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砂漠、薔薇、硝子、楽園、(22)

feat.松尾友雪 》》》詳細 序文

》》物語概要 / 登場人物紹介

》》》21.
「君は、自分自身とセックスする想像をしたことは? ない?」

>22.スグル_

眩しい。

スグルは、目を開けた。屋根裏部屋の丸天井を、ベッドマットに寝転んで、見上げていた。

数式が書き散りばめられているはずのドーム式の天井が、真っ白だった。脚立があり、ペンキの匂いがした。けれども家具は「引っ越し」てきた、あの日のまま…シーツを掛けて、忘れ去られたような佇まいで…置かれていた。天窓からも、出窓からも陽が差して、屋根裏部屋は光に満ちていた。

夢だ。

スグルは呼吸を整えた。ゆっくりと、体を起こした。立ち上がると天窓がひどく大きく、遠い…それに、海鳴りを思わせる重い雑音が、頭の奥のほうにずっと広がっているような、独特の感覚があった。これは…明晰夢だ。

明晰夢を、見たことは?

仁綺はなんと答えたのだったか…そういえば、いつもと違ってイヅルも仁綺も、いない。イヅルは…出て行ったままのはずだ、それからひと月ほどは、スグルは仁綺と…仁綺は? 一緒に眠っているだろうか? 明晰夢を見ている時は、眠る直前のことがうまく思い出せないのだ。ここは、夢の中だ…ここでは現実は、歪み、崩れ、溶け落ちて、蕩け、滴ってはまた、現実に戻ろうとして紛い物の秩序を、押し付けてくる…。

誰もいない。スグルは一階に降りた。誰も、いない…リビングダイニングに足を踏み入れる…誰も、いない。静寂と光が、空間を満たしていた。

スグルは入口近くに、日頃のとおりに水生栽培キットがあるのを認めた。とはいえ、キットに並んでいるのが、種子だけだった。振り向くと、何もなかったはずのダイニングテーブルに、A2はありそうな大判の、新緑色の切り絵が、屈託なげに現れていた。もう一度入口に目をやると…水生栽培キットが、なくなっている。

栽培キットが忽然と消えたあとの壁をみつめながら、スグルは心を鎮めた。そう、目覚めるには、この世界はあまりにも、光と不可思議に満ちている…まだ、探索をはじめたばかりだ。スグルが「起き」ていることにスグルの体が気づけば、スグルは本当に、目覚めてしまう…。

スグルは、テーブルに近づいた。切り絵の右側には、花々に満ちた温室が仕上がっていた。温室の屋根の骨に並んでとまった小鳥たちが、飛び立とうとするあたりで、手が止まっているようだった。

静かだった。

スグルは、切り絵に目を落とした。そして…花々の咲き溢れる温室の透ける右側へ手をつき、中央の、まだ何も刻まれていない部分に書き込まれた、銀のポスターカラーを、左の指で辿った。

thank

you.

インクが、延びた。

動揺を、抑えた。インクさえ乾いていない…遠くにはまだ、行っていない。CCTVを調べて、…いや、セキュリティのカメラは、きっと切ってあるだろう…交通監視か、店舗のカメラを覗いてみる必要がある…スグルの車は生体認証式で、仁綺の認証は無論、登録していない。車で移動しているなら共犯がいるということだ…徒歩なら、山を回って鉄道網に入る可能性もある。

しかし…どこかに行く? …どこに行くというのだろう、ここ以外のどこに? スグルは切り絵に目をやった。


thank

you.


自分の意思で?

ここ以外の、どこに?

たとえば、スグルの監視を潜り抜けて、インタステラー・ウァマステカーからコンタクトがあった…? ありえるとも思えない。それはそうと、仁綺は昔のIDを持ち出したろうか…無効化してしまったから、機器を通れば居場所はすぐわかるだろうが、見る人間が見れば改竄が一目でわかるような、粗暴な処置しかしていない。ID操作は、厳罰対象だ。救出メンバーを組まないといけなくなるのは、痛い…それとも、新しいIDのことを、仁綺は知っていた…?

