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砂漠、薔薇、硝子、楽園、 (8)

feat.松尾友雪 》》》詳細 序文

》》》7.
《トゥーランドット》を知る者は、「《トゥーランドット》を知らない」。

>8.スグル_

イヅルは、夢の話を嫌った。イヅルは起きているあいだじゅう、夢想するように瞬きが遅く、本人曰く「それで睡眠を取っているから」、人間とは思えないほど眠りが深く、短かった。イヅルはほとんどの場合、起きていた。スグルはイヅルの寝姿を、夢のなか以外では数えるほどしか、見たことがなかった。

スグルは基本的には、イヅルに何かを尋ねたりはしない。ただ、明晰夢に関しては興味から、イヅルも見たことがあるかと、尋ねた日があった。

「明晰夢?」

「引っ越し」てまだ、まもない頃だ。ペンキの匂いに満ちていた。イヅルはペンキ缶を腕に下げて脚立の頂上に腰掛け、屋根裏部屋の、白く塗り終えた丸天井に向かって、絵筆を動かしていた。スグルは天窓の下、床に直置きされたベッドマットに、シーツを敷きに来たついでに寝転がって、イヅルの作業を眺めていた。
「夢を見ている自分に気づいて、夢のなかで自分の意思で行動するんだよ。『引っ越し』てきてから、急に見るようになったんだ。君は、見たことはない?」

イヅルは振り返りもせずに、ただ、否定した。
「夢は見るものじゃない。叶えるものだよ」

「…言うね。万が一、君に夢があったとしても、叶える行動力があるようには、思えないけどな」
スグルは苦笑した。
「君は自分が殺されそうな時にさえ、自分のせいで殺されそうな女の子と、うっとり、セックスしてた。非常時だからと平静を装ったけど、僕は相当、ショックだったよ」
もぞもぞ動いている上布団を、警戒しながら剥がすと、「自分」が裸で、…口を噤んで思い出すスグルに、イヅルは筆を止めないまま、恬淡とした口調で答えた。
「君の精神生活に対して、僕は興味がないから…君が過去に受けたショックについて話されても、特に反応はできないな。事実を確認しよう。結果的に僕は生き延びてるし、女の子だって、君が助けた」
「まあ、結果的にはね」
「僕が彼女とセックスしてたから、彼女は僕たちを車に乗せてくれたわけだし、それはそもそも、ロマンチストの彼女が囚われの身の僕をこっそり連れ出して、海辺でデートする計画で、親から拝借した車を近くに隠して停めていたからだ。最終的には彼女の土地勘が、追手の座学に勝った。彼女にしても、何も知らずに殺される事態を避けられただけでなく、憧れのミラノで夢を追うための謝礼を、手に入れた。僕は、君が思っているよりずっと、行動派なんだけどね」
「結果論だ」
鼻で笑ったスグルを、イヅルはちらりと、見下ろした。
「そう、結果論さ。つまり、君に結果は見えない。君には、振り返らないと見えない道があって、それこそが君の通ってきた、ただ一本の道だ。そしてもう一度前を向いた、その真っ暗な先にしか、君の未来はない」
スグルは、イヅルの言葉を考えるために少し、黙った。イヅルは気にかけない様子で続けた。
「…僕に夢があったって、それが僕のための夢とは限らないし、僕に夢がないからって、僕のための夢がないとは限らない。誰の夢か、その夢を誰が叶えるかは、それほど問題じゃないのさ。問題は常に、誰にとって、何が実現するかだ」

スグルは、しばらくイヅルの様子を窺った。沈黙が流れた。イヅルに相手をする気がないのを見てとって、スグルはまた話しかけた。
「諸々の結論として、だいたい『ない』、という答えが返ってきてると思っていいんだね」
「そうだね。ない。君に対する興味もないし、夢もないし、明晰夢を見たこともない。そもそも、僕は夢を見ない。剥き出しになった他人の無意識の話なんて、聞いて楽しいわけがないよ。ただでさえ人間が嫌いなのに。ネットサーフィンに並んで、夢の話は嫌いだ」

