9時16分

電車がホームに入ってくる。
体が軽くなるのを感じる。
車両が巻き起こす風にどこまでも空高く舞い上がり、目を閉じると、景色がまぶたの内側から拡がって、重さを形作る輪郭に、延々と連なり重なる屋根が伝わり満ちる。

9時16分、電車は時刻通りに着いた。
透明な皮膚に包まれて扉が開く。
降車客は誰もいない。
僕は乗り込むことなく靴を脱いで、そっと投げ入れる。
靴下が線路の隙間に落ちていった。

柔らかな裸足でコンクリートに触れてみる。
その固さと冷たさに、朝の眩しさが混じり合う。
聞き慣れた声、聞き慣れた喧噪。
不器用な音をたてて扉が閉まる。
靴は僕を残して、ゆっくりと速度を上げて走り去る。

「お母さん、大人になっても宿題はあるの?」

次発待ちの白線に沿って親子が並んで待っていた。
小さな手でしっかりと手をつなぎ、女の子は不思議そうに見上げている。
母親は困ったような表情を浮かべ、静かに娘を見つめ返す。

一瞬の静寂が訪れ、次の電車がやって来る。
二人は言葉を交わすことなく車両の中へと姿を消した。
僕は独り裸足のまま、ホームに残された。

彼女はなんて女の子に答えたのだろう?
いつの間に足の親指の爪が大きく割れて、足元にぬめぬめとした赤黒い血だまりが出来ていた。

例えどの様な答えであっても、それを忘れてしまっても、そしてこの先どの様なことがあっても、いまの気持ちを忘れてしまっても、挫けずに真っ直ぐ生きていってくれたらいいなと僕は足先の鈍い痛みを背中に感じながら、また集まり来た通勤客に囲まれて、心が少し軽くなった。


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