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続・卒業文集

はじめまして、2023年9月に入社をした田村渓一郎(たむら・けいいちろう)と申します。

札幌生まれ仙台育ち、Abu Dhabiを経由して現在は盛岡本社に勤めております。
好きなものは自然、写真、音楽、お酒。
アートや福祉には何の関係も興味もなかった私ですが、今こうしてヘラルボニーの入社エントリを書いていることに感謝や驚きなど様々な感情を抱いております。

私も入社前から大好きで読み漁っていた「入社エントリ」。
いざ書くとなると何を書いていいのやらですが、私の常に考える「顔の見えない誰かよりも自分の半径片手分」に想いを届けようと著しました。

札幌編

2000年5月、北海道札幌市に誕生。
一人っ子、かつ、いとこも1人という私は両親と祖父母に甘やかされて甘やかされて、
生粋の一人っ子人間に育ちました。

やりたいことはやりたい!
欲しいものは欲しい!

当時は何も思わずとも、習い事にお出かけに、やりたいことはなんでもさせてくれた両親と、お菓子におもちゃに、欲しいものはすぐに買ってくれた祖父母には、とっても感謝しています。

札幌のお家でピース

仙台編

2009年8月、父の転勤で初めて道外へ。
宮城県仙台市に移動し、小中高と過ごします。

高校生のときには校外の活動にも参加をするようになり、サマープログラムや短期留学などを通して、同世代はもちろんそれ以外の様々な人と交流をするようになりました。

数度の海外渡航やたくさんの人との対話の中で、私は気づくとアメリカ進学を志すようになっていました。

ただ、私の高校はほとんどの生徒が国内の4年制の大学に行くような地元の進学校。

ここでも一人っ子を存分に発揮し、センター試験の勉強なんてせずに自分の興味を優先した私。
マジョリティではない行動と決断を応援してくれる人もたくさんで本当にありがたいなと思いつつ、もちろんそうではない人もいたことでしょう。

ここでタイトルの話に戻ります。
私は高校の卒業文集で、同級生に向けて(勝手に、恥ずかしながらも、)宣言をしました。

「この中で一番楽しい人生を送っていく」

勉学に励んで、レベルの高い大学へ進学し、大企業に勤める。
それもとっても素敵なことだけど、それ以外の選択肢もある。
強い理想を持つ人の多い環境で、最後の最後に放った反抗心でした。

地元仙台の河川敷

Abu Dhabi編

突然のAbu Dhabi。
え、アメリカは?
え、アブダビってアメリカじゃないよね?

はい、アブダビは中東の砂漠地帯、ドバイを擁するUAE(アラブ首長国連邦)の首都です。
ここでなぜか私はアブダビにある大学に進学をします。
これも縁と運あってなのですが、話せば長くなるので割愛。

結果、4年間の大学生生活を乗り越えて無事卒業することになるわけですが、2019年に入学をした私は、大きな想定外に出くわします。
新型コロナウイルスによるパンデミックです。

(隠れ仙台編)

舞い戻ってきました、我が仙台。
オンライン授業は1年半に渡って継続され、その期間は帰国をし、仙台から授業を受ける日々。
時差があるので授業は夜。
日中は仕事をして、友達と遊んで、、。
思い描いたものとは違えど、それはそれで大変有意義な時間でした。

なんてったって、ヘラルボニーと出会うのもこのおかげなのです。

私とヘラルボニーとの出会いは一枚のハンカチ。
お世話になっている方からギフトでもらったのは「無題(葉っぱ)」のハンカチでした。

黒を基調としていてシックだけどなんとも絶妙に散りばめられた色たち。
アートだけでなく背景までもなんと素敵なプロダクト。
それから私はSNS等で密かにヘラルボニーを応援をするようになりました。

さらにその年の冬、嬉しいお誘いをいただきます。
当時ヘラルボニーでインターンをしていた友人から
「今度仙台でPOPUPやるからストアキャストやらない?」とのお誘い。

二つ返事で返したYES!には現在に至るご縁が詰まっていたのかもしれません。

仙台PARCO2 POPUP店頭にて

再びアブダビ編

パンデミックも落ち着いてアブダビに戻り、大学3年生から4年生に上がるころ、ちょうど就職を考え出すタイミングです。
さて私は何をしようか。

9月入学の分、同級生からは若干遅れての就活スタート。
なんなら周りには就職先が決まっている友人もポロポロ。

やりたいことがどうだ、
待遇がどうだ、
地元を出るがどうだ、
頭を悩ませる友人を横目に私の判断基準は決まっています。

「今自分が一番楽しめそうなところ」

私の中でヘラルボニーへの憧れは強いものに変わっていました。
あの会社なら何か素敵で楽しいことができるかもしれない。

インターンを1年間続け、晴れて、2023年9月に入社をすることとなりました。

改めて言葉にすると、本当にやりたいことをやって育ったなあと思います。
生粋の一人っ子な私はいつもわがままで、欲しいものがあれば欲しいし、やりたいことはやりたかったようです。

「生まれ持った性分というのは一生変わらないと、私の大好きなじいちゃんが亡くなったときにお坊さんが言っていたから、たぶんそうなんだろう」

再び、高校の卒業文集に書いた言葉です。
私のわがままはもう変わらないのじゃないかと思っていますが、(というかそうだと言い切ってしがらみから逃げているのかもしれませんが、)それでも私はどこかでそれよりも大切な何かが見つかるまでそれを貫き通すのだと思います。

そんな私が岩手でやりたいことはなんだろうか。

アブダビの砂漠にて

盛岡編

渓一郎の「渓」は父の好きな渓流から。
私も小さい頃から毎週のように自然の中で遊んでいました。

そんな私にとって、身近にはいつも川がありました。
楽しくて日が昇るまで話したときも、悲しくて寂しくて駆け出した先もいつも川でした。
私の大好きな東北、新天地岩手から我が故郷宮城へと流れる北上川のほとりで新たな生活をスタートできることをとても楽しみに、誇りに思います。

話は変わりますが、私は大学にてビジネスを勉強していました。
完璧なマーケティングは人に気づかれないほど街に溶け込むものであるというのは本当だと思っています。

岩手の人にとって、日本人にとって、世界の人にとって、ヘラルボニーが川のように、自然に、当たり前に寄り添い、憩いの場となれるように尽力して参ります。

そして、見ておいてくれ我が同級生たちよ

「これからもこの中で一番楽しい人生を送っていく」

田村渓一郎

現在の通勤路からみえる北上川と岩手山


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