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【小説】『マルチェロ・フォスカリーニのカーニヴァルの最悪な一週間』 4. 土曜日

 この国にあるいくつかの監獄のうち、一つはピオンボ(鉛)と呼ばれる。
 建物の一番上に位置するこの一つ一つの牢は、冷たい石壁で覆われていた。中には窓どころか隙間ひとつない昼間でも深い闇に包まれている牢もある。たったひとつ、硬く頑丈な分厚い黒鉛の扉だけが牢からの出口であった。
 ピオンボからずっと下に下りたところにはポッツォ(井戸)と呼ばれる地下牢があり、そこには手のつけられないような極悪人の収容されているとされていた。また拷問によって夜な夜な恐ろしい悲鳴が聞こえると言われ、カーニヴァルのような賑やかなときでさえも人々は近づかない。
「晴朗極まるところ」と呼ばれるヴェネツィアの監獄はそんなところだった。


 マルチェロ・フォスカリーニは、昨夜のうちにピオンボの窓のない牢屋の一つに放り込まれた。
 暗闇に慣れてきた目でわかるのは、この空間には中央に座るための石段があるということだけだった。鉛の扉には子どもの手の平くらいの小さな窓があるが、その扉には外側からふたが被せてある。そこからわずかに漏れる光によって、マルチェロは夜が明けたことを知った。
 哀れなフォスカリーニ家の次男は、石段に座ったままため息をついて頭を抱えた。

 なぜだ、なぜ私がこのような目に。

 昨日のことを思い返してみる。自分に非はなかったはずだ……あのソプラノ歌手は私に誘拐されたのではないと否定しなかったのだろうか。私を嵌めたのか? 何のために?
 もしそうであるならば、エドアルドも共犯なのか。ソフィアはあいつから住所を聞いたと言っていた……いや、エドの方は単に臆病だったからだろう、長年の付き合いからそれは言い切れる。

 隙間もないのに冷たい風を感じ、マルチェロはぶるっと身体を震わせた。
 いつまでここに閉じ込められるのだろうか。ピオンボに入った者が無事に出獄したという話は聞いたことがない。数年前に脱走した者もいたらしいが、その後は確実に国外逃亡だろう。
 ヴェネツィア貴族としての誇りを持つマルチェロにはこの国を離れることなど絶対に考えられなかった。自分が無実の身であることは間違いないのだから、必ず出られるはずだ。マルチェロはそう自分を奮い立たせようとしたが、昨夜の兄ジュリオの『全く父上が何とおっしゃるか』と言った言葉が蘇った。

 私がピオンボに囚われていることを知ったら、父は怒り狂うだろう。無罪だったところで、ピオンボに捕らえられたということで家名に傷がつくことには変わりない。私はフォスカリーニ家の面汚しになってしまったのか。マルチェロは自分の運のなさを呪った。

 しばらくして、鉛の扉についている小さな窓がキィと鈍い音を立てて空いた。
 すうっと光が差し込んだかと思えばポトッと何かが放り込まれ、すぐに窓が閉められて再び牢内は暗闇に包まれた。扉の向こうから「飯だ、食え」と声がかかる。看守だ!

 マルチェロは慌てて駆け寄ると扉に縋りついた。

「わ、私は無罪だ! 出してくれ!」

 すると扉の向こうから無機質な声が返ってきた。

「うるせえなあ、悪いがあんたに罪があろうとなかろうと俺の知ったことじゃねえ」

「なんだと、無礼な…………そ、それじゃ上の人間に伝えてくれ! 何か間違いが起こっているのだ、頼む」

 マルチェロの必死の懇願に、男が答えた。

「俺にそんな権限はねえし、あんたに飯を届けるだけが俺の仕事だ。それは他の奴に言ってくれ」

「ほ、他の奴なんて誰も来ないじゃないか……」

「じゃ、諦めな」

 男はそれだけ言うと、牢の前から去ってしまった。

「あっ、おい……まてっ! まだ話は終わってないぞ、おいっ!」

 マルチェロがいくら声をあげても、もう彼はこちらへ戻ってきそうになかった。マルチェロが黙ると、再び牢は沈黙に包まれた。

「くそっ……!」

 握り拳を力の限り冷たい床に打ちつける。ぴちゃんとどこかで水の滴る音が聞こえた。

 屈辱だった。誇り高い旧家の貴族の家に生まれ、身分の下の者にあのような態度を取られたのは初めてだった。フォスカリーニ家出身であるこの私がこのような目にあうとは……。
 マルチェロはため息を吐いて扉の前に座り込もうとしーー何かが膝に触れたような気がして手で床を探った。丸いようないびつな形をしている。先ほど看守が「飯だ」と言って、何かを放り込んだことを思い出し、マルチェロはそれがパンであることを理解した。
 くっ……このような物を口に入れてたまるか。マルチェロは食欲もなかったので、地面に放り捨ててしまった。
 そのうち父上が動いてくれる。そうでなかったとしても、エドだって責任を感じているはずだ。ずっとこのままではない、きっと出られる。マルチェロはそう期待して中央の石段の上に座り込むと、ひたすら待つことにした。

 静かだと思っていたが、耳をすませると遠くから賑やかな喧騒が聞こえる。当然だ、ここピオンボはサン・マルコ広場に近い。広場に造られた仮設舞台で即興劇でもやっているのだろう。
 マルチェロは、去年の今頃に恋人だった貴族令嬢と即興劇を観たことを思い出していた。あれは確かレニエ家の娘だった……もう名前も忘れたが。レニエ家の令嬢は、カーニヴァル最後の月曜日まではマルチェロをパートナーとしていたのだが、翌日にあっさり彼との仲を切って、春が来る前にはバイエルンの貴族に嫁いでしまった。
 去年の悔しさから、今年こそはと息巻いていたというのに。マルチェロは現状を思ってため息を吐いた。

 ピオンボの暗闇は、マルチェロのやり場のない怒りを鎮めてくれたが、時の感覚を鈍らせた。扉の小さな窓の鉛の蓋から見えるわずかな光でしか、昼間か夜かを判断できないのだ。

 どれくらいの間そうしていたのだろうか。
 キィと鈍い音がして蓋が開けられた。マルチェロははっと顔を上げた。
 前と同じように、「飯だ」という声とともにぽとりとパンが投げ込まれる。

