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2/23のTwitterスペースでお話したこと。

この記事は2022年月23日に「教育者とは?」というテーマでお話した内容を記憶を頼りにまとめたものです。簡単な経緯の他は僕がお話した部分だけ。誰かの参考になれば幸いです。

なお、言語化・再構成にあたり、スペースで話したことに一部加筆・修正が加えられています。

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1)経緯と概要

昨日のスペースは、この4月から保育士になるなっちゃんからの提案によって生まれました。

教育者のあり方についてお話したい

たしかそれくらいのざっくりした感じ。当初は学生を対象としたクロストークイベントにする選択肢もあったけど、最終的にTwitterスペースでのフリートークになった。

あとはなんの打ち合わせもなし。
ついでに予告もなし。
20:30〜 約1時間。

なんでか知らんけども最大40人くらいの方が聴きに来てくださった😅

僕は好き勝手話してただけだけど、僕自身にとっても初めて言語化されたことがあったので、半分は自分のためのまとめです。

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2)僕がお話したこと

項目別にまとめていきます。

・「教育者」は絶対的な肩書じゃない

教育とは、人が二人以上いれば自然に発生する営み。教える側と教わる側。ある場面では教える側だった人が、別の場面で教わる側になることもある。

そういう意味で「教育者」というのは、相対的なあり方であって、「教員」や「法務教官」みたいな肩書とはちょっと違うもの。

ゆえに

「どんな教育者でありたいか」という問いは成り立つが、「貴方は教育者になりたいの?」という問いは成り立たないと僕は思っている。

「教育者」は人間関係における役割。そして「あり方」だと僕は思う。まぁ、それも場面によるのだけれど。

保育士や教員、法務教官などの職業名の代名詞として「教育者」を使うことは僕にもある。


・「教育は学校の外にもある」という気づき

たしか僕が大学生の頃、父が勤務先の人材開発部の起ち上げをやっていた。仕事の詳しい話を聴いたことはないが、「起ち上げをやってる」という話は僕にとって新鮮だった。

そうか…会社にも教育はあるんだ。

あの気づきが、のちの「少年院の教育」と出会いに向けて、抵抗なく理解し興味を持つ土壌を耕してくれたと思う。


・日本の先生はなんでもやろうとしすぎ…

生徒指導
教科指導
特別活動
キャリア教育
メンタルケア

先生の職域は多岐にわたる。どれも大事なことだ。でも、そのすべてを100点満点でできる必要はない。日本の先生は「4番でエースで盗塁王」みたいなのを目指しすぎてないか?

できないことなんてあって当然。

できるようになろうとする努力はした方がいい。でも、現時点でできてないことを無駄にヘコむ必要はない。

力不足をどう受け入れ、どう立ち向かうか…という姿勢をそのまま教育に活かした方がいい。

教育はプロ野球と違って「実力不足=教育できない」ではないのだ。実力不足も教材にできる。


・反省と自分を責めることはちがう

現実問題、様々な面で実力不足は起こる。教育を仕事にするなら、自分の実力不足には真摯に向き合うべきだ。

真摯に向き合うってのは、実力不足の自分を責めるってことではない。反省は自分を責めることとイコールではない。

草野球の試合のあと打ち上げの席ではミスや実力不足が話題になる。でもそこに悲壮感はない。

草野球と仕事は、その責任は違うけれど、僕は反省というのはポジティブに行うべきだと思う。草野球の打ち上げのように。反省自体がたのしいものであった方がいい。

何より…

先生がミスや実力不足で自分を責めたら、教え子たちもそういう生き方になってしまう。

失敗を恐れず挑戦する人間に

なんて言うのなら、自分もそうあろうとした方がいい。

ミスや実力不足は反省しよう。
でも自分を責めるのはやめよう。
しょぼくれても何も生まれない。

ポジティブに、明るく反省しよう。


・先生としての基礎体力

教育現場で先生を取り巻いている環境は確かに過酷だ。

でも

例えば腕立て伏せ20回が人によっては楽勝で、人によっては筋肉痛になるように、40人学級だって楽しく回せる人と耐えきれず病む人がいる。

絶対的な意味で40人学級がしんどいのは確かだが、あくまでもその先生の力量との相対的な関係でしんどさが変わることは忘れてはならない。

そういう先生としての基礎体力は、別に教育現場じゃなくても鍛えられる。

いろんな理論や手法を学んで沢山発信してる千人単位でフォロワーがいるような子が、新卒で先生になって半年で潰れるようなケースを毎年Twitterで見ているが…それこそ、ステータスの低いまま強力な呪文だけを覚えてしまったのかもしれない。

