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大好きな岩手から、異彩を。

みなさん、はじめまして。

2023年2月に入社しました、矢野智美です。
広報1年生です。

そして、岩手のみなさんへ。
アナウンサーを辞めて、たった半年で、岩手に戻ってきてしまいました。

なぜ、アナウンサーを辞めて岩手を離れたのか。
なぜ、半年で岩手に戻ってきたのか。

私の自己紹介と一緒に、改めてお話しさせていただきたいです。

ただ、伝えたいことが多くて長くなってしまいました。
目次の1〜9は読み飛ばして「10:最後に」だけを読んでいただいても大丈夫です。

みなさんの貴重な時間を、1分でもいただければ、嬉しいです。

1:岩手が好きだけど、生まれは群馬県

毛利守さんが宇宙へ行った1992年
夏の暑い日に小さな病院で生まれました。
2520g。小さいけど元気いっぱい。

父が回した8mmビデオでは、家族が「スマイルともちゃん」と呼んでいました。平和な4人家族。二人姉妹の妹です。
家族といるときは気分屋で、ワガママな妹気質。
30年たった今も、それは変わりません。

父に、高いたかいしてもらっている0歳の私です。


2:趣味は、テレビ

小さいころ、特に好きだったのは毎週土曜日放送の「王様のブランチ」でした。関東地方を中心にTBSで現在も放送されている情報番組です。
毎週欠かさず、10時〜14時まで4時間テレビにかじり付き。その後、4時間の内容をほぼ全て母に話す。これが土曜日の恒例でした。

小学校から帰ってきた時間に放送されていた夕方の「ドラマ」の再放送も好きでした。ちょっと大人の会話も、ここで学んだ気がします。
テレビに合わせてご飯を食べたり、遊んだり、テレビを軸に生活していた気がします。

高校生3年生のころ。
合唱部顧問の先生に「矢野ちゃん、アナウンサーに向いてるんじゃない?」と言われて、本気で目指すようになったのも、テレビが好きだったからかもしれません。

「自分がアナウンサー?」と最初はピンとこなかったとき「高校のOGの方が名古屋でアナウンサーをしている」と顧問の先生が名古屋に連れて行ってくれました。初めてお会いしたアナウンサーは細くて、綺麗で…。その方が話し始めると、名古屋駅のひつまぶし屋さんもまるでスタジオになったみたいでした。

その瞬間からアナウンサーに強烈に憧れ、大学は東京へ行くことにしました。


3: 47/1の出会い

2011年の大学進学後から、アナウンサーになるための試行錯誤を繰り返しました。でも、就職活動は全然うまく行きませんでした。
東京には容姿端麗な方も、話しが上手な方もたくさん。
私は、箸にも棒にもかかりませんでした

キー局とよばれる東京の局の試験が終わり、準キー局、地方局と、徐々に募集も減っていく中、とにかくエントリーシートを書き続けました。全国の局へ、100枚以上書きました。
その頃にはもうエントリーシートをみるだけで吐き気がしていました。
うぅ…。

雪が溶けて、桜が咲いて、新緑の季節になったころ。
もう諦めかけていましたが、やっと「内定」をもらいました。それが、岩手の局でした。全国各地で居場所を探して、岩手に拾っていただいたような気持ちでした。

2015年の春
アナウンサーとして入社し、やっと夢が叶った気がしました。

でも、そう簡単には行きませんでした。

「アナウンサー」のイメージといえば…
「原稿を読むのがうまい!」「話がうまい!」「キレイ!かっこいい!面白い!」などでしょうか。

私はというと…
「ニュースを読むと、間違える」「フリートークは緊張して、何を話しているか分からなくなる」「容姿もイメージしていたアナウンサーには程遠い」自分の出たテレビを見ては、がっかりしてばかりでした。


4:古き良き朝市の、おばあちゃん

毎日失敗続き。知り合いもいない岩手で、完全に自分を見失っていたころ。
インターネットで見つけた場所に出かけてみました。

盛岡にある「朝市」です。
神子田町(みこだちょう)というところにあるので「神子田朝市」。
野菜を売っていた農家のおばあちゃんは、私が「県外から来た」とか「テレビ局で働いている」と言ってもあまり興味がないようでした。

