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愛を犯す人々②蒼唯(あおい)

 いい、いける、やりたい、つかまえた、と思えばそこからは全力で行く。これが蒼唯のポリシーだ。初めはまんざらでもないという感じで付き合い始めた女が、次第に面倒くさいくらい自分にはまる、それを楽しむのが蒼唯にとっての恋愛なのだ。それが他人の女なら、なおいい。

 沙織は絵に描いたような、「熟しきった身体を持て余した人妻」だった。34歳、会員制ゴルフクラブの、お客様担当。8歳上の夫は、羨まない人間がいない位には高収入のコンサルタントで、そして、羨む人間の心を和らげるには十分なほど、沙織に性的な関心がなかった。沙織の夫は沙織の主人であり、沙織の持ち主であって、パートナーではなかった。実際、蒼唯が会った時の沙織は、まるで窓辺に打ち捨てられた観葉植物みたいだった。何の役にも立たず、枯れかけていて、処分が面倒なうえ、処分を急がなくても別に困らない。ただ、見苦しい。そんな感じだ。沙織も、困ってはいなかった。困ってはいなかったが、雨のあとの日陰で、土がひどくゆっくり乾くように、静かに、絶望しはじめていた。このまま、死んでいくことに。このまま自分が、他のだれの心からもいなくなっていくことに。このまま自分の裸体が…だれの心からも、なくなっていくことに。

 メトロの階段で、まだ髪の長かった沙織がICカードを落とした、その瞬間から、蒼唯はいつもの通り全力で行った。沙織は髪を切り、わかりやすく綺麗になり、わかりやすく蒼唯にはまり、すぐに蒼唯に、はしたない、見るに耐えないほど卑猥な姿を晒すようになった。命令ひとつで、テーブルの上に性器をぱっくりと開いてしゃがみ、快感に震えながら放尿して見せるような女に成り下がった沙織は、蒼唯にはたしかに、少しは、つまらないが、可愛い恋人には違いなかった。

 仕様書の量が多いのにチェックが甘かったのは蒼唯のせいではないと言いたいが、この際誰のせいかはどうでもいい話で、誰かが明日の朝一番までに仕上げて持っていかなければならない。こんな時に限って、この作業をすべき人間がそろって急性胃腸炎だ。仲良しクラブじゃあるまいし、同じ会社の人間と安い居酒屋で、愚痴を言い合いながら鳥刺しをつついたりするからだ。苛々するし、第一、時間がない。沙織と会う約束も不本意だが反故にして、ひたすら誤字脱字を潰し、シートの体裁を揃え続け、やっとCD-ROMに焼いてラベルを貼り、会社を出ると23時を回っていた。ちょうど、家についてクーラーをつけて下着姿になり、ビールのプルトップを溜息混じりに開けたその時、沙織からメールが届いた。おかしい。夜にはメールするなと言ってあるのに。

 明日12時45分に09025××5×28から電話するので出て欲しいです。

 これは。

 実を言うと、蒼唯は修羅場を経験したことがない。相手に相手がいて、そいつにバレたらそこで終わりだし、そこで終わりにできるように、一応は予防線を張っているからだ。

 蒼唯は全く考えなかった。面倒は避けたい。

 ごめん。急に海外に行くことになったんだ。今日、話すはずだった。説明する暇がない。ごめんね。また連絡する。

 蒼唯は電話とメールの拒否設定を終えた。目の奥が重い。もう、なんの画面であれ、画面を見るのは「ごめん」だ、という気分だった。このクソ疲れてる時にこういうのが来ると、かえって考えなくていいから、楽は楽かもな。ため息をついてビールを煽り、蒼唯はシャワーを浴びて、横になった。

 履き捨てた靴のことをいつまでも考えるような人間はいない。ベッドで、左腕を枕にして横たわった蒼唯は、そんな文言を思い浮かべてから、そういえばそろそろボーナスだし、ラップトップを買い替えようか、と思いついた。

 そう、それにしても、本当のところ思いつきではなくて、前から頭の底では考えていたことだ。こうやって、現実になっていくものなんだ。俺はそれに、逆らわない。全ては「時機」だ。

