見出し画像

砂漠、薔薇、硝子、楽園、 (7)

feat.松尾友雪 》》》詳細 序文

》》》6.
「僕とこうやって、ただ、抱き合っているだけで、君はこんなになるんだね」

>7.ニキ_

幣原仁綺は、「シベリア・セキュリティ」社の「商品」として誘拐されたディンという遺伝子学者の、囮だった。

「喫茶パノラマ」の《デリバリー》、リュカは、ディンを確保するために、同時に「消え」てくれる有力な研究者を探していた。身寄りがなく、機密を抱えており、自力で逃走する若さと能力と動機とがあり、少なくともほとぼりが冷めるまでは、逃げ続けてくれる…そんな研究者が、好ましかった。「転職」が明らかな研究者と共にディンがいなくなれば、ディンが自分の意思で「転職」したように見せかけられる、というのもあったが、安全志向のリュカが内部に共謀者を求めた理由は、無論、それだけでなかった。内部からの情報と誘導があれば、最新という言葉に滅法弱く、金に糸目をつけずにセキュリティ強化に励んでいることで名高い「インタステラー・ウァマステカー」の自慢の鉄檻をつつがなく突破することも、国境を跨いでなお「憑いて」くるという噂の、得体の知れない監視の網を確実に断つのも、格段に容易になる。リュカはスグルをまず調査に入れ、それを踏まえて仁綺をターゲットにし、《ウェイトレス》のチェンを「インタステラー・ウァマステカー」の登録納入業者に紛れさせて2度、送り込んだ。チェンは新しいIDで人知れず過ごす静かな生活を望んでいた幣原仁綺と、《テイクアウト》契約を取り交わし、仁綺に「顧客としての協力」を求めたわけだった。

ところで、ディンは、単純に辞めたがっていた仁綺とは反対方向の意味で、「転職希望者」ではなかった。ディンは名声や社交を望んでおらず、食い扶持と興味と達成感のバランスにも満足していた。「インタステラー・ウァマステカー」と良好な関係を結び、高度な技術と長年の経験を要する基礎的な検証を堅実に積み重ねていたディンだったが、運悪く、予算不足というよりは倫理的な問題から放り投げていた大昔の研究が、その環境破壊力の高さから「シベリア・セキュリティ」社の顧客の琴線に触れてしまったのだった。わかりやすく言えば可哀想に、気弱で政治に長けないディンは、両親が殺し合うあばら屋を逃げ出したスラム時代から父がわりになって一人で育て上げ、今はその幸せを願うばかりの、地上でたったひとりの家族、妹の安全のために、結論として「転職」せざるを得なかった。

若く、健康で、「転職」の意思と市場価値を持って《業界》に足を踏み入れる人間に追手をかけるには、大変なコストがかかる。ディンがのらりくらりやっていた本道の研究にはすでに、野心的な後継者がいたし、仁綺はといえば、例の細菌騒動で監督官が消されて以降、半ば壊れてしまっていた。金に目が眩んだ意気地なしのディンが、研究所に愛想を尽かした《有名人》、幣原仁綺を心の支えに、一緒に「転職」した、と結論づけた「インタステラー・ウァマステカー」は、方針を「探し出して連れ戻す」から「見つけたら消す」に切り替え、どのみち処分が悩ましくなりつつあったこの二人の研究者の捜索を、比較的早い段階で打ち切った。

こうして、ディンは仁綺「と共に」「いなくなった」。

日頃、後方支援を旨としてターゲットと接さないスグルはこのとき、リュカから仁綺の世話係という、任意の追加オファーを受けた。接触のための「文通」を通じて仁綺を知るようになっていたスグルは、この「人助け」について、珍しくイヅルに相談した。イヅルはそこで初めて仁綺の存在を知り、仁綺の存在を知ったイヅルはスグルに大いに賛成した。そして、スグルに大いに賛成したイヅルがリュカに協力することで、リュカのリスクは激減し、それもあって、仁綺は安心かつ安全に「共同配送」されたのだった。

イヅルは普段は、「プラネタリウム」から踏み出さず、見事なまでに、何もしない。ID登録上は「中堅企業で期間契約エンジニアをしている弟の扶養家族」、自称家事手伝いのイヅルだが、自称できるほどにさえ家事に手をつけた試しはなく、ただし、《業界》では《気象予報士》の肩書きを、「幻の」という枕詞付きで、持っていた。

誰からも、《業界》でもなお、知られていない。

イヅルの秘密の源氏名は、《トゥーランドット》といった。古典オペラの、タイトルだ。トゥーランドットは、解ければ結婚すると三つの謎で求婚を拒み続けたすえ、ついには全ての謎を解いた王子の求婚をも拒む。拒絶の条件として、今度は王子が、自分の名前を当ててみよと言う。終幕、トゥーランドットがこの答えを“愛”と解いて、王子と結ばれることで、舞台は大団円を迎える。…そんな、古い古いオペラの、異国の姫君の名前だった。

イヅルが求める心と情報とを、イヅルに与えさえすれば、 イヅルは「答え」を弾き出す。

《トゥーランドット》といえば、選ばれた人間だけがその名を知る、業界屈指の《気象予報士》なのであり、ということはつまり、《トゥーランドット》を《気象予報士》と知っていたら、その人物はかなりの《業界》通に違いなかった。この、気難し屋で人嫌いの「姫」に会うにはまず、《晩餐会》の招待状を手に入れなければならないからだ。《晩餐会》の招待状を手に入れるには…人に言えない、地獄に落ちるような悪行と、同じく人に言えない、天国に昇るような善行とをおこなっていて、その両方から莫大な利益を上げていなければならない。それでもまだ足りず、天国か地獄か、行先が見えかける瞬間を何度かは乗り越えて生き延び、《晩餐会》に出ている人物に直接会える地位を保ち続け、その人物とふたりきりで《晩餐会》について話すような信頼を、得なければならなかった。

