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死にたいとも生きたいとも思えないこの場所で


「なぜ自分は存在していて、何のために生きているのか、人間の生きる意味って何か」と悶々と考え始めたのは、中学生の頃だった。そのころ私は、自分を取り巻く環境を表す言葉も、自分自身の状態や心、感情の動きを表す言葉も、またその場に応じた適切な単語を探し出す力も、今よりもっともっとひどく、皆無で稚拙だった。
永い思春期は、私にとって今でも「思春期」や「多感な時期」と独りで振り返ると、心が苦しく狭く、息苦しい、陰鬱とした表情になる。
あの頃の私は、「いつか終わるはずなのに、永遠に続くような」気がしていた。それはいわゆる「若い頃の万能感」ではなく、「終わりの見えない地獄」でひたすら彷徨う状態で、光が見えたことがないから光を追うことすらできなかった。だって、誰も「大人の方が楽しい」なんて言ってくれなかったから。「今が一番楽しいよ」だとか、「今が一番なんでもできるよ」なんて声をかけてきて、遠い遠い、貴方たちがわすれてしまった場所で、「苦しい」と叫ばせてもらえず、ただ耐えることしかできず、「今しかできない青春を楽しんでいます」という正解の顔を向けて陰で泣くことしかできなかった。
 最初に「死にたい」と思ったのは、部活動がきっかけだった。小学校高学年は、その学年というだけで生意気なのに、親の愛や期待を貰ってしまい、そこそこ自信が肥大に育っていたためか自分がなんでもできるような万能感で、無敵のような無鉄砲な性格をしていた。そんな性格は、中学入学と共に破壊される。毎日毎日罵倒され、部活動以外の時間も侵食され、帰宅20分後に塾に向かい、塾から帰ると6時間後には部活に向かう時間となっていた。だけど、限界の生活なんて死ぬ理由にならなかった。
それよりも、「明日は何を言われるんだろう」「明日は何をしたら怒られるんだろう」「どうして自分は存在しているのだろう」「存在してしまってごめんなさい」「ここにいることを許されてしまってごめんなさい」「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」の無限ループ、自問自答が繰り返されることに精神が限界を迎えていた。この限界にあった思考が、「明日が来るのがこわい」だった。この頃、死は私にとって唯一無二の極楽浄土、夢であった。「こわい明日」が来ない、「こわい明日」をこわく思わなくていい今日を生きられるという1日がずっとずっとほしかった。毎日こわくてこわくてたまらなくて、でも死ぬ勇気も決心もつかない意気地なしの自分が嫌いでたまらなくて、「生きていてごめんなさい」と毎日思っていた。
 そんな日々も、いつかちゃんと終わりがくることを、卒業を持って知った。
 だけれど、後遺症のように、「死にたい」だけが残った。「自分が生きていても許される理由」を求めて彷徨うようになった。また、「自分が生きることにふさわしくない理由」を自分で決めつけ、罪の意識を持つこと、「自分は生きるに値しない存在であることを認識している」ことを誇りに思うようになってしまい、もはや、「死にたい」と思うことで、「自分自身を断罪しながら生きる」ことで生を実感するような日々を送っていた。
他者と比べて何かにつけては自分を下げ、人のいいところばかりを見つけ、自分自身には×をつけ、毎日毎日「自分は許されない存在だ」と思うことで「調子に乗らない自分」を保つことができ、でしゃばることのないよう、人より劣っている自分が、「人より抜きんでやろう」だとか、「私が正しいのだから従って当然だ」などと思ってしまったらどうしようという恐怖心を自分に植え付け、セルフネグレクトの日々を送っていた。