突沸するように襲いかかる思考と動悸を、スグルは同時に宥めた。

これは、夢だ。現実には、仁綺の「表向きの」IDはまだ、インタステラー・ウァマステカーが握っているし、仁綺の「本当の」IDはとっくの昔に、超長期不明人として、死者扱いされている…惑わされるな…。

たしかに、「新生活」の準備は進んでいた。けれどもスグルは、仁綺には曖昧にしか、伝えていなかった。新しいIDと資金洗浄済みの口座はすでに、手に入れてあったが、ただし、「未開封」だった。仁綺が「一般人」としての生活を望むなら、「開封」前に現物の仁綺に合わせて、こまごまと細工を施しておく必要があるからだ。仁綺が「社会復帰」するにはまだ、ピースが足りていなかった。新しい職場も、新しい住居も、まだ用意していない…そもそもIDの有効化は、スグルのようなS級ハッカーが手を下すのでなければ、どこかの組織の《戸籍管理課》に駆け込んで、首輪付きの条件を泣く泣く呑むくらいしか、方途がない。

どうして、そんな危ない橋を渡る?

「だって」…「ここにはイヅルが、いないから」…?

違う。

これは、夢なのだ。

スグルはがらんとしたダイニングに、立ち尽くしていた。迷子のような気分だった。ここは、どこだ…? もちろん、どこにもない、どこでもない場所だ…「現実」は別のところに、別の時間の流れの中に、あって…目が覚めたら…自分は仁綺の隣で眠っているだろうか? そうだ、明日は仁綺と、廊下の壁紙を塗り替える約束をしている…。

スグルは浮遊感をおぼえながら、天井が奇妙に高い、光に満ちたダイニングを見渡した。

誰も、いない。

覚醒を望む気持ちと、望まない気持ちが、葛藤していた。目覚めて、仁綺がいなかったら?

…現実から目を背けて何になる?

だとすれば、それこそ直ちに、動かなければ…。

早く目覚めなければいけない。

これは、夢だ。

これは、夢だ…。




スグルは、目を開けた。夜だった。コーヒーの匂いがした。

「…ニキ…?」
「ん…?」

たったいまキッチンから戻ってきたらしい仁綺は、手にしていた、湯気の立つマグカップをデスクに置き、ワークチェアをくるりと回転させて、スグルのほうへ体を向けた。

「起きる? 起きるなら、スグルにもコーヒーを淹れるよ」
スグルは、首を振った。
「ニキ…」
「? …大丈夫?」
仁綺はベッドに潜り込んで、スグルの腕の中に収まった。

「うん。なんていうか…」
寝転んではだけた仁綺のナイトガウンを、直しかけてやめ、スグルはロイヤルブルーの奥に覗く、優しい曲線を掘り起こす仕草で、ガウンの中へ手を滑り込ませた。仁綺は笑みを浮かべて、スグルの腕に指を添えた。

「うん? なんていうか?」
「…変な、夢を見た」
「ふうん。どんな夢?」
「夢を、見ている夢」
「どんな夢を見ている夢?」
「ん…考えてみると、そこまで変でもないのかな。『夢だ』ってわかってる以外には、いたって平和な夢だった。イヅルが…帰ってきて、僕たちがどうにかこうにか張り替えた壁紙の趣味に、文句を言う。君はイヅルのペンキを持ち出して、宇宙人の絵を描く。宇宙について話すうちに、君たちがちんぷんかんぷんな数式を書き殴って遊びはじめて、僕は結局、元の壁紙を取り寄せる」
「誤解がある。イヅルはスグルの趣味を、評価してる。文句なんて言わない」
「どうかな。確かに、ちゃんと想像してみると、文句は言わなさそうだけど…興味がないから、批判しないだけだと思うよ。まあ日頃の無関心に対する、被害妄想なのかもしれない。そういえば僕は夢を見ながら、夢を見てる自分について、そんなことを考えてたな」
「申し分ないときに何か言うのは、かえって野暮だという考えかたは? 思い浮かばなかった?」