たしかにイヅルは、人間が人間らしく撮影されたり、取材されたり、描かれたり、書かれたりしている資料には、形式を問わずほとんど、触れなかった。イヅルがインターネットで漁るのはスグルの知る限り、一次資料だけだった…スグルは、イヅルの依頼でボットをいくつも作っていたが、完成を喜んだイヅルが興奮して眺めるのはいつも、わけのわからない論文の抜粋や、無味乾燥な大量のプレスリリースや、最低限の加工しか施されていない、数字の羅列だった。

「何年も、君のことは遠くから、調べてたよ。観測する限り、君はいつも、人に囲まれていた。僕は、君は人が好きなんだと思ってた」
スグルが呟くと、イヅルはふと、微笑んだ。微笑んだ横顔は、スグルが三面鏡で作ってみる自分の横顔に…あたりまえだが、不思議なほど…そっくりだった。
「それは、君が、僕のことを好きなんだ。みんなそうだ。みんな、そうやって、僕を愛する。僕は人好きするみたいだけど…大抵の人間的な人間はね、スグル、僕には出来損ないの機械みたいな、単純で、面倒で、融通の効かない、要領を得ない、目的を見失った、自分を誤解した、困った存在だ。これは優越してるという意味じゃなく言うが、僕と『一般人』とは単純に、相容れない。僕が君に好意を向けているように見えるとしたら、それは君が僕に向けている好意の、投影だよ」

イヅルは降りてきて脚立をずらし、また登って、上から書きはじめた。スグルもまた、しばらく、作業に励むイヅルの姿を眺めた。

「引っ越し」たあと、スグルは髪を長めにし、イヅルは髪を切り、ちょうど、同じくらいになっていた。違いは前髪くらいで、スグルは短くしていて、イヅルは横に流していたが、とはいえ、その程度だ。自分が作業をしているのをよそから眺めるとこんな感じなんだな、とスグルは思い、なかなか均整の取れた、伸びやかでしっかりした体つきで、印象もいいと思った。それから、自分は決して、Tシャツにトランクスで脚立に登って、壁一面にペンキで数式を書きまくったりはしないだろう、とも、思った。

「夢で見る君はだらしなくて、天真爛漫で、自由で、放逸で、明るくて、遊び心でいっぱいで、ひとことで言えば、ぶっ飛んでる」
「まだ…話してたんだね」
「まあね。家族の会話なんて、こんなものじゃないのかな」
「…。君の…『天才』のイメージが、実際のそれと、違うんだ」
イヅルは筆を止めて、ペンキに浸し、液面を覗き込みながら、答えた。
「僕たちは、事実と平和とを愛する、内省的で懐疑的な人種だよ。君が捉えているのは、僕たちが事実に対して君たちよりずっと素直だという、ごくごく小さな一面だけだ。僕たちは事実を重んじているし、限界を知っている。先入観に理性を優先させ、現実に即して建設的に考える。つまり、僕たちは天真爛漫でもないし、自由でもないし、放逸でもないし、別段、性格が明るいわけでもない。遊びにしても、僕たちの遊びは君たちには複雑で、遊びのようには見えないし、君たちの遊びは、僕たちには退屈で、遊びのようには見えない。君たちが僕たちの遊び心と呼ぶものは、僕たちが君たちと生きるために君たちから学ぶ、君たち好みの、安全で平板なお愛想のことだ。この…天井を見て思わないかい? 『ひとことで言う』には知力を尽くす必要があり、そのひとことを探すのも、そのひとことを理解するのも、君たちには非常に困難なことだ。飛躍を好み、しばしば飛躍するのは、君たちのほうだ。僕たちは抜けや欠けを好まない」
イヅルは、脚立の上からペンキだらけの体をスグルにむけて見せ、肩を竦めた。
「僕は君に興味はないが、感謝の念や配慮はある。思いやりから結局、君に微笑みかけ、『確かに、だらしなくは見えるかもね』と、呟くにとどめる」
イヅルはスグルに、微笑みかけた。
「こうして、君は僕を誤解する」

