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世界一周で出会ったのは、自分の「無意識の偏見」だった

みなさま、初めまして。
2023年6月に新設されたウェルフェアチームの立ち上げメンバー、神 紀子(じん のりこ)と申します。

あっという間に時が経ち、気づけば入社後から進めていた新規事業【DIVERSESSION PROGRAM(DE&I研修)】がローンチするに至りました。

ヘラルボニーを通して関わる方も増えてきた今、改めて”なぜここにいるのか”をnoteを読んで下さっている皆様にも、お伝えできたらと思います。

そのためには、私の人間像も書いていくのですが、
一見穏やか、マイペース、おじいちゃん(え?おばあちゃんじゃなく?)というのが、よく言われるところでしょうか。

一方、大好きな親友からもらった「私らしさ」には「青い炎」という言葉があります。
見かけによらず心の中に青い炎が燃えている、と。

自分でもなるほどな!と思ったのですが、確かに、私の中に炎はあります。
このnoteでは、普段人に話すことはない、
自分の中にある「炎」の正体について、書いてみたいなと思っています。

少し長くなりますが、ぜひ最後までお付き合いいただけますと幸いです。


1.ヘラルボニーとの出逢い

ヘラルボニーとの出逢いは、2022年の年末。
いつかソーシャルビジネスの世界に行くんだ!と息巻いていた私は、
インパクトスタートアップ協会」発足のニュースを見て、ワクワクしていました。
並ぶ幹事団の中に、ひときわ異彩を放つ「ヘラルボニー」の会社名。

「“普通”じゃない、ということ。
 それは同時に、可能性だと思う。」

この言葉に吸い寄せられるようにして、私はヘラルボニーへの入社を決めました。

私は昔から「人と同じ」が苦手でした。
子供の時、女の子がみんなで一緒にトイレに行くのが嫌で、誘われても断ったり。中学校では標準服を買わずに皆と違うスカートを履いてみたり。

大きくなるに連れて、友人からは「変わってるね」と言われることが増えていき、いつしか「変わってるね」は自分にとって褒め言葉になりました。

そんな「普通が苦手」な私にとって、ヘラルボニーのメッセージは、まるで自分のことを全肯定してくれたように感じたのだと思います。

2.これが私の「マイノリティ」体験

東京の田舎町で生まれ、出版社に勤める父、小学校教師の母、2つ上の姉との4人家族。今でこそ当たり前になってますが、まだ両親共働きの家庭はとても少ない時代でした。

私の母はバイタリティに溢れた女性で、金八先生か!?と言わんばかりに、熱量を持って教師の仕事に取り組んでいました。
毎日夜遅くまで熱心に仕事をする母の背中をみて、私たち姉妹は育ったのです。

小学校3年生のある日、授業参観が行われた時のこと。
その日、親が来ていないのは私だけでした。
確か算数の問題を解いた後のこと…
先生が「みんな出来たかな?それでは保護者の皆さん、子供たちが出来たか見てあげてください」と声をかけると、
クラスメイトのお母さんたちが、ワラワラと我が子の机に駆け寄りました。

当時控えめだった私は、両親が来ていないことを先生に伝えられず、俯いていると…

隣の席のゆうじくんが彼の母親に言ったのです。
「母ちゃん!こいつの母ちゃん今日来てないから、一緒に見てやってよ!」

あの日、私はゆうじ君のあの一言に救われました。

たったそれだけのことと思われるかもしれませんが、あの時の自分にとってはとても大きな出来事だったように思います。

いま思えば、この時のゆうじくんの
「当たり前のように誰かに手を差し伸べる姿」が、「私の原体験」になっていたのです。

大好きなしっかり者のお姉ちゃんと、まるまるの私

3.自由がすべて!

