をひそめた。

「なぜそれを知っている? まさか、お前も呼び出されたのか」

「いや、そうじゃなくて……」

 クリスティーナはえへへと笑いながら言った。

「ごめんなさい、手紙を書いたのは私なのよね。来てくれてありがと」

 マルチェロはくわっと目を見開いてから、「姉上め」といまいましいそうに呟くと、くるりと身を翻してすたすた歩き出した。

「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」

 クリスティーナが慌てて彼の腕を掴むが、マルチェロはそれを振り払おうとする。

「ばかばかしい、姉上に言い聞かされてここまで来てしまった。お前とわかっていたら絶対に来なかったのに」

「ほーらほら、そう言うと思った! だから名前を書かなかったのよ」

 マルチェロはそのまま歩いていこうとしたが、クリスティーナは手を離そうとしない。

「いいから聞いて! 手がかりを見つけたんだから。まずは昨日サン・ベネデット劇場にいたプリマドンナのことよ」

「誰が聞くか。お前と関わるとろくなことがない」

 聞く耳をもたないマルチェロに引きずられながらもクリスティーナは言った。

「あそこにいたプリマドンナだったのよ、私が一昨日の夜に壁穴から見たって人は! ダンドロ屋敷にいたのは彼女だったの!」

「……なんだと?」

 マルチェロは動きを止めて振り返った。クリスティーナは真剣な目で続けた。

「間違いないわ、この目ではっきり見たもの。あの金髪にあの青い目、絶対に夕べの女優だったわ」

 あのソフィアが……? 彼女がダンドロ屋敷の八の間にいたというのか。一体なぜ。

「まさか、あの女が身を寄せているのはダンドロ屋敷なのか……?」

 立ち止まって考え込むマルチェロに、クリスティーナは腕を引いた。

「それだけじゃないの、見てもらいたいものがあるのよ」


 クリスティーナがマルチェロを連れていったのは、商店の並ぶリアルトの奥の通りだった。そこは仮装した人々に加えて買い物客の波で賑わっていた。
 マルチェロはその勢いに押されて何度も転びそうになったが、クリスティーナの方はその中をものともせずにマルチェロの腕をしっかり掴んだまま突き進んでいった。
 ようやくクリスティーナの目当ての店の前まで来る頃には、マルチェロは息も絶えだえあった。

「ここよ」

 マルチェロは顔を上げた。
 仕立て屋だ。しかもボロボロの看板がぶら下がっている。というより、この辺り一帯の店はどれも似たようなものだった。

「一体、な、なんだって、こんな……」

 息を切らしながら言うマルチェロの文句を最後まで聞かずに、クリスティーナは彼の腕を引いて店に入った。

 店の中は温かく、たくさんの布やら服やらがぶら下がっていた。客は数人いる程度だったので、ここも人混みだったらどうしようと不安だったマルチェロは、ほっと胸をなでおろした。
 奥に座っていた老人がこちらをじろりと見た。店主らしい。クリスティーナは「こんにちは」と小さく言い、マルチェロは頭の帽子に手をやった。

「ご主人、昨日のタバッロを見せていただけるかしら、ほら表裏の……」

 クリスティーナがそう言うと、老人は小さく頷き、無言で後ろの棚から丁寧にたたまれたタバッロを取り出した。

「ありがとう。マルチェロ、これよ。これが答えだったの!」

 クリスティーナは店主からタバッロを受け取るとそれを目の前に広げてみせた。
 マルチェロは眉を寄せた。見たところなんの変哲もない、黒のタバッロだ。

「何が言いたいのかさっぱり……」

 マルチェロはそう言いかけて、言葉を途切らせた。タバッロの内側をクリスティーナがバサッと裏返すと一面真紅だったのである。表は黒だが、内側には赤い布が縫いつけられているのだ。

「これは……裏返せばどちら側も使えるということか!」

 マルチェロが目を丸くさせたままタバッロの表裏をめくりながら感心した声を出すと、見ていた店主は胸を張って言った。

「その手のタバッロは去年からの流行りですぞ。わしの店が作り始めたのを他の店が真似したんです」

マルチェロは目を細めた。つまりどこの店からも仕入れることができるというわけだ。クリスティーナはマルチェロにだけ聞こえるように言った。

「これだったのよ、一昨日の夜、私たちがいた部屋に忍び込んできたあの密偵みたいな男! 彼はきっとこういうのを着ていたにちがいないわ。わざわざあの部屋でタバッロまで脱いでいたのは、屋敷の召使いや門番を欺くためだったのよ。ほら、ダンドロの主人が誰かを探してるみたいだったでしょう」

