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「森のバロック 」南方熊楠のマンダラをデジタルネイチャーの世界で進化させると・・・。などと考えていたら落合さんの「プロフェッショナル仕事の流儀」が放送。落合陽一氏の創り出す「メディアアート」が「曼荼羅」・・・。

この放送を見た方は、このnoteで、「語り落されている」ところを確認してみてください。
「語り落されている」ところのメインは「民藝」。


話は変わって私。
南方熊楠について書かれた「森のバロック」を読んでいるとOchyAIと「曼荼羅」について話してみたくなりました。

「曼荼羅」とは、この世界(宇宙)の成り立ちを知るためのもの?

まず彼は、人間の心の働きが関係するいっさいの現象についての学問にとって、いちばん重要な意味をもつのは「事」であるけれども、この「事」は対象として分離することができない構造をもっている、と言っているのだ。

「心界」におこる動きが、それとは異質な「物界」に出会ったとき、そこに「事」の痕跡がつくりだされる。しかし、その「事」はもともと「心界」の動きにつながっているものだから、「心界」の働きである知性には、「事」を「物」のように対象化してあつかうことはできないのだ。しかし、その分離不可能、対象化不可能なダイナミックな運動である「事」をあつかうことができなければ、どんな学問でも、自分は世界をあつかっているなどと、大口をたたくことはできなくなるわけだ。

-----自然科学が量子論の誕生をまって、はじめて直面することになった「観測問題」の要点が、すでに熊楠独自の言い回しによって、はっきりと先取りされている。「心界」から独立した、純粋な「物界」などというものは存在できない。観測がおこなわれるときには、かならず人間の意識の働きが関与している。つまり、どんな物質現象でも、それが人間にとって意味をもつときには、すでに「物」ではなく、「心界」と「物界」の境界面におこる「事」として現象しているために、決定不能の事態に陥ってしまうのだ。量子論は、パラドックスにみちた「事」の世界を記述するための方法を、いまだに探求しつづけている。

『森のバロック (講談社学術文庫)』
中沢新一 著

OchyAIとの会話
デジタルネイチャーの世界での「曼荼羅」


「量子論」の観測問題。


これは、例えば光子が「スリット」を通過する動きを人が観測するときの結果が、観測するのとしないのとでは、異なるというとても不思議な現象だ。
熊楠が「量子論」的な世界を想像していたのではないかとこの本では述べられている。


私は、今イメージしたことを書き留めたくてこのnoteを書くことがある。
技術によって人間の様々な能力が拡張される「デジタルネイチャーの世界」では、この熊楠の「心界」と「物界」の境界面におこる「事」というものは、もっと細微に人間に知覚できるようになり、人間の心も大きく変化していくはず。(そんなイメージ)

それと多分同じことかもしれないけれど、「曼荼羅」というものを、デジタルネイチャーの世界で表現するなら、どのようなものになるのかという好奇心だ。

私、今解ったような感じで「デジタルネイチャー」という落合さんの世界観を現わすこの言葉を使っているけれど、この言葉の意味する世界観は、彼の著作を読み、彼の研究を理解しなければ解らない。
(だから解るようになりたい・・・)
それには、物理世界の理解やコンピューター技術などの理解も必要で、そういうことへの関心と理解が深まれば、彼のイメージしていることに近づくのだと思う。

私は2年ほど前に彼の著作に出会い、それからずっと出来る限り彼の発信を読むようにしている。

落合氏の研究や発信は、
過去の歴史の文脈をどうやって新しく蘇らせるのかということをやっているように見えるからだ。

私自身、子供の頃から還暦の今に至るまで、興味の赴くままに物理世界や様々な技術を追いかけてきた。
単純に好奇心と、そういう話が好きだから。
でもそういうものが、自分に積み重なっているものなのだと、最近思う。

電子書籍などのおかげで、読書量などが飛躍的に増え、ネット上でも興味深いコンテンツに出会えることが多くなってきた。
以前には得ることができなかった情報を、ここ2年、毎日浴びるように聞いて、読んで、そして感想や思い、イメージしたことを書いている。
(私の「浴びる」は体力的に「たかが知れてる」けど)

OchyAIとの会話も、そういう気持ちから行ったもの。
まだまだこの本について、いろいろ会話してみたくなる。

私の今の解釈。
「デジタルネイチャー」の世界は、人が技術の進化によって、視覚、聴覚、記憶力、データ処理能力など、あらゆる人間の能力を拡張するため、
この世界の見え方、捉え方、全てにおいて変化するはず。

既に、これらの技術に熟知した人なら、自分を拡張させて、この世界の見え方は違ってきているはず。(落合陽一氏のように)
また私自身、技術の知識、物理論のイメージを積み上げてきたことで、こうやって、熊楠の本を読むことだけでも、あらゆる想像を巡らせて、様々なイメージが出来るようになる。それが正しいとか正しくないとかは、別としても多様な世界のイメージが、どんどん膨らんでいくことは事実。

科学が発達していない熊楠の時代とは違い、一般の人々でも「曼荼羅」のようなものでこの世界をイメージしなくても、本当の物理現象を理解することで、この世界の「曼荼羅」をイメージ出来るようになるのではと最近の私は思う。
とにかく仏教にしても熊楠にしても、その時代の膨大な情報を浴び、自分の全神経を集中して、身体を動かして作業をし、自分と周囲の自然を観察することで、悟っている。

私にとっては、例えば福岡伸一氏の「動的平衡」のイメージ。
あれも、この世界を現わす「曼荼羅の一部」なのではと、ここまで書いてきて思った。

落合陽一氏の創り出す「メディアアート」も「曼荼羅」なのだと思う。


今の私のイメージを残すために、この文章を書く。


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