 新しいラップトップのスペックと予算に思いを馳せながら、蒼唯は眠りに落ちて行った。

 君のことは、調べさせてもらったよ。

 12時45分に来たのは電話ではなくて、中年男性だった。客先から帰り、セキュリティゲートの手前で立ち止まって、カードを出すためにリュックを下ろした蒼唯は、三揃えのスーツを着た紳士に呼び止められた。中肉中背というにはもう少し上背のある、姿勢の良い白髪混じりの男で、睡眠と脂は足りない顔立ちだが、肌が荒れていないし、血色もいい。馬鹿高そうなスーツも、決めて来たというよりは、普段着のように着慣れた様子だった。紳士は沙織の夫だと言った。蒼唯かどうかの確認は、なかった。

 蒼唯は…一言でいうと、諦めた。

 根性がある亭主だ。これはもう仕方ない。

 沙織には酷いことも散々やらせた。面白可笑しく過ごした代償だ。蒼唯はビルの裏手へ、沙織の夫を案内しながら考えた。安くはないが、人間の尊厳を汚したことの罪の重さを理解していないわけでもない。だから、高くもない。「仕方がない」だ。

 僕が悪いんです。沙織さんが落ち込んでるところにつけこんで、口説き落としたんですよ。僕なりに彼女のことは大事にしたつもりです。あなたも、こんな大人げのない、見苦しいことはしないで、彼女を許して、大事にしてあげてください。

 「僕が悪いんです」以外は全部事実だ、と蒼唯は言いながら思った。こいつが邪魔をしなければ、あと1年くらいは、沙織をもっと甘やかして、欲望という欲望を解放させて、幸せな一生の思い出を作ってやったろうに。

 その割には身奇麗に手を切ろうとしたじゃないか。まあそれが、私の気に入ったんだがね。…今日は文句を言おうとして来たんじゃないよ。沙織も昨夜のやりとりは知らないんだ。お願いがあってね。

 男は明らかに紙幣の入っている分厚いB5三つ折りの茶封筒を蒼唯に手渡した。

 100万ある。簡潔に言うと、君が沙織を犯している動画を、僕の欲望のために記録してほしい。

 蒼唯はぎょっとした。そういう趣味の人間がいるのは知っていたが、会うのは初めてだったし、何より、理解できなかったからだ。それに、どう考えても高い。

 離婚調停云々ではないという意味ですか?

 もちろんだ。端的に言ったつもりだったが。僕はずっと待っていたんだよ。なのに、沙織は明けても暮れても浮気ひとつしない。だから君が現れたことに僕は感謝している。…念のために断っておくが、僕は沙織を他の誰よりも愛しているよ。僕なりにね。

 彼女が…それを感じているようには、思いません。

 蒼唯は封筒の重みを感じながら、昨日の500倍は悩んだ…昨日が0.5秒なら、今日は3分強くらいは悩む時間があっていいということだ…沙織の夫は案外、下衆な趣味の持ち主らしい。それならそれで助かるが、変態と金持ちの考えることは蒼唯にはよくわからないから不安だ。変態で金持ちとなればさらにわからないだろうし、変態でないなら、大変な事態になるに違いない。

 断ると言ったら?

 なぜ断る?

 沙織さんが大事だからですよ。もちろん、自分も大事だけど、そこまで非道い人間でもないんです。

 意外ですかね、と蒼唯は苦笑した。

 非道いことかね?

 そう思いますね。

 沙織の夫は腕を組んだ。

 僕に対しては?非道いとは思わない?

 償いが必要ですか?

 これは質問に対して質問で返すと言うやつだ、と蒼唯は内心毒づいて、まだ迷っているらしい自分自身に、結論を求めた。…償い? 俺が何かを償うとしたら沙織にだし、あんたこそ、まず沙織に償うべきものがあるんじゃないか、という考えが頭をよぎり、蒼唯はそんな言葉を思い浮かべる自分に、うんざりした。困ったな。撮ってやるか。

 実は、彼女の浮気相手が君みたいな若くて美しい青年なのは、ちょっとつまらないとは思っている。償う気があるなら、沙織の目の前で、僕に犯されてほしい。

 蒼唯は、この男とは住む世界が違うのを、ここに来てはっきりと感じた。蔑んだ意味でだ。同時に、他にやりようがなかっただろうこの男の、舐める様な、怯えたような眼差しの中に、沙織のそれを感じた。お似合いの夫婦だね、と蒼唯は内心呟いた。呟いたあと、忠犬の格好で舌を突き出したまま蒼唯の愛撫を心待ちにしている沙織を思い出して、多少、優しい気分になりもした。