 マルチェロもそれはよく覚えていた。ダンドロ氏は赤胴色のタバッロの男を追っているようだった。

「もしその男がこのタイプのものを着ていたとすれば、リドットに入るときは赤胴色のタバッロだったのに、私が見た後ろ姿は黒だったということが可能になるのか」

「ええ。ダンドロの主人が警戒していた男は、やっぱり私たちが見たあの覗きの男だったんだわ」

「そうとわかれば、一刻も早くダンドロ様にお伝えしなければ」

 マルチェロはその場で金を出してタバッロを購入した。クリスティーナが「え、わざわざ買うの?」と言ったのを無視して店を出る。
 早くダンドロ屋敷へ……と一歩踏み出そうとしたところで、通りの人混みにドンと押され、転びそうになった。

「う、わあああ」

 やみくもに振り回した腕を後ろからがしっと捕まれ、マルチェロは態勢を立て直した。

「飛び出すなんて危ないわね」

 クリスティーナは後ろからマルチェロの腕を引いて人の波から離してくれた。

「流れに沿って歩かなきゃ。それに運河に出るより近道があるわ、こっち」

 すたすた歩くクリスティーナに腕を引かれ、マルチェロはただ必死でついていくしかなかった。人を避け、階段を降り、橋を渡り、ようやく人の少ない路地に入った。マルチェロは息を切らしながら言った。

「お前、なんでこんな道を知っている。公認娼婦はカーニヴァル期間以外に出歩くのには相応の許可がいるのではなかったか」

 クリスティーナはちらりと後ろを一瞬だけ振り向いて小さく笑った。

「生まれた頃からランパーネ邸にいるわけじゃないもの。知ってるでしょう、私は駆け出しなの。ちょっと前までは娼婦じゃなかったのよ」

 そうだった。
 マルチェロは彼女が新人であったことを思い出した。それなら生まれを尋ねて娼婦になったことをからかってやろう。
 しかしそう思ったのと同時に、自分の腕を引いてくれている彼女の背中が、急に小さく見えた。やむを得ない理由で今の職業になったのだろう。
 マルチェロはそれからは黙ったままで、ただ彼女の行く方向に従って足を進めた。

 ダンドロ邸の玄関前は、夜会が開かれていたときとは違って人の姿はなく、祭りで人々の騒ぐ声が遠く聞こえた。
 マルチェロはすぐに扉を叩こうとして躊躇った。
 カーニバル期間とはいえ、込み入った話をするのに仮面をつけたままではまずいだろうか。いや、この屋敷自体には入る際は必ず仮面をつけろとダンドロの主人から言われている。だからこのままの方が良いのだ。
 クリスティーナが「ねえ、なんとなく思うんだけど」と言った。

「タバッロの事は話すべきだと思うわ。でも、プリマドンナのことは何も言わないでね」

 マルチェロは眉を寄せた。

「なぜだ。もし彼女がこの屋敷にいるとしたら、彼女はダンドロ様に言わないまま劇場に出向いているかもしれないのだぞ。とにかくお知らせせねば……」

「ダンドロの主人はあのとき、八の間に彼女がいるということを隠したがっていたわ。私たちには知られてほしくないみたいだった。余計な詮索をしたと疑われてしまうかもしれないじゃない」

「ダンドロ様に隠し事などできるか。真実を話すまでだ」

 ふんと鼻を鳴らしたマルチェロは、一度息を吐いてから今度こそ玄関の扉を叩いた。
 少ししてガチャリと扉が開き、背の高い召使いが顔を出した。

「なにか御用でしょうか」

 マルチェロは咳払いをした。

「私はマルチェロ・フォスカリーニだ。ダンドロ様に至急お伝えしたいことがあるので、取り次ぎ願いたい。約束はしていない」

 マルチェロの堂々とした態度に男は瞠目したが、「お待ちを」と言って扉を閉じた。
 クリスティーナが眉を下げた。

「……そうだったわね、貴族は普通、約束しないと相手の屋敷を訪れないんだったわ。大丈夫なの?」

「急ぎの用事だ。少しでも早くお知らせした方がいい」

「そりゃあそうだけど。なーんか嫌な感じがするのよね……」

 そのときガチャリと扉が開いた。先ほどの召使いが現れる。彼は扉を大きく開けた。

「どうぞ、お入りください」

 マルチェロとクリスティーナは召使いに案内されて屋敷の中へ入っていった。


 廊下を歩いている間、マルチェロはダンドロ邸の豪華さにクリスティーナがまた騒ぎ出すかと思っていたが、彼女は前のようにきょろきょろしたりせず、警戒したような固い表情を浮かべていた。
 何をそんなに心配しているのだ、この女は。マルチェロは首を傾げたが、あまり気に止めずに召使いの後に続いた。