これが私が「変わってるね」と言われる所以だと思うのですが、我が家の教育方針(と呼べるものでもないのですが)は少し変わっています。

私の両親は「周りと比べる」ことをあまりせず、あれこれ言うタイプではありませんでした。

例えば、子どもの時から自転車に乗れなかったけど、
「皆乗れるから乗れるようになろうね」と言われたことはないし、
無理にでも練習させよう!ということもなく。

高校受験の時は、塾に行け!と言われることもなかったので、
友達が行ってて楽しそうだから!という理由で、自分から塾に行かせてくれと頼みました。

極め付けは、成人式。
当時、不真面目な大学生代表として、バイトと遊びを謳歌していた私に、母は言いました。

成人式で振袖を着るお金はある。これをどう使うかはあなたの自由です。」

振袖を着る!ということに興味のなかった私は、
そのお金で人生初の海外となる、オーストラリアに短期留学を果たします。
ここから私の旅好き・海外好きが始まり、自分の人生に様々な気づきを与えてくれるのだから、肝っ玉な母のこの言葉には感謝しかありません。

そんな両親のもと育った私は、良くも悪くも周りのことを気にしない、マイペースで自由を愛する人間に育っていきました。

4.続・マイノリティ体験「涙のリクルート時代」

高校・大学を自由な校風の女子校で過ごし、大学3年になると就職活動が始まりました。
建築学科に通っていたためゼネコンや住宅メーカーなど、建築系の会社を受けまくり、4月には某住宅メーカーからの内定が。

しかし、いざ内定が出て悩み始めます…
本当にこの会社にいきたいのか…?私がしたいことは何なんだ…?

そんな、世の就活が終わった6月のタイミングで出会ったのが
「株式会社リクルート」の「新卒契約社員」の募集。
あれよあれよと吸い寄せられて、気づけば内定が決まりました。

そう、あろうことか、私立の4年制大学を出た末に、
「正社員」ではなく有期雇用の「契約社員」というマイノリティな選択をとったのです。

その当時はもちろん自分の決断に疑いの余地はなく、決めたから!と家族にも報告したのですが…

この決断を許してくれた(他にも私の驚くような突然の報告をいつも受け止めてくれる)両親には、感謝の気持ちでいっぱいです。

大きな期待に胸を膨らませて入社したリクルート。
入社1年目は、全く営業が取れず、上司に怒られ、クライアントに怒られ、会社のトイレで泣く日々が続きました。
もう辞めようという一歩手前まで追い込まれていたというのが、正直なところです。

しかし、有期雇用が背水の陣となり、逆に自分を奮い立たせてくれたようで。圧倒的な成果を残して正社員登用されるぞ!と思い、巻き返しを図った3年目。一心不乱に脇目もふらず目標達成を目指す…そんな私についたあだ名は「武士」。笑

3年目には念願の全国表彰、正社員登用、その後も数々の貴重な経験を積ませていただきました。

私にとってのリクルートは、
「圧倒的に勝ちにこだわる」そんな自分の新しい一面を教えてくれた場所。

そして、大好きな「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」という言葉は「機会は自分でつくりだすものだ!」という強い芯を、自分の中に根付かせてくれたと思います。

5.理不尽な世界への憤り

そうやって仕事にのめりこんだ20代。
私には、学生の時から叶えたい夢がありました。
それは「世界一周」。

30歳になったら世界一周に行く!と決め、
29歳では一ヶ月の休みをとりフィリピンに英語留学へ。

そこで直面したのは、「世の中の理不尽さ」でした。
フィリピンは陽気な人が多く、現地の人と仲良くなるのに時間はかかりませんでした。
そして現地の人と話せば話すほど、その陽気さの裏に見え隠れする貧困問題。

こんなに素敵な人たちが、生まれた環境のせいで自由な選択が制限されている。
そこで初めて、自分はなんと恵まれた環境で生きてきたのかということを知り、
環境の上にあぐらをかいていたことに気がつきました。

その時は、何も知らずに呑気に生きてきた自分が、すごく恥ずかしく、すごく腹立たしかったのを覚えています。

怒りをエネルギーに変えて、帰国後はNPOでプロボノ活動に没頭。
しかしNPOの実情を知り、もっとビジネスを学んでから飛び込みたい!と感じた私は、
2社目となるグロービスへの転職とMBA取得を決意します。

そして30歳になってすぐ、リクルートを退職し約2ヶ月の世界一周に旅立ちました。

6.世界は広くて、やさしかった

世界一周では、約2ヶ月をかけて10カ国ほどを周りました。
1人で大きなバックパックを背負い、飛行機で周るバックパッカースタイル。

いつも聞かれることは「どこの国がよかった?」ですが、
いい意味で頭をぶん殴られるような衝撃に出逢えたのはインドです。

ガンジス川のほとりで

2カ国目のインドに到着したのは夜中の22時ごろ。
観光客が被害にあう犯罪ニュースを見ていたため、インドには少し警戒していた私。
そのため、安宿の送迎車を事前手配していました。

