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ネット検索が出来ないのに、車の運転には自信がある高齢者

最近、ワクチン接種を加速させるために、ワクチンのネット予約が始まった。

医療従事者もまだのようだが、高齢者の数%が接種を終えたようである。

現代ビジネスでこのような記事が書かれていた。

セリフや親子関係などのリアルな距離感に共感する人も多いかもしれない。フィクションだったらいいのに。と思うが、リアル過ぎて日本各地でこの状況や、これ以上ひどいことが起こっていると考えると、人口のおよそ30%が60歳以上である日本に絶望してしまう。

最近だと「横浜ナメんなよ!」が一世を風靡しているが、高齢者ドライバーの模範となったような池袋の事故は裁判で決着が着いていないようである。

飯塚被告いわく「アクセルが自動車の床に張り付いて見えた」との事だが、あのスピードでアクセルなんか見ていたら、あんな悲惨な事故が巻き起こるのも当然と言えるかもしれない。

私が運転をあまりしたくないのは、子供の時遊んでいて、『もしあの時あぁなってたら、多分、轢かれて死んでたな。』という思い出がたくさんあるからかもしれない。

それは自分だけじゃなく、小学校くらいに友達がふざけて車に轢かれて死にそうになったこともあるし、大学時代に友達が運転中にくだらない話をして笑っていたら事故りそうになったこともある。

言ってしまえば事故なんてそんなものである。煽り運転などのバカじゃない限り事故を起こそうと思って起こす人などいない。

数学のテストの計算ミスのように、いつもどおりのパターンから外れたら、コロッとミスをしてしまう。その1回で見ず知らずの他人の人生を「歩くのが疲れるから」とか「バスは時間通りに来ないし面倒だから」とかその程度の理由で自分勝手に台無しにしてしまうわけである。

私や友達が幼少期に車に轢かれそうになっても、たまたまドライバーの能力があったから助かったようなもので、たまたま少し眠かったり、好きな音楽を選んだりしていたら、それでもう私か友達の人生は終わっていたわけである。半身不随になって、サッカーどころか私生活全般に影響が出ていたかもしれない。

事故に関して言えば、別に高齢者だから悪いわけではない。ただ、認知機能が衰えるのが老化というものであるし、それは誰しもが避けられないものである。それを本人が自覚していないというのが一番問題である。

なぜかわからないが、人間は自分のことをまだまだ若いと思っている。全く勉強していないのに、自分の能力は周りの人間より平均以上だと思っているし、車の運転に関してもそうである。子供のように、年齢を重ねるごとに勝手に成長していると思っているのだろうか。

もちろん、運転に慣れている人は慣れていない人より技術はあるだろうが、事故は技術があれば起こさないというわけではない。

たまたま悪い運が重なったら、そこでもう人生終了になる。悪い宝くじみたいなものである。それを技術でカバーできると思っている人は、もう認知機能が衰えていると考えたほうが良い。自信がない人の方が、スピードを出さないし事故を起こさないのが普通である。

変に自信満々の高齢者が増えている現代を考えると、昨年亡くなったうちの祖母は病院の先生から称賛されるほど謙虚で他人を敬う、まさに仏のような人間だったなと感心する。まさに生涯の最期に仏として完成したようであった。

祖母は満足に歩けなかったので、車の免許も持っていなかった。おそらく免許を持っていても返納するか、途中で乗らなくなっていただろう。そんな祖母と同年代の人達が世間で普通に運転していると考えると、どうも納得できない気持ちにはなる。

祖母は身体機能は健康ではなかったが、頭はかなりしっかりしていた。何よりお喋りだったので、脳は全くボケてなかったし、記憶力も素晴らしかった。

そんな祖母でさえ、やはり88歳あたりから急激に認知機能が衰え始めた。病院のベッドで一日中寝て点滴で生きているからかもしれないが、私を兄と混同したり、母を叔母と混同したり、100%あり得ないのに昔の近所の人とさっき会ったと言ったり、1日がどこからどこまでかわからなくなったりしていた。

冒頭にリンクを貼った記事では、筆者のご両親の苦労が綴られているが、読んだ感じは祖母の最期のような状態よりはまだ元気な印象がある。それでも身内の人間の目を覚まさせるには、どうしたらいいんだろうと悩む事は多い。

高齢者に言うのも失礼だが、長生きが幸せという考え方を多くの人は持っていない。高齢者になったら、介護に限らず人に迷惑を掛けるのが自明だからである。

世間ではインターネットでワクチンの予約ができないなどと言っているが、祖母のような90歳などならともかく、母親のような60代でインターネットが使えないというのは、普通に勉強不足であると思う。

確か、ウインドウズ95あたりにインターネットが出ているわけだから、普通に2000年あたりから使えるようになっていても問題ないわけである。20年間インターネットに触れ合わずに生きてきた人間が、なんで車の運転に自信があるのか謎ではある。

スマホだと老眼で小さい文字が見えないとか、そういう弊害はあるので、ワクチン予約には苦労するだろうが、画面には操作手順も全て日本語で書いてあるのに理解できないのは、普通に勉強不足だろう。

近頃の若者は車を買わないし運転しないと言われる。あんな「横浜ナメんなよ」とか池袋の高齢者ドライバーのような惨劇を見て運転しようと思う人がいることの方が不思議だと思ってしまう。

おそらく私と同じように、たまたま小学校の頃に事故に遭わずに済んだラッキーを体験している人が多いのかもしれない。自転車が好きという人も多いだろうし、東京や大阪に住んでいればまず車は必要ないだろう。

単純に金が無いし、移動手段の金食い虫である車に数百万かけるなら、もう別のことにお金を使いたいという人がいるのも納得できる。

車で仕事にいくわけじゃないなら、正直車は必要ないと考える人が多いかもしれない。もちろん、好きなら買ったら良いが、車かスマホどちらが必要と聞かれたら、確実にスマホだろう。

国の政策であるワクチン接種において、ネットしか予約手段が無いというのは、ある意味思い切った決断だな、と思った。

高齢者を対象にしているワクチン接種で、予約方法はネットだけですというのは、ネットを使えない人はさようなら。というメッセージとしても受け取れる。

コロナが直接死に結びつくわけじゃないが、高齢者にしてみたら死活問題であることは確かである。

変な話、政府はこれを機に高齢者向けにインターネットの勉強機会にしようと目論んでいるのかもしれない。

ただ、冷静に考えてみて今の時代、インターネットが使えないというのは確実に仕事が出来ないし、死に直結するといえる。

オリンピックの経済損失が何億などとニュースで言われているが、インターネットが使えない人間の人生における経済損失は数億では済まないかもしれない。

英語どころか世界中のあらゆる言語を勉強することができるし、翻訳も頼める。近所の本屋に無い本を買いに行くために、遠くの本屋まで行く交通費を払う必要もない。その為にかける時間も浮く。

音楽にお金を払うことは限りなくゼロにできるし、地図も買わなくていい。仕事を得ることも出来るし、家から出ずに働くことも出来る。

意識が外へ向いているか、自分に向いているかで、こうも人間の人生に差が開くことを考えると、時間というものは本当に恐ろしいと思ってしまう。

気づかずにダラダラ生き続けたら、ある日自分が浦島太郎だったことに気づく。その恐怖に耐えられる自信がない。人に迷惑を掛ける浦島太郎だとしたら、もう目も当てられないだろう。

やたら能力とか生産性が叫ばれる世の中ではあるが、最終的には人間としての謙虚さなどしか価値として残らないのかもしれない。







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