 やがて一際豪勢な扉の前にたどり着いた。召使いが開けると、立派な応接間のようだった。「ここでお待ちを」との言葉を残して、召使いは出ていった。

「……すごい部屋。初めてこの屋敷に来たときも驚いたけど、この部屋は群を抜いて豪華ね」

「あたりまえだ。この部屋には王族の賓客も通される。ダンドロ様を侮るな」

「別に侮ってなんかないけど……あの人の目は怖いから苦手」

 そう言って肩をすくめたクリスティーナに、マルチェロは仮面の下で眉を釣り上げた。

「おい口を慎め! どこだと思っている? くそっ、やはりお前は連れてくるんじゃなかった……」

 そのときガチャリと扉が開いて屋敷の主人が現れた。マルチェロとクリスティーナはすぐに立ち上がる。

「ダンドロ様、お時間をいただきありがとうございます。帽子も仮面も取らない非礼をお許しください」

 マルチェロがそう言ったのに、主人はただ目を細めて部屋に入ってくると長椅子に腰かけた。部屋着ではなく、きちんとした服を着込んでいる。彼は扉の前に立っている執事に「何か飲み物を」と言った。
 歓迎しているわけではなさそうな顔だけど、ちゃんと客扱いはしてくれるのね。クリスティーナは心の中で少しだけダンドロを評価した。
 マルチェロが言った。

「どうぞ、おかまいなく。実は先日の夜の件で、報告しなければならないことがありまして参上仕りました」

 ダンドロの主人は表情を変えずに「フォスカリーニの息子よ」と言った。

「はい」

「私はお前に何か報告しろと頼んだか」

「……へ?」

「私がお前に何か探れと命じたかと問うているのだ」

 まあ、なんて尊大な態度かしら。クリスティーナは相手に気づかれないようにわずかに目を細めた。少しでも気遣って教えてあげようとしているのに、嫌な貴族ね。
 マルチェロはぽかんとしてから「い、いえ」と少しだけ恐縮した顔を引っ込めて、キリリとした表情になって言った。

「もちろん出過ぎたことかもしれませんが、ダンドロ様に何かあってはと思い、お時間を頂戴した次第です」

 ダンドロの主人はふんと鼻を鳴らすと「まあよかろう」と言った。
 そのうちにガチャリと扉が開いて、お茶が運ばれてきた。カップには豪華な金の縁取りに華やかな装飾が施されている。クリスティーナは壊すのが怖いから飲むのはやめておこうとひとりごちた。
 お茶を運んできた召使いが部屋を去っていくと、ダンドロが「それで?」とマルチェロを見た。

「何を報告したい? 言ってみろ」

 マルチェロは礼儀正しく頭を下げた。

「ありがとうございます、先週私たちが部屋で見かけた侵入者のことです。私は彼が身につけているのは黒いタバッロだと思っていましたが、その男は表裏の色の異なるタバッロを着ていたとかもしれません」

 ダンドロは眉をひそめた。

「表裏の色? どういうことだ」

 マルチェロは持っていた包みを開けて、先ほど買い上げたタバッロを取り出してみせた。

「ご覧ください。こちらは赤、そしてこちらは裏返した黒、両面が使えるようになっております。巷ではこうしたタバッロが商店で売られていると聞きました。先日屋敷で見かけた男も、このようなデザインのものを使っていたのではないでしょうか」

「ほう……」

 ダンドロはわずかに感心したような声をあげた。マルチェロは続ける。

「ですから、ダンドロ様がお探しだった赤胴色のタバッロの男と私が見た男は、同一人物であった可能性があるとお伝えしたかったのです、つまり……」

「私が探していた密偵が八の間を覗いていたかもしれんということか。どう思う、ブリオスキ」

 ダンドロは猛禽類のような目を細めたまま、振り向かずに後ろに立つ執事に問うた。
 老人は静かに答えた。

「そうとは言い切れませんが、可能性は高いかと。もしもそうなら門番が赤胴色のタバッロの男が入っていくのを見たのに出ていく姿は見ていないと言っていたことにも筋が通ります」