無事に送迎のお兄さんと出会い、車で宿に向かう道中。
お兄さんが突然「俺はチャイを飲むから市場に寄るね」と一言。
(え!?そんなことある!?)と思いながらも、市場に到着。

そして「チャイいる?」と聞かれ、咄嗟に「いらない…!」と答える私。
いらないと答えたにも関わらず、戻った彼の手には2つのチャイ。
「はい、どーぞ」「ありがとう…」と、チャイを受け取りながらも、私は警戒し飲むのを躊躇っていました。

それはなぜか?
そこがインドで、彼がインド人だったから。
自分のもつ「アンコンシャスバイアス(無意識の偏見)」に気づいたのはこの時でした。

もちろん、旅をする上で必要な警戒心というものはありつつも、
私は自分が気付かぬうちに勝手なフィルターを通して相手を見ていました。

誰だって、勝手にカテゴライズされるなんて嫌なはず。
日本人だから、女性だから、〇〇だから…なんて。
それぞれの生活圏の文化や礼儀はあって、傾向はあるかもしれない。
でも、人は誰だって、いつだって、ただの「1」で。
目の前にいるその人を、なんのフィルターも通さずに見て、話して、知っていく。
そういう自分でありたい、そういう世界であって欲しい。

他にも、世界一周をしてみて気づいたことが2つあります。

1つ目は、人の「やさしさ」。
キョロキョロと道に迷っていると、必ず誰かが声をかけて道案内してくれて。
駅の階段では、何も言わずに荷物を持つのを手伝ってくれて。

2つ目は、「普通」なんてものは存在しないということ。
これは日本ではあまり見ないなってシーンにも、たくさん出会いました。
モロッコでは、タクシーで移動中に運転手さんが親戚を途中で相乗りさせてお喋りしたり。
フィリピンでは、英語の先生が授業中に突然歌を歌い出したり。
イースター島では、10-12時しか開いてないお店があったり。

人間が一生をかけても知り尽くせないくらい、世界は広い。そして無数の価値観がある。
「違う」ってなんて面白いんだろう!
そんなたくさんの気づきを与えてくれたのが、私にとっての世界一周でした。

ウユニ塩湖で出逢ったみんなと、沈む夕日

7.命の奇跡

最後に書くか迷ったのですが、私の子どものことを少しだけお話させてください。

31歳のときに結婚をして、パートナーと子どもが欲しいねと話していた矢先、私のお腹に命が宿りました。
それはもう大喜びで、性別もわからないのに名前を考えたり、頭の中は子供のことでいっぱい。

しかしお別れの日は突然やってきます。
10週目、私のお腹に宿った命は天国に旅立ちました。
6〜7人に1人は経験すると言われる、稽留流産でした。

おそらく、私の人生で最も辛い日々…
しばらくは、本当に何も考えられず、空っぽの自分だけがそこにいるような感覚でした。

私はこの経験をしたからこそ「世界はやさしくあって欲しい」と強く思います。

流産に限らず、人には言えない苦しい経験を抱えてる人はたくさんいると思います。
でも、それでもその人たちの日常は続くのです。
私は、その時の痛みや気持ちをわかってほしいとは思いません。
他の人の気持ちなんて完全にはわからないと思うから。
でも、だからこそ「いつだって、相手を尊重する、理解しようとする、対話する」。
そんなやさしい世界の住人でありたいのです。

8.最後に

大好きな湘南の海で、全力で遊ぶ息子

ありがたいことに、私たち夫婦のもとにはまた新しい命がやってきました。
流産のおかげでとは言いませんが、あの辛い経験を経たことで、私が命に対して感じる重みは変わりました。

新しい命が私のお腹にきてくれた時、喜びよりも不安が強かったです。
毎日、今日は元気に動いているかなと、祈るような気持ちで出産の日を待ちました。

無事に産まれすくすく育っている息子を見ると、
忙しく慌ただしい毎日でも、ふとした瞬間にその奇跡を実感します。

いま、世界中にある産まれた命が成長していることは、何億分の一の確率の奇跡。
そんなことはもちろん知っていたのだけど、経験しなければわからなかったとも思います。

「子どもたちが幸せに生きる未来をつくりたい」
それが私がヘラルボニーにいる理由です。

80億人の異彩が活きる世界へ
子どもたちが生きる未来が、今よりもっと「あたたかく、やさしい世界」でありますように。

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