その時の私にはそれが心地良く、「アナウンサー」としてではなく、普段着で話せる場所を見つけた気分でした。何度か通うようになり「テレビに出てたね」と話し掛けてくれるようになりましたが、失敗の翌日も、朝市の人はなんにも変わりませんでした。盛岡の人の放ってくれる親切が心地よく、だんだんと岩手のことが好きになっていきました。


5:東日本大震災を知り、岩手を好きになる

2017年、入社して2年が経ったころ。原稿を読むことや、決まった枠に収めるのが苦手な私に、ディレクターがちょっと変わった企画を発案してくれました。

岩手の国道45号線を北から南まで300キロ歩いて地元の方とふれあう旅企画です。企画の名前は「TOMOMI45」。どこかで聞いたことのあるアイドルのような名前ですよね。取材はハードでした。早朝、盛岡を出発。2時間かけ沿岸へ。日暮れまで、地図を片手に1日歩き続ける。ハードでしたが、それを超えた何かを得られた企画でした。

洋野町という岩手最北端の町をスタートして、徐々に南へ。
痛々しい震災の爪痕がありました。
隣の家との隙間はほとんどなく、びっしり並ぶ「仮設住宅」。
人がアリのように小さく見える、大きな「防潮堤」。
大きなコンクリートの「震災遺構」は、厚いコンクリートが、板チョコのようにポキっと折れていました。
2015年に岩手に来た私にとって「震災」に触れる取材は、この企画が初めてでした。

昼食のことも考えずひたすら歩いていた日のことです。
お昼を過ぎても食堂のある町に辿り着かず、偶然出会った地元の人にお昼をご馳走してもらったことがありました。「うちで食べていきな」と、地元のめかぶたっぷりのそうめんや、目の前の畑で作ったお米をおにぎりにしてくれました。

このとき、「岩手には、想像を絶する環境で生活を再建しながら、隣の人に何かを分け与えられる人がたくさんいる」ということを知りました。
一方、私はというと、「2011年のあの日から自分の夢だけを追いかけて、夢を叶えてからも自分のことばかり考えていた」気がして、とても恥ずかしくなりました。

震災後、必死に暮らしを再建してきた方々と出会って、ぐるっと180度、何かが変わった気がしました。

最先端のファッション、ピカピカのオフィス、新しい文化に理由もなく憧れていたのは何故だろう?
時に恐ろしいけど青く美しい海、助け合える人たち、目の前にある海や山からいただく、季節の食べ物がある岩手は、ものすごく豊かでした

あ、私。岩手…好きだな
このとき、価値観が変わりました。

企画が始まってから1年半。300キロを歩き、岩手最南端、陸前高田市にある「奇跡の一本松」に辿り着きました。
リアス海岸特有のアップダウンの激しい地形を歩き続け、アナウンサーとは思えない立派な足になってしまいまいしたが、そんな足すら愛おしく思えるほど、一歩一歩の中にかけがえのない思い出ができた企画でした。
私が群馬より、東京より、岩手が好きなのは、こういう理由からでした。


6:空白の2ヶ月

沿岸を歩く企画を放送して視聴者の方から「地元に住んでいても知らない情報をありがとう」という声をいただくことがありました。
それからは、「地元の方でも知らないことを伝えること」が私のやりがいになっていきました。

「まだ知られていない岩手の良さを、県内はもちろん、県外にも伝えたい」

「伝える」ことは野菜の収穫に似ているなと、ときどき思います。
アナウンサーは、料理人が作った料理を最高の状態でお届けする人
ディレクターは、素材の旬を見極め収穫し、美味しく調理する人
アナウンサーよりディレクターの方が、より素材に近いところで仕事ができるんじゃないかと思って、ディレクターに挑戦させてもらいました。

ただ、新しいことを始めるには、エネルギーがいるもので、簡単ではありませんでした。アナウンサーという枠に自分を収めながら、番組という枠に収めるよう素材を調理していく。様々な枠に自分を収めなければと必死でした。

そうして、スキルを身につけることと引き換えに、無くなっていたものがありました。

それが「メンタルの体力」です。

メンタルの不調に気づかず仕事を続けていたようで、気づいたころには壊れてしまっていました。感情のバルブが閉まらなくなり、涙が止まらなくなっていました。スタジオでカメラを前にして話すことが、苦しくなるように。
二つの仕事をしていることを理由にどちらかの手を抜くのは嫌だと思っていて、「絶対に間違えてはいけない」と自分にプレッシャーをかけていました。読み間違えてしまった時は、自分そのものの価値を感じられないような日々が続きました。「みんなに求められるアナウンサーにならなければ」と考え過ぎてしまったのかもしれません。