「うむ。そうだとすると、この屋敷の者たちの容疑は晴れるが……やっかいだな」

 ダンドロの主人が舌打ちをしたのにマルチェロはびくりと肩を震わせた。あそこにあのソプラノ歌手がいたことがそんなにまずいことなんだろうか……ダンドロ様があの女と会っている理由がよくわからないが。
 マルチェロは彼女のことを話すのはやめておこうと、そっと思った。
 先ほどから不穏な雰囲気になっている。ダンドロの主人は険しい顔でなにやら考えており、後ろの執事も難しい顔だ。この上ソフィアのことを尋ねれば、機嫌はますます悪くなりそうだ。
 クリスティーナの言う通り、ソフィアに関しては何も口にしない方が良さそうだ。

「おい、娘」

 突然ダンドロの主人は、今日初めてマルチェロの隣に座る人物に目を向けた。

「あの部屋で見たことは、他言してはおらぬだろうな」

 そう言って睨みつけられたクリスティーナは肩をすくめそうになったが、にっこりと笑みを浮かべた。

「まさか、旦那様。それに私、頭がよくありませんのでもう忘れてしまいましたわ」

 ダンドロの主人は目を細めてクリスティーナを見ていたが、「まあよかろう」と呟いた後、すっくと立ち上がった。同時にマルチェロとクリスティーナも立ち上がる。
 ダンドロは再び視線を戻した。

「マルチェロと言ったか、フォスカリーニの息子よ」

「は」

「この度のこと、礼を言おう。だが、これ以上この件には一切関わらないでいただきたい。お父上からそう伝えたつもりだったが……まあ、あの夜お前に非があったわけではない。次にお前に会うのは春の建国記念日としておきたい」

 ダンドロの目はギロリと睨むようで、礼というよりも警告に近い言い方に聞こえた。
 マルチェロは恐ろしさに顔が引き攣り、仮面をつけたままでよかったと心から思いながら平静とした声で答えた。

「心得ました、ダンドロ様。こちらこそお忙しいところ、お時間をいただきありがとうございました」

 ダンドロはそのまま他の部屋に行ってしまったが、代わりに老執事が二人を屋敷の玄関まで送ってくれた。

「どうかこのことはくれぐれもご内密にお願いいたします」

 執事が念を押したのに、マルチェロは「もちろんだ」と返すと、屋敷を背にして歩き出した。
 クリスティーナがちらりと後ろを向いたがすぐに前を向いて立ち止まることなく角を曲がった。
 そのまま二人は、無言で今日最初に会ったリアルト橋の近くにある広場まで来て、ようやく足を止めた。

「……絶対に何か隠してるわね」

 クリスティーナが口火を切った。

「誰かに知られちゃまずい話みたい。密偵ってはっきり言ったわね、あの男の顔、見た?」

 マルチェロはううむと唸った。

「あそこまで牽制されるとは思わなかった。よっぽどの機密事項らしい。父上が怒っていたのはこれだったのか」

「あの状況でマルチェロがソプラノ歌手のことを話し出したら、絶対に危なかったわよ。ああ、ほっとした」

 クリスティーナが安堵の表情で言ったのにマルチェロは「さすがに私も空気は読む」と肩をすくめた。

「しかしわからない、政府の密偵なんてそこらじゅうにいる。それをダンドロ様がご存知ないはずがないし……八の間にソフィアがいたとして、なぜそれがそんなに大事になるのだろう」

 クリスティーナはマルチェロの言葉におやと首を傾げた。

「ソフィア……? 例のソプラノ歌手? あんた、名前知ってたのね」

「覚えているもなにも」

 マルチェロは昨夜のことを思い出し、ため息を吐きそうになった。

「私はあの公演の後、数時間彼女とカフェにいた」

 クリスティーナは驚きの声をあげた。

「んまっ! な、なに、それじゃあんた、あの公演の後は彼女とお楽しみだったってわけ? ダンドロの主人が故意にしているかもしれない女優と? さすがにそれはまずいんじゃ……」

 彼女の勘違いした言葉に、マルチェロはぎょっとした。

「ば、ばかっ、私があんな平民の女をわざわざ呼び出して相手にするか。友人に付き合わされたのだ。どうしても彼女に会いたいと言うからお膳立てしてやったが……おかげでこっちは無駄な夜を過ごしてしまった。カーニヴァル最後の木曜だったのに」