スグルは、手品を見たような心地で、壁を向いてふたたび筆を動かし始めたイヅルの、背中を見上げた。
「ねえ、イヅル。君は、人の話を本当によく聞いているね」
「『聞こえている』だけだ。『よく聞い』てはいないさ。君たちの無思慮な発言をいちいち気にしていたら、こちらの気が狂ってしまう」
イヅルは素気なく言って、仕上がってきた天井をぐるりと見渡した。天窓から入る昼下がりの陽光が、ところどころにペンキの飛んだ、イヅルの剥き出しの脚を照らしていた。
「なんだか、…イヅル。君、美術館のホールに置かれてたりする、彫像みたいだ。そんな格好なのに」
スグルが感想を述べると、イヅルは筆を持った手を膝に休ませ、ベッドマットで腹の上で手を組んで見上げているスグルを、見下ろした。
「僕たちは…君たちの何千倍も、覚えることができるが、君たちの何千倍も、忘れることができない。君たちにとっては大事でないらしい、使い捨ての『現在』はね、スグル、僕たちには絶対に癒えない傷であり、絶対に枯れない花だ。僕たちの『現在』は、とても、とても大事なものだが、君たちはそれを理解しない。だから、僕たちは君たちといると、傷ついた、悲しい気持ちになる」

やがて…引っ越し後の家の支度が済み、ふたりはそれぞれに《仕事》を再開した。仁綺が来て、イヅルとスグルはもう少し、親しくなり、スグルはいっそう頻繁に明晰夢を見るようになり、スグルの夢の中のイヅルはいっそう、だらしなくて、天真爛漫で、自由で、放逸で、明るくなった。スグルは明晰夢について、仁綺にも一度、話してみた。仁綺は、スグルの話を面白そうに聞きはしたが、面白いときしか、聞いていないようだった。

スグルは、現実とのふとした違いから、自分が夢の中にいることに気づく…けれども、目覚めるにはその世界はあまりにも、光と不可思議に満ちている。スグルはなるべくそこにいようと、平静を装って、しがみつく。そこには、事実はなくとも、いくばくかの真実はあるように見える。スグルは掴みかけているらしい真実を探して、夢のなかを彷徨うのだ。

いつもどおり、万端に朝食の準備を終えたところで、皿が奇妙に軽かったことに思い至る。時計は25:186を示していて、しかし、よく晴れた朝だ。なぜ、食事をふたりぶんしか用意していないのだろう? …そうだ、イヅルが先週、死んだから…死んだというのに出てくるなんて全く、どういうことだろう? けれど…イヅルが死んだ? どうやって死んだのだったか? …スグルの意識は次第に、はっきりとしてくる。

夢だ。

夢だ。…という、この言葉を、スグルはそっと、やり過ごす。スグルが気づいたと体が知れば、目が覚めてしまう。スグルは動揺しないように、驚かないように、気持ちを鎮め、夢の言葉と自分の言葉を選り分けながら、おかしなほど短い階段を登り、ドアがなくなっている「プラネタリウム」に足を踏み入れる。

天窓のない、深夜のように暗い「プラネタリウム」の中央で、仁綺とイヅルは裸で、抱き合って、眠っている。仁綺の髪はもう短い。なのに、イヅルの髪は長いままで、端がフェルトのように、絡まっている。眠っている二人を横目に、スグルは窓際へ進む。

「ニキ、起きて、朝だよ。いい習慣は守られるべきだ。君みたいな人は朝日を浴びなくっちゃ」
スグルはカーテンを一気に引き、痛いほど眩しいだろう朝日を、仁綺とイヅルに浴びせる。



>次回予告_9.ニキ

「雨咲イヅル、雨咲スグル。ふたりの名前はとても素敵。砂漠に、花が咲くみたい」

》》》op / ed

今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。