「ま、まてっ!」

 マルチェロは再び扉に駆け寄って外の人物を呼び止めた。

「そ、その、他に……パンの他に何かないのか、水は!? 水はもらえないのか? 蝋燭とか、それにその、用を足したりするのはどこで……」

 マルチェロが慌てて次々と言ったのに、扉の向こうの男は「おいおい」と言った。

「囚人のくせに要求が多いな。地下牢にいるわけでもないんだからありがたいと思え。金もねえんだろ」

「か、金だと……突然連行されたのだ、持っているわけがないだろう! 金さえあれば私だってこんな風には……」

 マルチェロがわめくと、扉の向こうから「わかったわかった」と返事が返ってきた。

「水はそのうち誰かが持ってくるはずだ。蝋燭なんぞそんな贅沢品は諦めろ。それで用足しのことは……」

 男は一拍置いてから次のように言った。

「房の真ん中にあるだろ、それだ。気づかなかったのか」

「えっ」

 今まで石段だと思って座っていたのが……ま、まさかべ、便器だったというのか!? 自分が先ほどまでそこに座っていたという事実にぞっとした。
 それからはなんとなく牢獄の中央には近づきたくなくて、扉のすぐ隣に座っていた。

 それからまたしばらく時間が流れたが、やがてガチャンと閂が外れる音とともに扉がギギギと開いて、中に明るい光が差し込んだ。
 久しぶりの大きな光にマルチェロは目を細めてはっとした。
 扉が開いた!? マルチェロが出られるのかと思わず立ち上がったが、すぐにぬっと大柄な男が現れた。彼だけではない、牢獄の外からは三人の男たちがなにやら大きな木の箱を中へ運び込んできたではないか。

「な、なんだそれは……」

 マルチェロが呆然としていると、三人の運び屋たちの後からまた別の男が入ってきて、栓の開いた瓶とわずかな液体の入った汚い器を囚人に渡してきた。

「いやあ、ずいぶん待たせて悪かったな。水だ。こっちの器には油を入れておいたから灯りとして使うといい。燈心は自分でどうにかしろ。ひうちは渡せないが、火元はまた後で持ってきてやろう。言っておくがこれは特例だぞ」

「あ、ありがとう……」

 やっとのことで礼の言葉を紡ぎ、マルチェロは顔を引きつらせてそれを受け取った。
 汚い。瓶の周りには泥や砂がついている。ほんとうにこの中の水を飲まなければならないのだろうか。

「他に希望するものは?」

 看守の言葉に、マルチェロは驚いたが慌てないよう深呼吸をして言った。

「その、良い食事がほしい、ワインとか肉とか……あと……その、私はいつになったらここを出られるのだろうか。なぜここに入れられたのか見当もつかないのだが、説明をしてくれる者はいないのか」

 マルチェロの申し出に看守は眉を寄せて答えた。

「知らんな。俺はただあんたを誰かと一緒にすることなく一人でここに当分閉じ込めておけと言われただけだ。ただベッドを用意するよう言われたから二日三日そこらじゃないだろうな」

「ベッド?」

「あんたの後ろにあるあれだ、今さっき運び込まれただろ」

 マルチェロが振り返ると、大きな木の箱だと思っていたのは、どうやらベッドのようだった。シーツに似た薄い布も用意されている。つまり長期間でここに閉じ込められるということだ。
 ぽかんとそのベッドを見つめているマルチェロの横から、例の看守が言った。

「食事の方は工面してやるよ……掃除は日に一度だ」

 看守はそう言うと、部下たちを引き連れて房を出た。扉が閉められ、ガチャンと閂がかけられる。

 牢の中は再び闇に包まれた。


 看守が去ったあとも、マルチェロはショックを受けたままぼんやりと突っ立ったままだった。
 どういうことだ。当分ここに閉じ込められるだと? 父上は……父上は何もしてくださっていないということか。エドは? あいつのせいで俺がここに収容されているというのに、何もしてくれないのか。一体何が起こっている?
 マルチェロの頭は混乱していたが、まずはと手に持っている水を飲んだ。瓶の外側は泥で汚れていたが、中身はちゃんと飲める水だった。
 久しぶりに飲んだ冷たい水に頭をすっきりさせたマルチェロは、まず手探りでベッドに歩み寄るとその上に腰かけた。木綿のシーツもどきはところどころ穴が空いて傷んでいるようだが、ないよりはましだ。冷たい石の上よりよっぽど温かい。
 そのうちに再びあの看守がやってきて、手に持ったランタンから火を分けてくれた。燈心にはシーツの切れ端を使った。小さな火だったが、ようやく房全体が見渡せる明るさになった。なんだ、隅に机と椅子もあるではないか。

「掃除のときに油があるか確認する。食事は夜になったら持ってきてやる」

 そう言って去ろうとした看守を、マルチェロは慌てて引き止めた。

「ま、ま、まてっ! せ、せめてもう少し明るい房はないのか、窓が一つでもあるところがいい。こう暗くちゃ何も……」

「悪いがあんたはここ以外には移動できない。極力誰とも接触できないようにとのお達しなんだ。だから窓もないこの房に一人きりで入ってもらってる」

「誰とも接触できないように、だと?」

 マルチェロは眉をひそめた。

「そうだ。俺以外の看守ともほとんど接触禁止になってる……だから灯りをやっただろ。それに用足しの場所があるだけありがたいと思え。他はみんな桶なんだ」


 看守が去ってから、マルチェロはベッドに腰かけたまま足元に置いた油の火を見つめながら考えた。

 やはり今回の件は、私の知らないところで何かが起こっているにちがいない。私を誰にも会わせないようにしているということは、私が見聞きして知っていることが、誰かにとって他に知られてはまずいということだ。一体それはなんだ。
 マルチェロは頭をひねったが、心当たりがあるとすればあのソプラノ歌手ソフィアのことだ。現に連行される直前に「誘拐の容疑」と言われた。しかしあれはただの名目であって、私をここに閉じ込めておきたいほんとうの大きな理由は別にあるはずだ。他にあるとすれば、ダンドロ邸の七の間に現れた謎の男に関してだが、それについても大した情報を持っていたわけではない。
 やはりあのソフィアという女はただものではないのだろう。そしてそれをご存知であるダンドロ様は公になるのを隠そうとしているのだ。