「なあんだ、そういうこと。へえ、あんたって意外と友達思いなのねえ」

「本気のようだったからな。確かにあのとき、ソフィアはある屋敷で厄介になっていると言っていた……それがダンドロ屋敷だったわけか。それからーー」

 マルチェロは昨夜の記憶を辿った。

「兄がいると言っていた、名前は聞けなかったが」

「お兄さん……? ふうん、あの部屋にもいたのかしら。あの女優があんまり豪華なドレスを着ていたから、そっちばっかり見てた」

 マルチェロは仮面の下で眉を寄せた。

「そもそもの話になるが、お前はほんとうにちゃんと部屋の中を見たのか? 八の間にいたのがほんとうにソフィアだったのかも怪しいぞ」

「見たわよ! だから劇場で見たときに驚いたんじゃない。あの部屋にいたのは絶対にあのプリマドンナよ、間違いないわ」

 自信たっぷりに言うクリスティーナに、マルチェロはふんと鼻を鳴らしたが、あの夜に平土間席で見た彼女の慌てぶりを思い出される。嘘をついているわけではなさそうだ。

 あの部屋にいたのがソフィアであるとして、彼女はなぜあの部屋にいたのだろうか、それも隠されるようにして。
 密偵の目に触れるのをダンドロ様は恐れているようだった。ソフィアの兄という存在も謎だ。おそらく彼はダンドロ様となんらかの繋がりを持っていると考えていいはずだが、疑問は次々と浮かんでくるばかりで、何一つ明らかにはならない。
 なんせダンドロ様はこの国の財務官、歴史の浅い家出身の総督よりも権力を持つと言われるお方だ。元々古い家柄でどの家からも一目置かれている。加えてあの財力、そしてあちこちの国の貴族とのコネクションも数多だ。そこまで考えて、マルチェロはあっと思い出したように言った。

「そういえばあのプリマドンナ、ヴェネツィアにはこの秋に来たばかりだと言っていた」

「あら、外国人だったのね。ふうん、だからあんなにきれいなドレスを着ていたってことね」

「歌い手だからそういう衣装は劇場にざらにあるのだろう……とにかくこれ以上この件に関わるのはやめよう、きっとろくなことがない。いいか、お前も無理に首を突っ込むなよ」

 マルチェロはクリスティーナに言い聞かせたが、彼女はぷいと横を向いた。

「別に無理に突っ込んだわけじゃないわ。ただ親切に教えてあげただけじゃない。でも……あなたのお友達は大丈夫なの? そのソプラノ歌手に本気なんでしょ」

 マルチェロははっとした。
 そうだ、エドアルドには警告しなければならない。ソフィアの存在を、あのダンドロ様が公の場から隠そうとしているのだ。関わればきっとろくな目に合わない。
なんとかして別の女に目を向けさせなきゃならないが、昨日の様子では無理やり引き離したところで簡単に諦めるとは思えない。

「全く、これでは安い三文小説のようではないか……」

 マルチェロが苛立たしげに呟くと、クリスティーナが言った。

「警戒はした方がいいってことだけでも伝えてあげなさいよ、あんな怖い大物が関係してるんだから」

「お前に言われなくともわかっている。しかしあいつは意固地なところがあるから、言い方によっては逆に無理やり彼女と会おうとするかもしれないな。いっそのことあいつをランパーネ邸に連れていけば、どうにか他の女に……」

「目移りするわけないでしょ。コルティジャーナの姐さんたちはこの時期みんな出払ってるし、惚れてるソプラノ歌手と一度顔を合わせて話したんならなおのこと、その辺の娼婦になんて目もくれないわよ」

 彼女の言う通りだ。カーニヴァルの終わりが近づいているというのに、代わりなんて見つかるわけがない。この私が見つけていないのだ。
 マルチェロは仮面の下でため息を吐いた。もう放っておくべきか。ダンドロ様にも手を引けと言われたのだ。きっときなくさい何かがあるに違いない。

 結局マルチェロはクリスティーナとわかれた後も友人宅に行くことはなく、また例のプリマドンナのことを思い出すと劇場へ出かける気も削がれ、フォスカリーニ邸へとまっすぐ帰った。
 もう日が傾いていた。


