法務教官が最初に叩き込まれること。
法務教官は、ふつーに生きてきて「なりたい職業」になるもんじゃない。近親者がやってたり、法律や心理を学ぶ過程で偶然知ったり…ある程度の偶然がなければ知ることすらない職業。
それを自分の仕事にしようなんて人は、多かれ少なかれ非行少年に対する想いがある。だから、新人法務教官の大半は教育にアツい。
それは大事なことで、むしろそのアツさが徐々に失われていくような組織体質には非常に大きな問題があると僕は思うけれど…
その一方で、冒頭紹介した「教育<保安」という感覚は、非常に大切だと思っている。
学校の先生や保育士、放デイの職員にも知ってほしい大事なことだ。根底にこの感覚を持っているだけで防げた事故がどれだけあったことか…。
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もちろん教育・支援の現場における事故に際して、個人の資質に原因を求めるのはちがう。管理職は、システムに原因を求め、リスクを下げる施策を考えなければならない。
が
システムがどうだろうと、個人の資質にも改善や向上の余地は常にある。責任の有無と改善点の有無は一致しないからだ。
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人は時々そう言って他者の意見を評価するが、ぶっちゃけた話、一理もない意見など基本的には存在しない。その人がそう考えたのには、それなりの理屈や感覚があるのだから、そこに一理くらいはあって当然。一理もないことなどない。
だから実は…
多角的に考えられる人間ほど判断が難しい。
「少なくとも一理はある意見」が複数の角度で共存している時、決断をくだすには哲学が問われる。判断基準や価値観と言い換えてもいい。要するに、確定的な判断を下せない状況で何にどう折り合いをつけて判断するか…という話だ。
哲学はその人の人生によって形づくられる。
多様な人間関係の中で生き、それぞれの内面にきちんと触れ、またそれらを表現した作品にきちんと向き合ってきた人間ならば、哲学の多様性にも理解を示せる。
自分と他者…という単純すぎる構図の中で10代を生きてきた者にはその感覚が芽生えにくい。
それをわかった上で、原理原則と向き合うことが、現場では常に求められる。それができない人間は、結構な割合で仕事に悩み、挫折する。
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ところが、少年院などの現場には、哲学の多様性よりも優先すべき使命がある。(実際にはそれは程度の差に過ぎず、どんな現場にも存在しているのだけれど。)
場には個人の価値観より優先すべきものがある。
それを明確に浸透させておくことは「微妙な判断が求められる状況」において判断を下す人間の思考の負担を軽減し、スピーディーな対応を実現してくれる。
つまり
危機的場面に関する判断基準ほど、明確な形で共有しておくことが大切なんだ。少年院の場合それが「教育より保安が優先」という言葉に集約されている。
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「目の前の一人に対するベストな対応」が、その他大勢への対応をないがしろにするものなら、それは採ってはいけない選択だ。
子どもたちが熱中できるカリキュラムだとしても、逃走などの危険性が見込まれるならばやってはいけない。
教育的な効果が確実に見込まれる場面であっても、自分が動くことで保安リスクが高まるならすぐには動かない。
そういうこと。
絶対的に保安を優先すべき現場で、それでも教育的な効果をあげようと思ったら、そこには様々な技術と工夫が必要になる。それを9年間ひたすらやりつづけてきた僕には、指導的立場にある教員や放デイスタッフの判断の甘さが常に気にかかる。
だから今回、そういう話をすることにした。
そんな話になると思う。
90分でどこまでやれるかわからないが、必ずいいものにする。全国の先生たちに伝えたい、考えてもらいたいことだ。
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放デイのスタッフをしながら、わが子の非行に悩む保護者からの相談に応じたり、教員等への研修などを行っています。記事をご覧いただき、誠にありがとうございます。