 マルチェロはわからないと頭に手をやってゴロンとベッドに横になった。屋敷でいつも使っているものよりもうんと小さい。寝返りをうてば床に落ちてしまいそうだ。しかし便所の石段よりはずっといい。
 疲れの溜まっていたマルチェロは、そのままそこで寝入ってしまった。

 ガチャンと閂が開く音がした。ギギギと扉が開いて、誰かが入ってくる。

「晩飯だ」

 頭をぼんやりさせながら起き上がると、例の看守が盆にいろいろ乗せて運んできたのがわかった。看守は隅に置いてある机の上に食事を乗せると、またすぐに出ていってしまった。
 晩飯ーーつまり今は夜らしい。マルチェロは椅子に座って運ばれてきた皿を見下ろした。チーズと蒸した鶏肉、それに少し冷めているが温められていたであろうスープ、そしてなんと赤ワインまであった。味はどれも薄かったが、口にできぬものではない。
 あの看守の男、やるじゃないか。マルチェロは満足して小さな灯油の火を頼りに、久しぶりに食事をした。
 鶏肉を口に入れたとき、そういえばと思い出して左頬に手を当てた。
 昨日まで感じていた頬の痛みもずいぶんと和らいでいる。腫れが引いたのだろうか。鏡がないので確認はできないが、舌で口内を確認する限り、最初の違和感はなくなっている。
 これで仮面なしで堂々と歩くことができる! 嬉しくなったマルチェロだったが、今自分が居る場所を思い出してまた沈んだ顔になった。
 しかし今回のことはこの腫れと同じではないだろうか、とマルチェロは考えを改めた。ほとぼりがさめればそのうちここも出られるかもしれない……そうだ、カーニヴァルが終わればソフィアの仕事はなくなる。その後ならきっと屋敷に戻れるだろう。
 明日あの看守に頼んで、父上に手紙を書いてみよう。早いうちににどうにかできるかもしれない。
 マルチェロはそんな風に希望を持つことにした。

 ところがそれから数時間ほど経った夜ふけの頃、思いがけないことが起きた。

 マルチェロは名前を呼ばれたような気がして、ふと目を覚ました。
 灯りをつけたままで寝ていたため、房の中はぼんやりと明るい。外の喧騒は夜になって一層騒がしくなったように感じる。身をよじろうしたとき、マルチェロは「いたた」と声を上げた。変な体勢で寝ていたためか左腕が痺れている。全く、こんなに狭い場所にいたら身体が固まってしまいそうだ。

「マルチェロ」

 小さな声に、マルチェロはびくっとした。
 むくりと起き上がりベッドから出ると、きょろきょろと辺りを見回す。そこまで広くないこの房には自分以外には誰もいない。
 背筋に冷たいものが流れた。まさか……いや、私はそんなものは信じていない。断じて信じるものか。
 ごくりと唾を飲み込んだとき、「マルチェロ、こっちこっち」と今度ははっきり聞こえた。
 女の声だ。声のした方は例の扉で、小さな窓の外側の蓋が開けられていた。

「だ、誰だ」

 警戒した声で問うと、声は囁くように答えた。

「あたしよ、クリスティーナ」

 クリスティーナだって!? マルチェロはまさかと驚いて扉に駆け寄った。
 小さな窓の向こうはこちらと同じくぼんやりとしたランタンの灯りしかなかったが、扉を挟んだ向こうに見えるのは、紛れもないクリスティーナの顔だった。

「お前っ……! な、なにして、どうやってここへ……!?」

 窓の向こうでクリスティーナはふふっと得意げに小さく笑みを漏らした。

「びっくりしたでしょう。苦労してここまで来たんだから……そんなことより鍵、持ってるでしょ。閂はこっちから開けるから」

「は……鍵? なんのことだ」

 マルチェロが眉を寄せると、クリスティーナも「え?」と声を上げた。

「あるでしょう、二つ。パンの中に入ってたはず……まさか、気づかずに食べちゃったの?」

 パン? さっきの食事にはなかったぞ。マルチェロは机の上に置いてある空の皿を見下ろしてからはっとした。
 そういえば、この食事の前ーーベッドが運ばれてくる前に、看守が窓から投げ込んできたパンがあった。
 マルチェロはきょろきょろと見渡すと、ぼんやりとした明るさの房の端に、いびつなパンが二つ、転がっているのを見つけた。これか!
 マルチェロはそれらを拾い上げると中を割った。確かにそれぞれのパンに二つずつ鍵が入っていた。
 クリスティーナがガチャンと閂を外す音がする。

「その鍵を使って内側から開けるのよ……この扉は二つの鍵とこっちにある閂で閉められているから」

 この女、なぜ詳しいのだ。マルチェロはわけがわからなかったが、クリスティーナに言われるまま鍵を開けた。驚いたことに彼女の言った通り扉はギギギと開いた。
 目の前には、空色のドレスの上からタバッロをつけて黒いヴェールを被ったクリスティーナが立っていた。顔は青ざめていたが、手に古びたランタンを持ってまっすぐこちらを見ているその姿は、マルチェロの目には今まで見た女性の中で一番美しく映った。

 クリスティーナはマルチェロの顔を見るとふっと笑った。

「顔の腫れは引いたようね」

 彼女は辺りを見回してから真剣な顔で「さあ行くわよ、ついてきて。静かにね」と囁くとマルチェロの手を取った。

「ま、まて」

 マルチェロは納得できないというように踏みとどまった。

「無断で牢を出て大丈夫だろうか。もし見つかったら罪が重くなる。明日、父上に手紙を書くつもりーー」

「そんな悠長なこと言ってられないのよ」

 クリスティーナは眉を寄せてマルチェロの腕を引っ張りながら切羽詰まったように言った。

「祭りの騒ぎで雑踏に紛れることができる今がチャンスよ。とにかく早く出なきゃ。でないとあんた、朝を迎える頃には存在を消されるかもしれないわ」

 
 ドゥカーレ宮殿の前のサン・マルコ広場はカーニヴァルで賑わう大勢の人たちで溢れていた。もう夜中を回っているというのに、楽器の音は鳴り響き、笑い声に混じって爆竹の音さえも聞こえる。
 