 帰宅したマルチェロが屋敷のポルテゴに上がっていくと、そこには豪華なドレスに身を包んだ姉がタバッロを羽織って出かける準備をしていた。

「誰?」

 眉を寄せた姉がこちらを向いて言ったのに、マルチェロは返事をしないまま帽子とバウタ、仮面を外した。

「マルチェロ? へえ、早いわね」

 ルイーザは弟の姿に目を見張った。

「一応用は済ませてきたので。今夜は家で父上の機嫌でもとろうかと思います」

「あんたが?」

 ルイーザは白い仮面を帽子に乗せた手を一瞬止めた。

「一体どういう風の吹きまわしよ、この時期の夜にあんたが家に居たことなんて初めてじゃないの」

 マルチェロは姉に背を向けてタバッロを脱ぎながら答えた。

「最近出かけると悪いことしか起きないのです。今日辺りは家でゆっくりしておきたいのですよ」

「ああ、振られた上に殴られたんだったわねえ。でも、そんなのあんたにとっては毎年のことじゃないの。それにあいにく今夜はお父様もおでかけよ」

「失礼な、毎年殴られてなど……えっ、なんですって、父上が出かけられた?!」

 マルチェロは思わず振り返って声を上げた。あの祭り嫌いの父が?
 ルイーザはにっと笑みを浮かべてからバウタを頭から被った。

「驚きよね。お父様は何も教えてくれなかったけど、船頭の話だとどうもサン・マルコの方に向かったらしいわ、お仕事でもないのに。あのお父様が、よ」

 マルチェロは眉を寄せてぐるぐる考えたが、考えを振り切るように首を振った。

「……総督に、あるいは他の貴族の方に呼ばれたのかもしれません。この祭りに便乗して悪さをする輩が増えていますから」

 そうだ。でなきゃあの父上がこの町一番の賑やかな場所に行くわけがない、こんな時期に。
 マルチェロは、もしかしたら父はダンドロの主人にあのプリマドンナの件で呼び出されたのかもしれないという可能性を頭の隅に追いやった。

「どうだか。私はこれからサン・モイゼだけど、あんた、暇なら広場に行ってみれば? そこに行けば直接お父様のご機嫌をとれるんじゃない」

「……姉上、先ほどの私の話を聞いていましたか?」

「ああそうだったわねえ、その顔だもの。かわいそうに、腫れ上がった顔じゃどこにも行けないわね。今日はおとなしく療養してなさい」

「姉上」

「それじゃ、私は行くから。お大事に」

「姉上っ!」

 ルイーザは同情的な表情を弟に向けてから帽子を被り階段を下りていってしまった。
 マルチェロはため息を吐くと、控えていた召使いにタバッロや帽子を渡し、とぼとぼと自室へ向かった。
 部屋は召使いによってきちんとカーテンが開けられ、片付けられていた。首元と手首のボタンをいくつか外して服装を緩める。召使いがテーブルに用意してくれた水を飲み、焼き菓子を口に入れると、やれやれとベッドに腰かけた。

 全く、今年はついていない。悔しいが姉の言う通り、この顔ではどこにも行けなかった。仮面をつければ良いとクリスティーナは言うが、それでは私の魅力が半減してしまう。
 マルチェロは自分が完璧な状態であることに自負を持っていた。容姿端麗、貴族らしい高貴な所作、そして文句なしのヴェネツィア貴族の血筋。唯一マルチェロが引目に感じているのは次男ということだ。貴族の一人娘との結婚こそが、マルチェロにとって残された誇り高い道なのである。
 しかし相手にこだわり過ぎているため、毎年マルチェロは相手を見つけることができずにいた。結婚相手とは言わず、せめてそういった相手に繋がる人物との関係をこの期間までに築きたかったが、大事な武器である顔がこのような状態では、てんで自信を持てなかった。
 マルチェロはごろりと横になると、寝不足もあってそのままベッドの上で眠ってしまった。


「……チェロ様、マルチェロ様」

 誰かが自分を呼ぶ声がする。マルチェロは薄く目を開けた。もう部屋はすっかり暗くなっているようだった。
 召使いが燭台を手に、ほっとをしている顔が目に入った。

「ああよかった、お目覚めですね」

「……なんだ、どうした」

 むくりと身体を起こしたマルチェロが不機嫌そうに言うと、召使いは申し訳なさそうに頭を下げた。

「その、お客様がいらっしゃっております」

「客……? 誰だ」

「名は伏せておられました、ご婦人の方です」

 マルチェロはうんざりした顔をした。またあの女か。

「娼婦は追い返せと言っているだろう、特にクで始まってナで終わる女は絶対だ」

 召使いは「いえ、その……」と言いにくそうに首を傾けた。

「おそらく高貴な方かと。被っているヴェールは相当上等なものに見えました」

「なにっ」

 クリスティーナは今日ヴェールをつけていなかったぞ。ならばほんとうに貴族のご婦人という可能性もある。もしやゴンターニ家の令嬢がよりを戻そうとしてきたのだろうか。いや、昨日のカフェの様子ではそれは考えられない。