病院に行ってみると「うつ病」と診断されました。診断書を会社に提出し、翌日からお休みをいただきました。それからは、群馬の実家に帰り、じっとしていました。自分の頭の上だけに黒い雲があるようで、何をするにも力が入らず、「食べる、寝る」という「生きる」の積み重ねから始めました

「テレビ画面にはもう出られないかもしれない」「ハードな仕事はもうできないかもしれない」という想いが何度も頭をよぎりました。
この二つができなくなることは、そのときの私にとって「職を失うこと」と同じでした。

徐々に体調がよくなると、考えも変わってきました。
これまでずっと応援してもらっていた岩手の人たちに申し訳なくなり、「何も言わずに岩手を出てきてしまった」「早くスタジオに帰らなきゃ」と思うようになりました。
お医者さんに相談すると、「同じ職業、同じ職場に戻ることは再発のリスクに繋がる」と言われてしまいました。
それでも「もう一度岩手の人たちと繋がりたい」と思い、一人暮らしの練習を始めました。「早く帰りたい」と思えるようになってから、カメラの前に復帰できるまではとても長かった気がします。

メンタルの体力も回復し、仕事復帰が目前になったころ。
決めたことが、ありました。

「やりかけの仕事を全て終えたら、違う働き方を見つけよう」

仕事に復帰してから半年。
「うつ病完治」の診断をもらいました。
あとで調べてみると、「うつ病」は脳の炎症で、イメージとしては胃炎と同じだそうです。胃炎のときには無理して食べないですし、適切な処置をして回復を目指しますよね。「うつ病」の人、イコール「弱い人」ではないのですが、復帰直後の私は、自分が弱い人間に思われないよう過剰に頑張ってしまっていました。


7:メディアの立ち入り禁止領域。

2022年1月31日
ディレクターとして取材を始めたドキュメンタリーが、目標だった全国放送になりました。

休み前に「やりかけだった仕事」として考えていたものが、多くの方の力を借りて一つ形になりました。

ドキュメンタリーを通して多くの学びがありました。人生の先輩を取材することで人間的に成長させてもらった部分も多くありました。それと同時に気づいたこともありました。

メディアは現実を「見つめるもの」

取材相手に自分の意思を押し付けるのは御法度で、今、目の前で起きていることを変えるのではなく、見つめることが基本でした。
岩手に住んで7年。岩手の良いところだけでなく、変わればもっとよくなるところが気になっていました。
「岩手をもっと良く変えられたらいいな」という思いがわいてきて、メディアでの仕事が、自分のやりたいことと少し違うようと感じてきました。
現実を変えることは、メディアの立ち入り禁止領域のような気がしたからです。

ドキュメントが目指していた形になったことと、目指す方向の違いがきっかけとなり、2022年9月末、テレビの仕事を辞めることにしました。

でも、父は大反対!
「こんなに良くしてもらった岩手を手放すなんて信じられない」と
転職を理解してもらうことはできませんでした。

大切な出会いも数えきれないほどあり、後ろ髪をひかれましたが、「元気な今、動くしかない」と一度テレビの仕事に区切りをつけることを決めました。


8:東京で若手ビジネスマンの心意気に触れる

2022年10月
「岩手にいるとテレビの仕事を辞めたことを後悔してしまう」と思い、全く別の環境に飛び込みました。
働き始めたのは、東京にある物流業界のベンチャー企業です。
「広報として独立し、岩手をPRすること」を目標にしていたので、基礎をスピーディーに学べそうな、企業の一人目広報として雇っていただける会社に勤めました。

ただ、業界も、職種も変えた転職は、当たり前が全て違っていて、まるで別世界のようでした。

スピーディーに仕事をすること。
自分はどう考えるかはっきり主張すること。
1秒で伝わるコミュニケーションをすること。

アナウンサーでは求められなかったことばかりで、なにもできない自分と向き合う地道な日々でした。

「少し息抜きを」と、10月下旬に盛岡に帰りました。
宿泊先に選んだのはその頃、盛岡にできたばかりの「ホテル マザリウム」でした。へラルボニーが契約する作家のアートが施されたホテルです。
実は、このことをインスタに投稿したことがきっかけでヘラルボニーとつながりました。