 クリスティーナはヴェールの下にマルチェロのためのバウタ、仮面、そして三角帽子さえも用意していた。マルチェロがクリスティーナの着ていたタバッロを借り、そして仮面の一式を身につけると、罪人の面影は消え失せ、カーニヴァルを享受している貴族に見えた。
 建物内にはところどころにランタンが置いてあったが、夜のピオンボはどこも暗く、マルチェロには周りに何があるのか、どこを歩いているのか確認できなかった。しかし、クリスティーナは勝手知ったる様子ですたすたと歩いていた。それに不思議なことに、建物内にはあまり看守の姿がない。祭りだからだろうか。
 広場の喧騒の中に、マルチェロはクリスティーナの後に従ってうまく紛れ込むことができた。


「こっちよ」

 無事に裁判所を出てからクリスティーナが向かったのは、彼女の住処ランパーネ邸であった。
 邸の娼婦たちはほとんど祭りに行っているようで、外のように騒がしくはなかった。

「おやクリスティーナ、客かい」

 カウンターで帳簿をつけていた中年の女がクリスティーナと後ろの仮面の男を見て言った。

「そうよ」

「もう一人、まだ部屋で待たせてるんじゃないのかい」

「いいのよ、一人でも二人でも同じでしょ」

「……奇特なこった。悪いけど他の姐さんたちはみんな出払ってるからね。押しつけられても困るよ」

「わかってる。それよりラウラかあさん、邪魔しないでよ」

 そんな言葉を交わして、クリスティーナはマルチェロを連れてトントントンと四階へ上がった。
 一階二階は香水の匂いが充満していたが、三階では少し薄くなり、四階は石鹸と汗が入り混じったような匂いだった。各階の入り口にはそれぞれランタンが灯されていたが、四階は特に暗かった。
 クリスティーナの持つランタンの灯りを頼りに奥へ進むと、すぐに小さな木の扉が見えた。

「さあ、入って」

 クリスティーナの後に続いて小さな出口をくぐる。
 灯りのついたその狭い部屋の中には、思いがけない人物が椅子に座っていた。

「エ、エドじゃないか!」

 マルチェロは驚きの声を上げた。
 名を呼ばれた彼はがばっと音を立てるようにして立ち上がると「マルチェロ? マルチェロなのかっ!?」とこちらに駆け寄ってきて、マルチェロの仮面を剥ぎ取った。
 そして友人のやつれた顔を見ると、エドアルドは泣きそうに顔をぐっと歪め、マルチェロをひしと抱きしめた。

「うう、悪かった……悪かった、マルチェロ……俺のせいで……ほんとにごめん」

 突然の強い抱擁にマルチェロは目を瞬かせたが、やがて笑みを浮かべて息を漏らすと、友人の背中をぽんぽんと叩いた。

「仮は返してもらうから覚悟しておけ」


 マルチェロは帽子とバウタ、タバッロを脱ぎ、エドアルドに促されるまま奥のベッドに座った。クリスティーナもヴェールを取ると、部屋に鍵をかけてエドアルドの前にある椅子に座った。
 エドアルドは鼻をすすって、テーブルに置いてあるグラスにワインをついで友人に差し出した。それを受け取るとマルチェロはひと口飲んだ。
 うまい。水で薄められていないワインはこれほどまでにうまかったのか。小さく感動を覚えていたマルチェロは、こちらをじろじろと見ている二人の視線に気づき、咳払いをした。

「それで……私には状況がさっぱりわからないのだが、説明してもらえるか。なぜ私は牢に入れられたのか、なぜパンの中の鍵があったのか……それに朝になったら私は消されるだって?」

 クリスティーナは真剣な顔で「わかってることを話すわ」と頷いた。

「昨日私はマルチェロと分かれた後、ダンドロ邸からあのプリマドンナがヴェールを被って出てきたのを見たの」

「なんだと? お前、ダンドロ邸に戻ったというのか?」

 クリスティーナは「あ……ええと、まあそうなるわね」と視線を逸らした。

「ち、違うのよ。サン・マルコに行こうと思ったの、ええそう。客引きのためにね。それで、たまたまダンドロ邸の前で例のソプラノ歌手を見つけて……後をつけたの。そしたらマルチェロの屋敷にたどり着いたから驚いたわ。その後なぜか役人たちがぞろぞろ屋敷に入っていってあなたが連れていかれるのを見た。あのソプラノ歌手もよ。二人ともサン・マルコの方へ連行されていくのを私は遠くから見ていたの」

 エドアルドが鼻をすすってから言った。

「俺がお前からの知らせを聞いて屋敷に着いた頃には、もうとっくにお前が去った後だったよ。屋敷の召使いにお前のことを尋ねても、何も教えてくれなかった。ソフィアもいないって言うから、混乱しながら屋敷を出たら、クリスティーナが声をかけてきたんだ」

「玄関口から“ソフィアはどこに”とか“マルチェロと約束が”って言う声が聞こえたから、あんたの話してた友人だってピンときたのよ」

 クリスティーナがそう言うと、エドアルドは少し悲しそうに目を伏せて「ソフィアのこと、聞いたよ。ダンドロ様のお屋敷に住んでたなんてな」と言ってから顔を上げた。

「でもそれを聞いて不思議に思ったんだ。ソフィアがあの屋敷で手厚く保護されていたのなら、なんで役人が来たのかな。ダンドロ様は彼女を密偵や公の場から隠すようにしてたんだろ、政府の役人に保護を依頼するとは思えない」

 エドアルドの言葉にマルチェロは目を細めた。
 確かにその通りだ。ソフィアと客間で話をしていたら突然役人が来た。あのときソフィアが小さく悲鳴をあげていた。彼女も役人が来るとは思いもしなかったのだろう。