 マルチェロは思案しながら「わかった、今行くからポルテゴまで上がってもらえ」と召使いに告げた。棚の上の時計を確認するとまだ七時をまわったばかりだ。長い夜になるかもしれない。
 気合を入れ、鏡を前に身だしなみを整えようと寝癖のついた髪に手をやってから「あっ」と鏡の中の自分の左頬を見た。
 腫れていることを忘れていた。昨日よりずいぶんましになったが、それでも確実に鏡で見ると違和感がある。仮面やバウタはポルテゴに置いたままだ。相手は高貴な人物かもしれないというのに、なんということだ! 
 マルチェロは苦悩の結果、壁に近い端に立って彼女には極力近づかずに横を向いたまま会話することにしようと考えた。


 しかしマルチェロがポルテゴに出た瞬間、ヴェールを被った女が駆け寄ってきて「マルチェロ様」と声をかけてきた。
 だ、誰だ。マルチェロが慌てて左手で頬を覆い隠そうとしたが、ヴェールの下の顔を見て動きを止めた。

「あ、あなたはソフィア……?」

 マルチェロの目の前に立つ上等なレースのヴェールの婦人は、舞台に立っていたあのソプラノ歌手ソフィアだったのである。
 彼女は眉尻を下げて胸の前で両手を組み、困ったようにマルチェロを見上げた。

「エドアルド様はどちらに? どうしてもお会いしてお話ししたくて、ここまで来てしまいました」

 マルチェロはわけがわからなくて頬を覆うのも忘れた。

「な、なぜソフィア殿が私の屋敷を知っている? それに、私がなぜマルチェロだと? 私は昨夜仮面をつけていただろう」

 その問いにソフィアは小さく微笑んだ。

「先ほどの召使いの方がマルチェロ様がまもなくいらっしゃると言っていたんですもの。それに……エドアルド様から教えていただいた住所がこちらでしたの。迷いながらもやっとたどり着いて、エドアルド・ギーシ様のお屋敷ですかとお尋ねしましたら、フォスカリーニ様のお屋敷とのことでしたので……」

 あんの小心者め。マルチェロは弱気な友人に歯ぎしりした。恐らく二人で話すことができないからと、マルチェロを頼るつもりでここの住所を教えたのだろう……全くいい迷惑だ。彼女とは関わらない方がいいと、先ほど結論づけたばかりであるというのに。
 マルチェロは頭を抱えそうになったが、ソフィアの前なのでぐっと堪えた。

「エドアルドは今すぐ使いを出して呼び出そう。客間で待つといい……こちらへ」

 フォスカリーニ邸の客間に案内されたソフィアは、ヴェールを脱いで長椅子に座った。
 マルチェロは召使いの一人をエドアルドの住むギーシ邸に向かわせると客間に入った。歌手と二人で話すのは嫌だったが、客として迎えて入れている手前は相手をしなければならない。
 マルチェロは腫れた頬を見られたくないので向かいの長椅子には座らずに、窓際に立って友人が来るのを待った。くそ、エドめ、早く来い。

 召使いがお茶を出してくれたのに、ソフィアはありがとうと言うと、カップに口をつけた。

「懐かしい……この香り、フランスのものでしょうか?」

「どうだっただろう。まあ最高級のものであることは確かだ。私は珈琲の方が好みでね」

 マルチェロがさして興味なさそうに窓の外を見つめたまま答えると、ソフィアは「あら、ほんとうですか」とぱっちりとした目を瞬かせた。

「私、あの黒い色と苦さはどうも苦手なのです。エドアルド様もそうなのかしら、昨晩のカフェでは一口も飲んでいなかったようだけど」

「あいつは味覚がどうかしているから珈琲だろうと泥だろうとなんでも飲むだろう。昨日飲まなかったのは単に……緊張していただけだ」

 マルチェロの言葉に、ソフィアは少し微笑んだが、何を思ったのか急に視線を落として暗い表情になった。

「ごめんなさい、ご迷惑をかけてしまって。どうしても直接彼にお会いして……きちんとお話ししておきたかったの」

 ああ、これは……断りを入れるつもりだな。彼女の表情とその言い方に、マルチェロはなんとなく察した。となると、しばらくの間エドは外出しなくなるな。気の毒だがもうじき四旬節にも入るし良い時期ではないか。パートナーなしのカーニヴァルを過ごすのが貴族の若者の間で私だけではなくてよかった。
 マルチェロはそんな風に考えてからソフィアの方を向くと言った。