ヘラルボニーと繋がったきっかけのインスタ動画

投稿を見たヘラルボニー人事担当の伊藤さんからDMで連絡がありました。
SNSで繋がるというのが、なんだか今っぽいですよね。
「ヘラルボニーとつながることで、また岩手と繋がる一歩になるかも」とお返事をしました。

そして、ヘラルボニーの「岩手聖地化計画」を聞きました。

「ヘラルボニーはまだまだ成長過程。「るんびにい美術館」をきっかけに始まったヘラルボニーは岩手を拠点に、より地域に根ざした企業として、障害というイメージを変えていきたい。」

岩手に「いつか」「何か」の仕事で戻ろう思っていた私は、自分のイメージしていた「いつか」「何か」を遥かに超えたスケールの未来予想図を見たような気がして、へラルボニーなら「一人では見られない最高の景色が絶対見られる!」と「今しかない!」と強烈に惹かれました。

でも、東京の企業に転職したばかり。
「広報として何もできない私を採用して、育ててくださった会社の方に申し訳ない」という思いと、「ヘラルボニーで岩手聖地化計画に携わりたい」という思いの間で揺れていました。

どうにもならない気持ちを、CEOに素直に相談しました。
返ってきたのは意外な言葉でした。

「矢野さんが、やりたいことをすべきだと思います。矢野さんの人生ですから」

手持ちのタスクを全てやり切ることを条件に、快く転職を後押ししてくれました。

父はというと…大反対!
「せっかく採用してくださった会社を4ヶ月で辞めるなんて失礼」
「また岩手に戻るなんて、送り出した岩手の皆さんの気持ちをなんだと思っているんだ」
シャワーのように、言葉を浴びました。

家族であっても、想いが伝わらない現実を前にして、親子の価値観のズレを感じました。


9:枠にとらわれない、キャリアを

父の中にある価値観ってなんだろう?
いつからそう決まったんだろう?
なんで、転職しちゃいけないのだろう?
「なんで、なんで」が頭の中をぐるぐる駆け巡りました。

自分を落ち着かせるため、へラルボニーの両代表の著書「異彩を、放て。」を読んでみました。ゆっくりとめくり始めたページは、あっという間に最後の1ページになっていました。

社会の価値観が変われば、個人の価値観も変わるかもしれない。
いつか、父に私が伝えられなかった想いが伝わる日が来るかもしれない。

「“普通”じゃない、ということ。それは同時に、可能性だと思う。」という言葉にハッとしました。
父にとっては普通じゃない選択をする今の自分も、働けなくなってしまった過去の自分も、ヘラルボニーならまるっと肯定できるかもしれない。

これまでにないモノを世間に発信することで起きる摩擦や、障壁をへラルボニーは軽々と超えているヘラルボニーという船に乗ったら、絶対に面白い景色を最前線で見られる。
そして、ヘラルボニーが魅せる景色を、岩手の人に見てもらいたい。
そう、思いました。

「広報」として種をまいて「ディレクター」のように旬を見極め収穫・調理して「アナウンサー」のようにそれを最高の状態でお届けする。
岩手という地だからできる。
私なりの仕事の形が見つけられた気がしました。

ヘラルボニーの一人として、世界を変えることは、私にとってやりたいことだと心の底から思えて、父の反対を押し切り岩手に戻ることにしました。


10:最後に…

私は、人と違う道を選ぶとき、足がすくんでしまいます。
でも、そんなときはいつも、ある日の日記を開いてこの言葉を思い出します。

「人生は急カーブが面白い」

日本テレビアナウンサーの藤井貴彦さんの言葉です。
news enery.の中継を岩手からした際、お世話になっていたご縁もあり、アナウンサーを辞めてからもお会いしたことがありました。
転職したばかりで不安いっぱいのとき「やってみようよ!振り返ったとき、あんなこともあったなと思える日が来るから」と、優しく背中を押していただきました。

「“普通”じゃない、ということ。それは同時に、可能性だと思う。」この言葉を胸に、『急カーブの人生』をこれからも岩手で歩んでいきたいと思います。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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