 エドアルドは続けた。

「それに、今日ダンドロ邸の様子を伺ってみたらちょっとした騒ぎになってるみたいだった。たぶん、彼女は屋敷に帰っていないんだ」

「もし帰っていないんだとしたら」

 クリスティーナは真面目な顔で言った。

「あんたとプリマドンナを捕らえた役人は、ダンドロのご主人が依頼して彼女を探していたわけじゃないっていうこと。きっと彼女は政府の連中が動くほどの大きな秘密を抱えているのよ。それで秘密裏に捕らえられたんだわ。彼女と二人きりで会っていたところで捕まったマルチェロも、ピオンボで誰とも接触しないよう隔離されていたのはきっとそのせいよ」

 クリスティーナの言葉に、マルチェロは首を傾げた。

「そのことだが、お前はどうやって私があの牢に閉じ込められているとわかった? いくら祭りの最中だからといって気軽に入れるわけでもないだろう。それに、牢のことに関してばかに詳しいじゃないか」

 クリスティーナは一瞬躊躇ったが「ああ、それはね」と苦笑いを浮かべて答えた。

「私の父親はピオンボの看守だったの」

 マルチェロは「えっ」と小さく声を漏らした。

「小さな頃からあそこに出入りして、昼食を届けたりなんかしていたのよ。だからあそこの建物をよく知ってるし、看守の何人かとは顔見知りなの、全員じゃないけどね」

「看守と顔見知り……お前の父親は、今は……?」

「去年死んじゃったわ。だから私は駆け出しの娼婦なの」

 クリスティーナが笑って肩をすくめたのに、マルチェロは目を丸くさせて彼女を見つめた。
 そうか、父親が亡くなったから暮らしていけなくなって娼婦になったということか……。マルチェロは意外な真実に一瞬同情の念を抱いたが、クリスティーナは咳払いをすると「それで」と真面目な顔で続けた。

「あんたが連れていかれたことを知り合いの看守にきいてみたら、極秘に閉じ込められてる奴のことかっ訊いてきたわ。看守たちにはあんたの名前も正体も明かされていなかったみたい」

 マルチェロはそういえば看守には名前を聞かれることも名乗られることもなかったなと思った。

「パンの中の鍵は?」

「それもその知り合いに頼んだの。あんたを見張ってる男が持っているのが外側から使う本物の大鍵。ただ、看守はみんな何かあったときのために内側から開けられる鍵を持っているのよ。それを使ったってわけ。怪しまれないように他の囚人と同じタイミングでパンを投げ込んでもらったわ。あなたが顔を合わせずに声だけで会話していた人がいたでしょう、彼がその人よ」

 最初のあの粗野な言葉の奴か。確かに言われてみれば、扉越しに会話した男と、ベッドが運ばれてきたときに顔を合わせて会話した男は別人のようだった。
 クリスティーナは続けた。

「その看守がね、ピオンボ近くで貴族らしい立派な身なりの人が話しているのをこっそり聞いたらしいの。今C318に閉じ込められている男……つまりマルチェロ、あんたのことよ、『日曜の朝までに彼女と接触した例の人物を捕らえることができなければ、C318の男を誘拐の犯人として早々に処刑してしまえ』って話していたらしいわ」

 マルチェロはぞっとした。
“彼女と接触した例の人物”だと? エドアルド……いや、ダンドロ様のことか? あのお方を捕らえられなければ私を処刑するつもりだったというのか。
 もしそれがほんとうに実行されていたら、どれだけ不名誉だっただろうか。何の罪も犯していないのにピオンボに入れられ、誘拐の罪を着せられて処刑されたという生涯。想像するだけで背筋が冷える。

「さっきは一応洗濯女としてピオンボに入っの。途中でシーツを押しつけられた時は焦ったけど、いいカモフラージュになったし、洗濯場の場所も知ってたから助かったわ。他の看守たちの目を盗んでマルチェロの牢まで、やっとたどり着くことができたの」

 クリスティーナがそこまで言うと、今度はエドアルドが口を開いた。

「クリスティーナが動いている間、俺はお前のお父上、フォスカリーニ様とそれからダンドロ様の様子を見てきた」

 マルチェロははっとした顔を友人に向けた。

「そうだ、父上は……父上はこの事をご存知なのか?!」

 思わず身を乗り出した彼に、エドアルドは「まあ、聞けよ」と言いながら彼の肩を叩いた。

「金曜の夜、クリスティーナから話を聞いてから、俺はドゥカーレ宮殿に行ってみたんだ。サン・マルコ広場で聞いた噂じゃ、貴族達が大評議会の間に招集されてるって聞いたから。正式じゃなくてこれも秘密裏だったらしいけど」

 マルチェロは頷いた。確か昨日姉のルイーザが父はサン・マルコに向かったと言っていた。父も招集されていたのだ。

「それで?」

 マルチェロが先を促すと、エドアルドは続けた。

「ところが俺が行ったときには、話し合いはすでに終わったみたいで、すっかり解散した状態だった。俺は父上に何があったのかきいてみたけど、“極秘だ”と言うだけで何も教えてくれなかった。でも今日ーー土曜の朝早く、父上が屋敷を出たのに気づいた。それでこっそり後を追ったら、父上はダンドロ邸に入っていった。父上だけじゃない、お前のお父上フォスカリーニ様も後から来たし、他の貴族の何人かも入っていったよ。きっとダンドロ様から呼び出されたんだ」

 マルチェロは目を細めた。裁判所やピオンボではなく朝からダンドロ邸に行ったということは、父上は私が捕らえられているということをやはりご存知ないのか。それに先ほどエドがうちの屋敷の召使いが何も教えてくれなかったと言っていたのもどうもひっかかる。
 エドアルドは続けた。

「そのまま夕方になってからやっとダンドロ邸から貴族たちが出てきてそれぞれ帰っていった。そのとき、ダンドロ邸に赤胴色のタバッロを身につけた男がフォスカリーニ様に近づいていったのが見えた」

「赤胴色のタバッロ?」

 マルチェロは眉を寄せた。
 水曜の夜、ダンドロ様が警戒していた男だろうか。裏表で色の異なるタバッロを着ていたかもしれない、あの八の間を覗いていたあの密偵?
 エドアルドは言った。

「俺が思うにあれは政府の秘密警察だ。フォスカリーニ様は、彼に何かきかれたようだけど、肩をすくめて“知らん。祭りの間は息子には特に関わっておらん。お前はあいつの何だ?”とおっしゃっているのが聞こえた。男は言葉を濁したみたいでそのまま去って行ったよ」