「……」
仁綺の問いについて考えるあいだ、スグルは仁綺の背面に手を回して滑らせ、仁綺の好きなところを巡礼者のように、指先で上から順に巡った。
「夢の中で…そこまで色々考えつかないし…だいたいそれって、君たちの感性だよ。だったら『申し分ない』とひとこと、言ってくれればいいんだ」
「そう? 言葉には陳腐なところがある。相手が何も思っていない時が一番、素敵なプレゼントになってる、という時だってある」
「ひねくれてる」
呟いたスグルの口元に、仁綺は唇を押しつけて、それから囁いた。
「私も、評価してる。スグルが選ぶものは、シンプルで落ち着く感じがするのに、若々しい」
「…。そりゃ…よかった。できれば壁紙も、そうだといいな。君は、僕を信用するとしか言わなかった」
「『としか』? ああ…さっきも、コーヒーのお湯が沸くのを待ちながら、見てたよ。張る前から気に入ってる。素敵」

仁綺と、目が合った。スグルは仁綺の滑らかな背中へ回していた、手を抜いて、ガウンの襟を直した。
「…やっぱり、コーヒーをもらおうかな」
「しないの?」
「したい?」
「したい」
「じゃあ、一回、してから」
徐ろに首元に顔を埋めるスグルの、髪に指を差し入れながら、仁綺は尋ねた。
「んー…。それはそれで、夜更かししすぎる。眠れなくならない?」
尋ねた仁綺の頸に頬を当てたまま、スグルは仁綺からナイトガウンを抜き取り、ワークチェアに向けて放った。
「むしろ、それくらいでいいんじゃないかな」
「なぜ?」
「そのあと君を眠らせるまで、僕は起きていなきゃ」
「…まだ、成長期なのに? 寝不足は、成長に良くない」
仁綺は苦笑して、スグルの耳を撫でていた指を滑らせ、まつ毛を数える手つきで、スグルの涙袋を柔らかく、押して辿った。スグルは言葉を返さずに、仁綺のその手を取って、指を絡めた。

二人は深々と、唇を合わせた。




「すっちゃん! ねえすっちゃん! スグル!」

スグルは、目を開けた。左頬が熱い。目の前に、リュカの顔があった。

「…? リュカ?」
リュカはスグルの脈を取っていた手を緩め、鬼瓦の形相で、スグルの両頬を万力のように挟んだ。
「いった、…痛い痛い痛い!」
「セキュリティ! 切れてたわよ。信じられない。なんなの。なんなのよ、もう…!」
「なんなのって…言われても…。…待って…セキュリティ…? いったい…」
耳に入る音はくぐもり、自分の声さえ遠かった。上げても上げても、瞼が落ちてくる。視界には紗がかかり、体が、持ち上がらない。動こうとするスグルの肩を抑え、スグルの目を親指と人差し指で開けて、リュカはスグルの瞳孔を覗き込んだ。
「何か…飲んでるわね…? それとも、飲まされた?」

スグルは、思い出せないというように首を振った。「何か」…「飲まされた」…? 仁綺は? 

仁綺は?

震える指でスグルは、リュカのウィンドブレーカーの袖を掴んだ。

仁綺は?

「ニキは…?」

リュカは眉を曇らせた。
「悪いけど、扉という扉は全部開けて、安全確認させてもらったわ。この家は『クリア』よ。誰もいない。…何があったの? 襲われたようには見えないし、表には車輪痕だって…すっちゃん? 動けるの? 危ないわよ、ちょっと、…」

がばりと起き上がったスグルは、ふらつきながら、壁にぶつかりながら、ゼリーの中を泳いでいるような鈍重な酩酊感のなかを、掻き分ける思いで進んで、リビングにたどり着いた。

ダイニングテーブルにぽつんと、あの…仁綺が初めてスグルに贈った、シジュウカラの深緑色のカードが、立ててあった。

スグルはカードを手に取って、裏を見た。

N to S

左上に、鉛筆で丁寧に描かれた古典的な飾り文字が、贈られた時のままの流麗さで、鉛色に反射して光っていた。

スグルはその下にブロック体で手書きされた、白のポスターカラーを見つめた。


merci.
   beaucoup.


ニキがこんなふうに普通に書くアルファベットはそういえば、初めて見るんだな。

スグルは、ぽっかりと空いた穴に紙切れを投げ入れてみるような気持ちで、そんな感想を言葉にして、その感想が遠のいてまた、なんの感想も浮かばなくなるのを、なんの感想もなく、待った。




>次回予告_23.イヅル_

「否定はしない。あなたは、そう言っている」

》》》》op / ed

今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。