「ありがたい。人伝であの男は納得しない。あなたから直接言うのが一番だろう」

 そう言われて、ソフィアは困ったような顔で言った。

「どうして……エドアルド様は、私のことをお気に召してくださったのかしら。他にも素晴らしい歌手の方がヴェネツィアにはたくさんいらっしゃるのに」

「あの男に理屈などない。ひと目見て恋に落ちた、それだけだ。振り回されるこちらもたまったものではないが」

 最後が愚痴っぽくなってしまったので、マルチェロは咳払いをして続けて言った。

「しかしあなたもよくここまで来られたな。もうこの時間なら劇場にいなければならないだろう。今夜の公演は出ないのか?」

「ええ、今夜は私は非番ですの」

 ソフィアは下を向いて小さな声で言った。

「カーニヴァルが終わったらきっともう、舞台に立てなくなります。だからできるだけお休みはしたくなかったのですが、今夜はお屋敷にいるようにと言われて……」

「屋敷にいるように言われて?」

 マルチェロが片眉を上げた。

「誰に言われたというのだ。あなたが滞在している屋敷の主人にそう言われたのか?」

「え、その……」

「ダンドロ様か?」

「……」

 急に出た名前に、ソフィアは驚いて口を閉ざした。どうやら図星らしい。それがわかると、マルチェロは背筋がひやりとするのを感じた。屋敷にいるよう言われたのに、この女は抜け出して迷いながらここまでやってきたというのか。
 マルチェロは頬を隠すことも忘れて大股でずんずんとソフィアの方へ寄った。

「あなたはダンドロ様に外出の許可も得ていないのにここまで来たというのか……何も言わずに!?」

「だ、だって、外出できる機会なんて、今日くらいしか……」

 そのとき、客間の外からバタバタと足音が聞こえた。エドめ、ようやくお出ましか。さっさと彼女と話をしてけりをつけてもらわねば。
 マルチェロは焦ったように客間の入り口に駆け寄ると勢いよく扉を開ける。マルチェロは友人を罵倒しようとしてーー喉まで出かかった声を引っ込ませた。

 目の前にいたのはエドアルド・ギーシではなかった。

 政府の役人が、マルチェロの目の前に立ちはだかっていたーーそれも一人ではない、七、八人はいる。

「な……こ、これは一体……」

 マルチェロが目を見開きながら言ったが、先頭の男は答えず、客間の奥にいるソフィアを目にすると声高に言った。

「いました! アンナ=ソフィア様です!」

 後ろにいた役人たちがドタドタと客間へ入っていく。彼女が「きゃっ」と小さく悲鳴を上げたのが聞こえた。マルチェロが「おい! 何を勝手に……」と止めようとすると、先ほど声を上げた役人がマルチェロの前に立ちはだかって言った。

「マルチェロ・フォスカリーニ様、あなたを誘拐の容疑で拘束させていただきます」

 両側から二人の役人に腕を掴まれる。マルチェロは切羽詰まったようにもがいた。

「ゆ、誘拐だと!? 私はずっとこの屋敷にいたのだぞ! 彼女の方からこの屋敷に来たのだ」

「上からの命令です、申し訳ありませんがどうかご同行願います」

「や、やめろ、手を離せ! 私が何をしたというのだ……」

 マルチェロは必死になって抵抗してわめいていると、突然「マルチェロッ!」と雷が落ちたような恐ろしい怒鳴り声が響いた。知っている声だ。
 マルチェロはびくりと動きを止め、声がした方を見た。 
 役人たちの立つ後ろから、彼らの制服ではない立派な身なりに黒いタバッロ姿の貴族の男がマルチェロの前に出てきた。
 マルチェロはその姿に目を見開いた。

「あ、兄上……」

 暗がりから出てきたのは、このフォスカリーニ家の嫡男でありマルチェロの兄、ジュリオ・フォスカリーニだった。三角帽子の下から覗く彼の顔は、兄弟の中でも一番美しい。しかしその彫刻のように整った顔は、あからさまに顔をしかめていた。
 兄ジュリオは弟を見下ろして言った。

「役人に捕らえられ、この後に及んで抵抗するなぞ見苦しい真似をするな」

「ですが兄上、私は……!」

「言い訳無用、この場に居合わせたお前が悪い。ダンドロ様のお屋敷で懲りていればよかったのだ。全く父上が何とおっしゃるか……」

 ジュリオは冷たい目でそう呟くと、役人たちに「さっさと連れていけ」と言い放ち、身を翻してその場を去ってしまった。両腕を拘束されたマルチェロは、兄の黒いタバッロが揺れるのを見送ることしかできなかった。


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