「絶対に私たちが七の間で見た覗き男に違いないわ。ソフィアを見張っていたんだから、彼女と接触したマルチェロのことを探っていたのかも」

 横からクリスティーナが言った。

「それでマルチェロが捕われていることをお父さんが知っているかどうか探っていたのよ。息子が牢にいるって知ったらすぐにピオンボに向かうに決まってるもの」

「しかしその後フォスカリーニ様に動きがなかった……ということは、ご存知ないままということだろう」

 エドアルドがそう言ったのに、マルチェロは「だといいが」と目を伏せた。

「父上は私に対して厳しい。牢に入れられたなどと知ったら発狂するに違いない…………あっ」

 マルチェロは突然、今まですっかり忘れていたあることを思い出して声を上げてその場で立ち上がった。ひっかかりが少しだけ繋がった。

「政府の秘密警察……屋敷の者たちの口止め……そうか、そういうことか」

 急に納得した様子のマルチェロに、クリスティーナもエドアルドも変なものを見るような目で彼を見上げた。

「な、なによ急に」

「どうしたんだ」

 マルチェロは考えをめぐらせると頭を抱えるようにして、深いため息を吐いた。

「悪い……言うのを忘れていたが、今回の件には私の兄上が絡んでいる」

「「兄上?」」

 二人が目を瞬かせたのに、マルチェロは頷いた。

「あんた、お兄さんなんかいたの」

 クリスティーナの言葉に、マルチェロは頷いた。

「いるとも。私や姉上よりも群を抜いて美しい。目はきりりと釣り上がり、睫毛は雌鹿のように長く、鼻筋もすっと通っていて、唇の大きさもほどよい。まるでメディチにある彫刻のような方だ。あれほど美しい方を私は他に見たことがない」

 クリスティーナは「あっそ」と興味なさそうに相槌を打った。エドアルドは眉を寄せた。

「それでお前の兄上は一体何者なんだ、なんで今回の件に絡んでるんだよ」

「兄上は……秘密警察を従えている十人委員会の一人だ。屋敷で私を捕らえたのは兄上だ」

「なんだって?!」

 エドアルドは思わず立ち上がった。驚きに彼の目が見開かれているのを見て、クリスティーナはよくわからないと言うように眉を寄せた。「ええと、ちょっとまって」と、手の平を突き出す。

「十人なんとか……って政府のお役人さんたちよね。政治に関しては総督以外にも会がたくさんあるっていうのは聞いてるけど、国の政治をやってる人たちなの?」

「十人委員会、この国の諜報部だ」

「ちょうほうぶ……?」

 クリスティーナが顔を歪めると、エドアルドが説明した。

「情報管理局、つまり秘密警察を使って住民の情報を得ることでこの国の政治を操ってる国内最大級の組織。その情報網のおかげで総督や財務官なんかよりも力を持ってるって話だ。連中はマルチェロが今年のカーニヴァルで誰に振られて、誰に殴られたかもきっと知ってる」

 友人が出した例えにマルチェロは顔をしかめたが、クリスティーナは「あらま」と感心したように言った。

「父上とダンドロ様は旧知の仲だが、兄上は違う。若くして十人委員会に所属してから、あの方は我々家族とは別々に住んでいて、父上だけじゃなく、姉上や私とも縁遠くなっている。そのためフォスカリーニ家の後継が兄上になるのか私になるのかも微妙なところだと思っているが、父上は私よりも兄上に信頼を寄せていらっしゃるから……」

「あーわかったわかった、その辺はいいわ」

 クリスティーナはマルチェロの言葉を遮って言った。

「でもこれで納得。お役人がフォスカリーニ邸に踏み込んだのも、召使いたちに口止めできたのも、お兄さんだからこそできたんだわ。役人が彼女に目をつけていて、彼女と接触した人物を捕らえたということね……まとめると、今までソフィアはダンドロ屋敷にいたけど、結局今はその、十人委員会っていうのに捕われてる。一方でダンドロの主人は貴族たちを集めて何かを命じていた……たぶんそのプリマドンナを探してるんだと思うけど」

「わからないな、もしほんとうにそうだとしたら、政府とダンドロ様の意向が違うということになる」

 エドアルドが解せないような表情を浮かべて言った。

「十人委員会の連中はいわばこの国の中枢を担うとも言われてるんだ。そんなのと敵対するなんて正気じゃないぞ。ダンドロ様がほんとうにそんな不利な立場を選ぶかな」

そんな連中が目をつけている女に本気で恋しているのはどこの誰だったかと言う言葉は飲み込んで、マルチェロは別の疑問を述べた。

「それにしても、私の居場所はピオンボだっとわかったのに、ソフィアが閉じ込められている場所はわからなかったのか?」

 クリスティーナは目を伏せて頷いた。

「ええ、そうなの。サン・マルコの方に連れていかれたから、ピオンボだってことはわかったわ。でも看守は彼女のことを誰一人として知らないみたいだった……どこかのお屋敷に閉じ込められているのかもしれないわ。もう一度言うけど、ダンドロの主人が貴族たちを集めてやっきになって誰かを探してるのは確かよ」