こういった「死にたがり」の毎日の10代の「死にたい私」は、時間をかけて終わりを迎えた。

今、私は、「死にたい」と思えなくなった。ずっとずっとこわかった。あなたを。「死にたい」と思えているからこそ、他者に思いを馳せ、自分のことのように人の痛みに寄り添い、向き合い、丁寧に丁寧に人の気持ちを取り扱おうとする10代の頃の「死にたい私」を忘れてしまうことを。
それぞれの立場や環境を考慮せず、「こうすべきだ」と意見を押し付けたり、「しなきゃいけないだろう」と正論を振りかざして暴力を浴びせてしまうこと、「これを言ったら傷つくかもしれない」と臆病風に吹かれることなく無責任に鋭利な言葉を発してしまうことを、「許したくない自分」になることがこわくて、調子に乗って、人に嫌われて、人を見下して、おびえず、物おじせず、人を断罪してしまうのではないかとずっとずっとこわかった。「死にたい」と思わなくなった瞬間、「死にたい」と思う人間に、「じゃあなんで生きてんの?死ねばいいじゃん」と言葉を放つ人間になってしまったらどうしようとずっとずっと思っていた。
 今でもこわいけれど、だけれども今、はっきりと「死にたいと思えない私」になったことを認めざるを得なくなった。
 ひょっとして一時のことかもしれないし、食い扶持が決まって、人に恵まれたからなのかもしれない。贅沢になってしまったから、結局ある程度恵まれたからなくなったのかもしれない。だけど、私にとってアイデンティティを培ってくれた「死にたい私」がもう自分ではないことを認めることは、今でもそれを完全にはできないくらい苦しく大きな出来事だった。
 「死にたい私」の方が寧ろ、積極的にカルチャーに出会いに行き、「自分のこの感情は何か、どのような言葉や表現で表すのか」という探求心や好奇心に燃え、食べるように、燃えつくすように毎日映画や漫画や小説を摂取していた。
 「死にたいと思えなくなった私」は、人と積極的にコミュニケーションを図り、将来について考えたり、特にやりたいことがそんなにない自分に物足りなさや焦燥感を抱く自分となり、価値観や性格、考えを自分の言葉で表す際の表現が固まってゆき、「確固たる自分」というものが定まっていっている自分を感じている。
 「死にたい私」のままで生き続けなければいけない、許されないと制服姿の私がたびたび物凄い剣幕で怒り、泣き、苦悶の表情を浮かべる。そのたびに私は、「死にたい」と思わなければいけない、そうしなければ、「死にたい」と思う人や「死にたい私」に対して、生きる喜びや「じゃあ死ねば」といった無責任な言葉を投げかけ、苦しめてしまうことがこわかった。
 「死にたい」と思えなくなった理由には、人からあたたかい言葉をかけてもらえること、誰かを思うこと、人から愛されること、人から認められてもらえること、たくさんあるけれど、結局のところ私の場合は「許されない場所から離れること」「時間が経つこと」「縛りプレイを楽しむこと」に尽きる気がした。このうち、「縛りプレイを楽しむこと」ができるようになったことは大きい。他者の評価軸に依存せず、自分の個性を貫き表現することで自分をすきになることを肯定する意見が増えているように思えるけれど、集団の中で生きる者にとっては人と比べて落ち込んでしまう瞬間もあり、すべてが解消されるとは言えない面も多い気はする。なので、「人と劣っている部分は縛りプレイをしている」と思うようにしていった。人よりも劣っているからこそ別の部分で好かれようとしたり、多角的に人を見ることで褒めるスキルを養おうとしたりと、「優れている者がやろうとしない努力」をすることで人の目線を奪えるし、野心を持ってその座を奪ってやろうと思えるからこそ、空回りの野心だったとしても常にチャレンジャーでいれることのありがたさを実感できるようになったことは大きかった。これは、器用で要領がよく分析がうまいからこそ、「頑張り続けることのできない」優れた者をみて得た知見でもあるので心苦しくもある。もしかしたら自分は、光が当たることがあるとすれば大器晩成なのかな、と
 いろんな人に出会い、整った形(作品)ではなく対人として話すことでいろんな価値観に触れ、他者を通じて自分という輪郭がはっきりしていく感覚はとても楽しく、また、他者に否定されても貫きたい自我があって、それを守り抜きたいとすら思う傲慢な自分として、だけれども周りをみるように意識したい、自己矛盾やグレーを抱えたままでいいのかもと思える自分に出会えて、正直嬉しかった。
ひとりひとりの異なる人生や価値観を、肯定も否定もせず、ただ表明しあって、評価せず、ただたださらけ出しあって明日の糧にできたらいいなと思う。そんな場を楽しいと思える人が、そういう居場所があって、明日の為のちょっとしたおまじないくらいの希望になれたらいいのにな、と思う。
「死にたい」と思えなくなっても、「生きたい」、とまでは正直思えないなと思う。自我に苛まれることもあるし、悩みが降り注いできたり、そもそもこの世に今希望や生きる喜びや命のありがたさや、誰かがいつもこの世を支えてくれていることに対する敬意と感謝が少ない気がすることとかに絶望を見出してしまうし、、、
 こんな、死にたいとも生きたいとも思えないこの場所で、体が元気だからこそ思えることなのかもしれないけれど笑、「死にたい」でも「生きたい」でもない今の私は、
「死ぬ気がしない私」なのだと思う。
自分の嫌なところ、こうあり続けたいと思うところ、そしてそれを表す的確な言葉をある程度知ることができたからこそ、まだまだ知りたいことがあるし、今否定している感情を肯定するようなまだ出会えていない自分に出会った時、どんな表情をしていて、どんな言葉でそれを表すのか楽しみになってしまっている自分がいる。チャレンジャーであり続けたい自分が、ひょんなことでチャレンジャーではない憧れの場所にいつか立った時、どんな人がいるのか、どんな景色が観られるのか、チャレンジャー精神を保っていられるのか興味がある。
「くるのがこわくない明日」を過ごしている「今」の私は、死ぬ気がしないね。
また、「死にたい私」は、死んではおらず、「周りをみようと心掛ける性格」「他者の気持ちや背景を汲み取り慮り、尊重しようとする性格」として昇華され、私の血肉となっている気がする。大丈夫。

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