(もちろん人間関係などの影響があることもわかってる)

その一方で、教育の手法や理論にはからっきしだが、居酒屋のフロアリーダーをやってたような子が、ひょうひょうと先生をやり続けられたりする。

オンラインでの1on1に励んでる学生も、もしかしたら1対複数の場を沢山経験すれば、そういう基礎体力を上げていけるのかもしれない。

学びではなく鍛錬が必要なのかもしれない。


・集団指導と個別対応は両立できる

「同じ現象でも原因は別」ということがよくある。例えば円の面積を求められない子の中には、公式を間違って覚えている子もいれば、小数点の計算がわからない子もいる。

原因が違えば対処が異なるのはあたり前の話。

ただし

では集団指導では何もできないのかというとそうではない。

集団指導がうまい先生は、複数の要因を一度の集団指導でケアしていく。先の例で言えば、さらっと小数の計算方法の確認や解説をはさみながら、公式を暗記させる…といった具合だ。

性教育などはその最たるもの。

他者の(性の)あり方を尊重する…というゴールに向かって、「正しい知識を教授しよう」というのが性教育のメジャーな考えだが、正しい知識があっても無視する子だっている。その中には、その方がカッコいい、その方がモテる、と思っている子もいる。

だから

正しい知識を丁寧に解説する授業の中で、雑談として「ま、そもそもこっちの方が最終的にはモテるんだけどよ」と」一言放り込むだけで、そういうタイプの子の琴線に触れる可能性は上げられる。

集団の中に、複数の原因の存在を認め、45分や50分の一回の授業の中で、一筆書きのように複数の原因をケアしていく。

そうすることで集団指導と個別対応は両立できる。うまい先生はそういう一石三鳥を狙うのが上手だ。


・教育はカレー。

隣の家のカレーは自分ちのとは違う。
でも、大抵は美味い。

カレーが美味いのは、たくさんの材料を入れてきっちり煮込んでいるから。人間もそうだと思う。いろんな経験、いろんな人との関わり…それらが混ざりあって本人の中で煮込まれておいしくなる。

たくさんの材料をきちんと煮込めば、基本的にカレーは失敗しない。人間もそうだと思う。

カレーの中の素材のあり方は多様だ。

溶け込んで原型を留めていないものもあれば、ゴロっと主張してる奴もいる。カツのようにあとからデンと居座ってメインになる奴もいる。

先生である自分の存在が、子どもの中にどう残るか…というのも同じ。その子の中に鮮烈な存在として残り続けるのも先生の価値だけど、本人すらその影響を自覚できないくらいさり気なく存在しているのもまた大切なこと。

カツカレーのカツみたいな存在感抜群の奴だけが偉いわけじゃない。

教育はカレーだ。


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3)まとめ

ということで、昨晩のフリートークのまとめでした。

記憶を頼りに書いてるから漏れもあるかもしれないけれど、だいたい網羅できてると思います。

思いつくままに話してましたが、世間が言ってることとはちょっと違う部分もあるように想います。

こんな考え方もあるんだな…と少し視野が広がってくれたら嬉しいです。いちばん大事なことは、教育を志した貴方が、子どもと歩む日々をよろこびと楽しみの中で重ねていくこと。

あなたにそれができるように、僕もできるかぎり応援したいと思います。現場…楽しもうね。楽しめる自分になりましょう。楽しめる自分でありましょう。

へいなかでした。







放デイのスタッフをしながら、わが子の非行に悩む保護者からの相談に応じたり、教員等への研修などを行っています。記事をご覧いただき、誠にありがとうございます。