 マルチェロはしかめ面をした。
 個人の邸宅内となると見つけるのは非常に困難だ。捕われている環境によるが、時間がかかればかかるほどソフィアの身が安全が危ぶまれる。

「全く、ソフィアという女は一体何者なんだ」

 マルチェロがうなだれたように言ったのに、クリスティーナは「それが一番の疑問よね」と同調した。

「そもそも、あんたたちが呼んでいる“ソフィア”って、ソプラノ歌手としての名前よね。実名はなんなの、エドアルドはいろいろ話をしたんでしょ?」

 マルチェロはエドアルドを見た。エドアルドはきょとんとした顔を浮かべたが、至極真面目な顔で答えた。

「彼女はソフィアだ。それ以上でもそれ以下でもない。わからないか、天使には姓がないだろう、それと一緒だ」

 クリスティーナとマルチェロは呆然と目の前の青年を見た。

「……信じられない、男ってこんなにばかなの?」

 クリスティーナが顔を引き攣らせて言うと、マルチェロが「やめろ、世の男をこんな奴と一緒にするな」とわめいた。

「こいつはあの女のことになると急にアルカディアの羊飼いになる。尋ねる方が無駄だ」

「じゃあマルチェロ、あんたも昨日ソフィアと少しは会話したんでしょ。何か気がついたことはなかった? そもそも昨日は劇場の仕事はなかったのかしら」

「彼女は昨日、非番だったらしい」

 マルチェロは目を閉じて記憶を辿った。

「彼女はエドに話をしなければならないと言っていた。彼女は、ちゃんと折り合いをつけようとしていたんだろう……」

 マルチェロの頭に、あのときの彼女の言葉が蘇る。


『カーニヴァルが終わったらきっともう、舞台に立てなくなります。だからできるだけお休みはしたくなかったのですが、今夜はお屋敷にいるようにと言われて……』

 そうだ、彼女はどこか悲しそうな、諦めたような表情だった。

「……舞台に立てるのはこのカーニヴァル期間だけだと言っていた。ダンドロ様から外出の許可を得ずに無断で屋敷を出たと」

 クリスティーナは目を見張らせた。

「んまあ、無茶なことをするわね。これだけの騒ぎになるってわかってたのかしら」

「どうしてもエドに会って話しておきたかったのだろう。ときどき女というものはなんにも考えずに行動するのだ」

 マルチェロの言葉に、クリスティーナは「ふん、女がみんな何も考えてないだなんて思わないでちょうだい」と鼻を鳴らしてから言った。

「それで? 他に彼女のことでわかっていることは?」

 エドアルドが「あっ確か兄君がいるって言ってたな」と記憶を辿るように言った。

「名前はわからないけど、この国にいるらしい。俺のことを……兄君にお話しくださると言っていた。ああ優しいソフィア、あなたは一体今どこにいるんだ……」

 自分の世界に入ったエドアルドを、マルチェロとクリスティーナは白い目で見た。
 それからしばらく奇妙な沈黙が流れたが、クリスティーナが咳払いをしてまとめた。

「ええと、いいかしら。彼女について今のところわかっていることよ……彼女は外国人で、この秋ヴェネツィアに来たばかり、そしてプリマドンナとして舞台に立った。舞台に立つのはこれきり。ダンドロ邸に滞在していた。お兄さんがいるけど正体も所在も不明、赤胴色のタバッロの男が彼女を見張っていた。今は国の役人によってどこかに囚われている……こんなところね」

「もしかしてっ!」

 エドアルドが声を上げた。

「悲しいけど俺みたいなファンは多いはずだろ、彼らによる誘拐の可能性も考えられるぞ!」

「ばかな、ありえん」

 エドアルドの言葉にマルチェロはこばかにしたような言い方で友人に言った。

「彼女は兄上率いる政府の役人に連れていかれたのだぞ。お前みたいな奴がいたとして、ただのファンが彼女の正式名を出して捕らえるなど、どう足掻いても……」

 マルチェロは言葉を途切らせた。そうだ、昨夜政府の役人が客間に押し入ってきたとき、彼らは彼女の名前を呼んでいた。名前は確か……。

「アンナ=ソフィアだ」

 突然マルチェロがそう言ったのに、クリスティーナとエドアルドが驚いて彼を見た。
 マルチェロは思い出したように続けた。

「昨日役人が彼女を見てそう呼んでいた。彼女の本名はアンナ=ソフィアだ。姓はわからないからどうにもできないが……」

「いいえ、そうでもないわ」

 クリスティーナが真面目な顔で言った。

「ただの庶民がそんな長い名前のはずがないじゃない。水曜日に見たあのドレスといい、やっぱり高貴な生まれなのかも……」

 そのときだ。

 ドンドンドンと、部屋の扉を叩く音が響いた。三人は肩をびくっとさせて固まった。まずい、役人だろうか。
 しかし扉の向こうから聞こえたのは「クリスティーナ? ちょっといいかい」という声だった。娼館の女将ラウラだ。
 クリスティーナは少しほっとした表情になると、立ち上がってベッドのシーツを取り、自分の身体をすっぽりと覆って扉を小さく開けた。

「かあさん、邪魔しないでってあれほど……」

「わかってる、わかってるよ。ただ、あのジーノって男が下で待ってるんだ。今あんたには客が二人もついてるからまた出直してこいってあたしは言ったんだけどね、早いとこあんたにつけを払ってもらわないと何もかもばらすって……一体何のことだい」

「ああーそうだった」

 クリスティーナはいかにもめんどうだという表情を浮かべて「しょうがないなあ」と呟くと女将に言った。

「私が下に迎えに行くから、あとちょっとだけ待ってって、ジーノに伝えてもらえる?」

「いいのかい? あんたも大変だねえ」

 階段の方へ向かいながら言ったラウラに、クリスティーナは軽く笑った。

「まあ他に売るものもないしね……リーナの部屋、空いてるよね。使ってもいいかな」

「いいともさ。リーナの部屋だけじゃない、今日はだいたいどこの部屋も空いてるよ」

 そう言って、女将が階下に下りていくのを見届けると、クリスティーナは再び部屋に入ってパタリと扉を閉じた。マルチェロは状況がわからないというように目を瞬かせ、エドアルドは同情に似た表情をしている。
 クリスティーナは肩をすくめて言った。

「というわけで、お二人には悪いけどここで少し待っててもらっていいかしら。ちょっと仕事してくる」

「仕事? 今すぐに? なぜだ」

 マルチェロが眉を寄せた一方で、エドアルドは眉尻を下げて言いにくそうに口を開いた。

「ジーノって……さっき言ってたピオンボの看守だろう。クリスティーナ、君は……」

 クリスティーナは「へへ」と笑って頷いた。

「そういう約束なのよ、私はお金持ちじゃないからね。できることで払えるもんなら早いとこ払っておかないと、役人に告げ口されちゃ困るもの……大丈夫、大丈夫、仕事だし慣れたもんよ。じゃ、すぐ戻るわ」

