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短編小説

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ある雨上がりの朝
一匹の蛙が僕を見上げていた

やぁ、いらっしゃい
君はひとりで来たのかい?

二つの小さな丸い目が
茶色いサンダルに乗っかって
静かに僕を見つめている

今日はいい天気になりそうだ
明日は友達も連れておいでよ

返事は帰ってこないけれど
僕はそっと窓を開けたまま
椅子に座り仕事に取り掛かる

次の朝、花に水をあげようと
庭に出て足元に目を向けると
三匹の蛙が縁石の上から
並んで僕

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9時16分

電車がホームに入ってくる。
体が軽くなるのを感じる。
車両が巻き起こす風にどこまでも空高く舞い上がり、目を閉じると、景色がまぶたの内側から拡がって、重さを形作る輪郭に、延々と連なり重なる屋根が伝わり満ちる。

9時16分、電車は時刻通りに着いた。
透明な皮膚に包まれて扉が開く。
降車客は誰もいない。
僕は乗り込むことなく靴を脱いで、そっと投げ入れる。
靴下が線路の隙間に落ちていった。

柔らかな裸

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井戸

 子供達が紐の端に小石を結び付け、井戸の中へと投げ入れる。小石は乾ききった井戸の底で硬く澄んだ音をたて、淡い砂塵を僅かに覗く空に立ち登らせる。雨が降らなくなってから久しい。かつては果て無き地をその足で巡った男だった何かが、音がした方向をたよりに這いずりでる。冷たく滑らかな岩肌に鈍い光を放つ影の塊が滲む。瘡蓋に覆われた皮膚に堆積した渇きはあまりに眩しく、薄くひび割れた瞼を開くことができない。

 子

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負け試合

 講義の帰り道、一人の少女がわたしの横を擦り抜けた。空も道も金色に染める銀杏並木に包まれて、彼女の足音はまるで枕を鳴らす鼓動のように心地よく零れ落ち、景色の中に溶けていく。軽やかに離れていく後ろ姿は、進むごとにしなやかに伸びて、流れる髪の隙間から僅かに、どこか見覚えのある横顔がのぞいた。いつの間にか成熟した一人の若い女性がそこにいた。彼女は静止した色彩の裡に白いスカートの裾を揺蕩わせ、わたしから走

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晩餐会

 夕食に誘われ友人の家に出かける。約束の時間に間に合うように家を出て、少し早めに着いた。三階まで階段を上がり、くぐもった長い廊下の奥へと進む。部屋を幾つか通り過ぎ、深い藍色をした扉の前に立ち止まる。扉を打つ。乾いた音が廊下に響き、すぐに静けさが戻る。もう一度扉を打つ。物音ひとつ聞こえない。灯りが微かな振動とともに瞬いている。仕方なく握りに触れ、回す。鍵は掛かっていなかった。

 部屋に入り名を呼ぶ

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