 が、僕にも家庭生活がある。

 僕だってお金に困ってません。あれば使いますけどね。

 だいたい、沙織さんはもうずいぶん前から、こんなに高い女じゃなくなってますよ…と、嫌味を言いかけて、蒼唯はやめた。その高さは金額の高さではないからだ。自分の迷いが、金額のせいではないことに、蒼唯はようやく思い至ったのだった。蒼唯には女も恋愛も、金に関わる何かではないのだ。だから蒼唯は、判断に困っている。しかし、相手はこれが妥当だと思ったという、ただ、それだけのことなのだ。趣味の違いだ。人には人の趣味がある。口出ししないことだ、どんなに悪趣味でもだ。人の趣味は人の趣味だ。

 そこまで考えて、ふと、手にした封筒に目を落とした蒼唯は、二度目にぎょっとした。

 沙織の夫は、恥ずかしげもなく勃起していた。

 「仕方がない」。乗るか。蒼唯は封筒を、沙織の夫の股間に擦りつけながら、悪役らしく耳元で囁いてみせた。

 いいでしょう。お困りなのは沙織さんじゃなくて、あなただったわけだ。でもね、一応忠告しておきます。助言かな。あなたね、今が一番、興奮してると思いますよ。

 じじいくさい香水だ。高いな。複雑な気分だった。札束の重み、沙織の行く末、自分の将来、旅の計画を立てている時のような高揚感、非現実的な現実、勃起した紳士。

 なるべく酷くやってくれ。私にはなんの遠慮もいらない。君がこの値段で私のためにできると思う、全てのことをしてほしい。

 蒼唯は紳士が去ったあと、封筒の封を切って中を覗いた。私書箱を指定するメモが、新札のあいだに挟み込まれていた。

 値段のことは考えなかったが、結論から言えば、蒼唯は徹底的にやった。もちろん…痴態を晒し、猥褻きわまりない言葉を吐きながら、沙織は恍惚として、歓喜の涙を流した。ありとあらゆる体液でべたべたになって気絶しかかっている沙織を、頭から氷水を掛けて洗い、再度昇りつめさせるのも、蒼唯にはそれなりに楽しかった。アイライナーが涙で落ちて、沙織の頰には黒い筋が走っていた。ぐったりした沙織を、甲斐甲斐しいことで、と自分で思うほど、手厚く介抱したあと、放置したままコンビニへ出て、帰ると、沙織は眠り込んでいた。ビデオを切って、鞄に放り込んだ。蒼唯は沙織を起こさずに、ホテルを出た。

 英語読めるの?

 翌日の会社帰り、私書箱宛の封筒をポストに投函したあと、なんとなくやさぐれた気持ちになって、蒼唯は八丁堀まで出て飲んでいた。蒼唯の鞄を覗き込んで、その女は興味をそそられた風だった。悪くない。自分の左薬指の指輪焼けがわからないと思っているなら、遊び向きじゃないな。わかりやすくやっているなら、都合がいい。わかっているが指輪ができないなら、ちょっと重いが、どうやら、面倒がらせない術は心得ていそうだ。本当にそうなら、それはそれで嫌いじゃない。

 いまさっき別れてきた女の人の家に、置いてあった本。もう会えないなら、なにか持ち帰ってやろうと思って。

 自分の本だが知ったことか。別れたかどうかだって、分かったものじゃないが、それもだ、知ったことか。

 でも…、それ、技術書でしょ。

 実利主義者なんだ。

 蒼唯は酒の回った頭で、次になにを言おうかしばらく、考えた。字が読めるだけでなくて、字の意味も知っている女か。なにも、気の利いた言葉が思い浮かばなかった。

 なんだろうなこれ。蒼唯は自分の中に渦巻いている気分をうまく捉えることができなかった。不安? 不安に決まってる。敗北感? なにに負けたわけでもない。 怒り? そんなものは、どうとでも都合がつく。もっと…。

 そうだな、誰が掘ったかわからない落とし穴に落ちて、心当たりもなく、上を見上げている、ような…。俺は普通の人間で…俺は普通に恋愛してた、俺は沙織が好きだったし、沙織が自分で好きになれないところまで、好きになってやってた…沙織の分まで。俺は、普通に…。

 なんだろうな、これ。蒼唯は俯いて、仰向いて、息を吸った。いったん強く、ゆっくりと、瞬いてから、脚を組み替え、女の方ににじり寄ってみせた。蒼唯は女の肩をそっと抱いて、戸惑いと、躊躇いと、性欲の滲み出るその瞳を、じっと覗き込んだ。

 俺ね、実利主義者なんだ。


今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。