 クリスティーナはそう言って持っていたシーツをベッドにどさりと置くと、部屋を出ていってしまった。
 残された青年たちの間に沈黙が流れる。

「どういうことだ。看守だと? なぜここまで来ている?」

 マルチェロの問いに、エドアルドは苦い顔で答えた。

「お前の脱獄のために、クリスティーナは知り合いの看守にいろいろ助けてもらったって言ってただろう。鍵を貸してくれたり、それをパンの中に入れて届けてくれたり、すんなり脱獄できたはずだ。それを手伝ったのがジーノ。そいつは無償で手を貸してくれたんじゃなかったってわけだ。今すぐお代を払えってさ」

「無償で手を貸したんじゃない……? それではクリスティーナは何で払うというのだ」

「おいおい」

 鈍感な友人にエドアルドは肩をすくめた。

「ここは娼館だろ。彼女がつけを払うって言ったらひとつしか……」

 エドアルドの言葉を理解した瞬間、マルチェロは弾かれたように立ち上がり、あっという間に部屋を出ていった。
 そしてまたすぐに戻ってくると、目を瞬かせているエドアルドの肩に手を置いた。

「おい、エド。お前が今持っている財布をよこせ、早く!」

 急かされたエドアルドが慌てて懐から財布を出すと、マルチェロはそれを引ったくるようにして奪い、再び部屋を出ていってしまった。

「これで仮を返したことにしてくれるかな」

 エドアルドはぽつりと呟いた。


 マルチェロが足早に一階に下りていくと、ちょうどクリスティーナが男を連れて階段を上ろうとしているところだった。

「ま、まて」

 マルチェロは肩で息をしながら二人の前に立ち塞がった。クリスティーナは突然現れた彼にどうしたのだろうと目を丸くさせている。後ろにいるうさんくさそうな男がジーノと言う看守だろう。
 マルチェロは彼に持っていた財布をバンッと押しつけた。

「今回のつけは私が払う。こんな駆け出しの女じゃなくて、これでコルティジャーナでも買うがいい」

「えっで、で、でも」

「黙れ! これ以上また何か請求してみろ、あらゆる権力を使って貴様をこの国から追放してやる。それともガレー船送りか? この私には容易いことなのだぞ。わかったらさっさと立ち去れっ!」

 マルチェロの声は低く迫力のあるもので、自分でも気づかなかったがこのときの彼は父親にそっくりであった。
 財布を押しつけられたジーノは「ひい、わ、わわわかった」と言うと転ぶようにして後退り、逃げるように娼館を去っていった。

 彼の姿が見えなくなると、マルチェロはふうと息を吐いた。クリスティーナはまだ目を丸くさせてマルチェロを見ている。

 カウンターに立っていたラウラ女将が感心したように「へえやるね、旦那も」と言った。

「やっぱりお貴族様となると追い出し方が違うんだねえ……国から追放か、ガレー船送りだって? 初めて聞いたよ」

「あっお、女将、その、すまない、客を追い払ってしまった」

 マルチェロがすまなそうに言うと、ラウラは「いいんだよ、ああいうのは」と肩をすくめた。

「こっちが一回断ってんのに押しかけてくるなんてのは常識もった客じゃないさ。クリスティーナを脅してたみたいだし、それに今日の分のお代は最初に上がっていったお貴族様に十分払ってもらってるからね。よかったじゃないか、クリスティーナ」

「う、うん……。ありがとう、マルチェロ」

 クリスティーナが驚きながらも礼を言うと、マルチェロは「ふん」と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

「今回の件でお前には世話になったからな。当然のことだ。それにあの金は私のではなく……」

「俺のだ」

 上から声が降ってきたので見上げると、エドアルドが階段を下りてきたようだった。彼はやれやれと呆れたように言った。

「全く、財布ごと渡しちまうとはな。これだから育ちの良い貴族の坊ちゃんは困るよ」

 マルチェロは「悪い……だ、だがお前も貴族だろう」と小さく言った。

「金は後で返す。今は一銭も持っていない」

 着の身着のまま牢へ連れていかれたマルチェロは、今も財布など持ち合わせていないのだ。すまなそうな顔をしている友人に、エドアルドは笑いかけた。

「わかってるよ。これで仮はちゃらにしたって良いんだぜ。それにしてもあんな風に飛び出していくなんて、お前って意外と……」

 エドアルドの言葉をマルチェロは「ごほんごほん」と大きく咳をして遮った。

「邪魔が消えたところで、夜が明ける前に少し仮眠をとらせてほしい。女将、先ほどの部屋を借りるぞ」

 マルチェロの言葉に、ラウラは「いいともさ、なんなら昼まで好きに使いな」と言ってくれた。
 エドアルドが「ええと、俺はもう家に帰った方がいいかな」と出口に歩み寄ったところを、マルチェロに腕をがっしり掴まれた。

「変な気をきかせんでいい。お前との話はまだ終わっていない」

「えぇーいいのか、マルチェロ。本音じゃないだろ」

「うるさい、早く上に行くぞ……クリスティーナ、お前も来い」

「う、うん」

 こうして三人は再び四階の奥の部屋へ戻った。

 パタリと扉が閉められた後、三人は気まずい沈黙に包まれた。
 先ほどとは違う空気が流れている。「お、俺、やっぱり」と言って部屋を出ていこうするエドアルドの襟首をマルチェロが掴む。
 クリスティーナが咳払いをした。

「ね、確かに話し合いも大事だけど……その前に少し眠らない? 三人とも寝不足だから出る知恵も出ないわ。朝になって起きたら意見を出し合いましょうよ」

 クリスティーナの言うことも最もだったので、それぞれ仮眠をとることにした。
 ベッドは一番疲弊しているマルチェロが使った。エドアルドは椅子に座ったまま腕と脚を組み、クリスティーナはその向かいの椅子に座ってテーブルの上に両腕を枕にして眠った。
 三人とも疲れ切っていたので、すぐに寝入ってしまった。

***************

 夜明け前。

「逃げた、だと……?」

 ピオンボの看守たちが集まる間に、マルチェロの兄ジュリオ・フォスカリーニは報告を聞いて唖然とした。
 見張りを命じられていた役人と看守は申し訳なさそうに俯いている。
 ジュリオは唸った。今回看守たち全員を買収しなかったのが間違いだったか。それにしても良い食事を与えてベッドまで用意してやったのに、まさか脱走するとは。

「あんのばか者……!」

 ジュリオは眉間にしわを寄せて、テーブルに拳をガンッと打ちつけた。


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