すなわち、ほとんどの人間にとって「晩餐会」が一般名詞でしかないのと同じく、「トゥーランドット」もまた、ほとんどの人間にとっては、太古のオペラの姫君の名前以上でも、以下でもない。リュカは仁綺の一件以来、雨咲家がひた隠しにしている「もう一人の」雨咲イヅルはスグルの虚言でなく、実在しているらしいと認めつつあったが、イヅルが優秀な犯罪プランナー…《アメフラシ》…以上の特殊能力を持っているとは、考えなかった。《晩餐会》にしても、血気と能力を持て余した青少年が面白がって匿名で集う、怪しげなサークルなのだろう、くらいには誤解していたし、そんなところへ通うならスグルに養われていないできちんと「仕事」すればいいのに、と、残念がっていた。実際のところ、イヅルは年にいちど誰かに会うだけで、スグルが得る5年分の信用と2年分の金銭を手に入れることができるし、別人を「顔」に雇って、エンゼル投資家として定期的かつ間接的に利子収入と配当収入を得ている。スグルはリュカが残念がるたびに、「ペットに芸をさせるみたいで気が乗らないよ」とぼやいてみせたが、それはまるまる、《皿洗い》に出かけるスグルに、イヅルがかけた言葉だった。

《トゥーランドット》を知る者は、「《トゥーランドット》を知らない」。

《晩餐会》に出る人々は、「いつもよりきちんとした格好で、親しい友人と連れだって、高い食事を楽しむ」だけだ。

スグルが「シベリア・セキュリティ」社に連絡が取れたのは、だから、イヅルの人脈によるところが大きかった。《トゥーランドット》は、イヅルの「祖型」である雨咲マヤの、裏稼業だったからだ。雨咲ルリは生前、自分の未練とイヅルの保身のために、イヅルを「襲名」させ、「シベリア・セキュリティ」社の《ヂェードゥシカ(「おじいちゃん」)》という、熾天使級の守護天使を、愛してやまない「正規の」雨咲イヅルの背後につけたのだった。

「夜逃げ」の日、初対面の「自分」に救われたイヅルは、命の恩人としてスグルを《ヂェードゥシカ》に引き合わせた。「非正規の」イヅルに出し抜かれてラボを焼き払われた《ヂェードゥシカ》は、すっかり落胆していたところに、失われたはずの羊を再び見つけ、それはもう大変な喜びようだった。《ヂェードゥシカ》はスグルに、イヅルの世話と引き換えに、表に出ない内輪の仕事と、安全な住居を与えた。

仁綺は…こういったさまざまな裏話を、だいたいはスグルから、聞いた。イヅルはときどき、断りもなく「プラネタリウム」に籠もって鍵をかけてしまう。仁綺はイヅルの部屋の中央に置かれたクィーンサイズのマットレスの上を、広さの点でも硬さの点でも陽当たりの点でも、気に入っていた。イヅルが籠もってしまうと仁綺は、ダイニングで趣味の切り絵をするかスグルと話して過ごすか、スグルの部屋で、スグルの《内職》を手伝うかスグルとセックスして過ごし、スグルの部屋のシングルベッドで、スグルと眠った。

仁綺の口から「おじいちゃん」というこのロシア語が出るのを見たとき、イヅルは退屈そうな顔をした。
「《ヂェードゥシカ》には助かってるよ。過保護だけど、過干渉ではない」
「おじいちゃんみたいな人?」
「絵に描いたようなおじいちゃんだけど、最近、若返りのために脳移植を考えてるみたいだね。そのうち、体だけスグルと同い年くらいになってるかも」
「現代の医学では、それはできない」
「夢を叶えるために力を尽くすからと言って、現実主義者でないとは言えないよ」
「叶うといいね」
「どうかな。実現しても、脳まで若返るわけじゃないからね」
「イヅルが《ヂェードゥシカ》と言うときの響き、好きだな。子どもみたい」
「まあ、孫みたいなものだからね。孫なんて、いくつになっても子どもなのさ。幸い、孫がいるような気分は《ヂェードゥシカ》も気に入ってるようだよ。彼は僕に、まず自分の心を守れと言う。無理が嫌なら、たまに彼の友達の『愚痴』を、彼にするのと同じように、孫みたいに聞いてやるだけでいいってね。助かるよ。僕はいいことばかり『予報』するわけじゃないから、…」
イヅルはそこで、途中を話すのはやめたというように、しばらく言葉を切り、やがて付け足すように、呟いた。
「そんなときの気持ちは…ニキ、…君なら、わかるだろう?」
答えずに仁綺が俯くと、イヅルは微笑んで、仁綺を抱き寄せた。
「《ヂェードゥシカ》は僕の守護天使じゃない。ルリの守護天使なんだよ。スグルにはそれが心配な様子だが、何を心配する?」
イヅルは頬を包んだ親指で、仁綺の頬骨をなぞった。
「スグルは、愛されないで育ったんだな」
「そういう、人に対して刺のあるいいかたは、聞いていて気持ちよくない」
イヅルの鼻先を指でつついて眉を顰める仁綺に、イヅルは優しく笑いかけ、そうだね、気をつけようか、と、言った。

仁綺は二人に…もちろん…二人がどうして、自分にそんな大事な話をするのか、とは、問わなかった。

イヅルとスグルは仁綺に、「行かないでくれ」と、刃を突きつけながら、懇願していた。

仁綺には、行くべき場所はいくつかあったかもしれない。でも、行きたい場所は、なかった。


>次回予告_8.スグル

「こうして、君は僕を誤解する」

》》》op / ed

今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。