負け試合

 講義の帰り道、一人の少女がわたしの横を擦り抜けた。空も道も金色に染める銀杏並木に包まれて、彼女の足音はまるで枕を鳴らす鼓動のように心地よく零れ落ち、景色の中に溶けていく。軽やかに離れていく後ろ姿は、進むごとにしなやかに伸びて、流れる髪の隙間から僅かに、どこか見覚えのある横顔がのぞいた。いつの間にか成熟した一人の若い女性がそこにいた。彼女は静止した色彩の裡に白いスカートの裾を揺蕩わせ、わたしから走り去っていく。

 自然と体が動き出し、わたしは彼女の後を追い始める。息が切れ、脚が鉛のように重い。胸を打ち付ける鼓動が、その奥に眠る柔らかい記憶に触れ、肺を刺す痛みとともに、わたしを前へ前へと駆り立て、立ち止まるのを思いとどませる。彼女は並木道の突き当りにある煉瓦造りの階段を駆け上がり、図書館に入っていく。耳の中が呼吸で溢れ、重力の背面に引き摺られた体は、遥か彼女の後方で、両手に抱えた荷物を無くしていた。

 開かれた硝子張りの扉の奥は薄暗く、受付には誰もいない。纏わり付くようなぬるく湿った空気が静寂の底で凍り付き、聳え立つ影を為していた。

 彼女の足音が聞こえる。

 わたしは彼女の姿を求め、まるで鱗が纏う鈍く冷たい光を放ちながら、隙間なく精緻に詰め込まれた書物に分け入っていく。汗が止めどなく滴り落ち、視界が遮られる。どこまでも沈み込む天蓋から降り注ぐ彼女の残響に耳を澄ませ、果てなく積み上げられた紙片の裂け目を彷徨い歩く。喉が渇き、舌が口蓋に張り付いた。頭上では星が瞬き、立ち塞がる書棚の谷はさらに深くなる。

 どこへ通じているのかも分からない隘路を、奥へ奥へと手探りで進んでいく。黒ずんだ背表紙の壁に向かって祈りを捧げる男が迷惑そうな顔をして、無遠慮に迷い込んだわたしに無言の非難を投げかけた。

 朱色に染められた徴を手掛かりに、長く尾を引く透明な糸を辿り、わたしは進み続ける。方向感覚は失われ、この場所に留まる理由さえ思い出すことができない。幾度か目にした崩れかけた回廊を通り過ぎた時、頁の中に顔を埋めた老人が不意に目を覚まし、皮と骨に朽ちた純銀の指し棒で、鹿皮の羊皮紙に描かれた章の頭を指し示した。その瞬間、空の裂け目から金属音が鳴り響いた。見上げると宙に吊られた真鍮の螺旋階段を駆け上がる、彼女の姿があった。

 螺旋階段は塔のように聳え、その行き着く先は天に広がる闇に飲み込まれていた。地に落とされた一筋の巨大な陰に添って、わたしは塔の麓を目指す。

 モザイク模様の編み込まれた大理石から僅かに浮いた段差が彼女の重みに軋み、枝分かれした手摺りの濡れた喉が、耳慣れない言葉が発していた。最初の言葉から最後の言葉まで、わたしは躊躇うことなく、いまにも打ち倒されそうな階段を駆け登る。何度も何度も繰り返し天より届く梯子を廻り、彼方へと昇っていった彼女の後を追う。眼下から立ち昇る雲の間を擦り抜け、脊椎を貫く眩しい疲労だけが、嘗ての踵の痛みを感じさせた。

 だいぶ時を経て、わたしは遂に階上に辿り着く。其処に一人の燕尾服を着た給仕が控えていた。彼は待ちくたびれた様子を見せることなく、小さく頷き、わたしを葦の絨毯の敷かれた長い廊下の先へと先導する。わたしは自分が正装でなかったことに後悔をした。

 革張りの重い扉が開かれた。

 がらんとした広間の中央に長方形の食卓が置かれ、晩餐の準備が成されていた。まっさらな白地のテーブルクロスに、無数の食器と燭台が規則正しく並べられ、その向こうに彼女が座っていた。給仕が音も無く椅子を引き、わたしは席に着く。沈黙が部屋に溢れ、わたしは静謐な食卓を通して初めて彼女と向かい合う。その表情の裡に彼女の名や彼女の記憶を見出そうとするも、此処からではあまりに遠く、朧気な彼女の輪郭だけが蝋燭の小さな炎に揺らいでいた。

 料理が運ばれてきた。皿にステンドグラス製のボウルが被せてある。微かな照明の灯りを反射して、細かく縒り合された色付き硝子の小片が、繊細に輝きを放っている。給仕がナプキンを手に、丁寧にボウルを裏返す。乾いた音が響き、乳白色の磁器に色取り取りの影が落ちた。

 給仕が傍でわたしを見守っている。わたしは目にしたことのない料理に戸惑い、手を出すことができない。ボウルの内側には新緑のペーストが均一に塗られ、苔むして湿った木の根とミルクの匂いが満ちている。羞恥心を押し殺し彼女に視線を向けると、彼女はナイフとフォークを持ち上品な手つきで、水底に沈む石を優しく包み込むように漂う光を口に運んでいた。白く細い腕から銀色の滴が、顔の稜線にかけて穏やかに、器へと零れ落ちていく。

 わたしは彼女に見とれていた。それから同じように右手にナイフを持ち、左手にフォークを絡め、彼女への眼差しを留め置くために、柔らかな前菜に穴を穿った。

 突然、男たちの雄叫びが辺りを震わせた。鼓膜をつんざく咆哮と共に、彼女の背後にある扉が蹴破られ、ヘルメットを被り、プロテクターを装着した大男達が広間に雪崩れ込んだ。フェイスマスクの底で歯を剥き出し、ユニフォームに覆われた筋肉を荒々しく震わせて、燃え上がる狂熱に身を委ねた集団がわたしに襲い掛かる。

 口に運ぼうとした料理は叩き落とされ、倒れた椅子の背もたれの隣で、跳ねたナイフとフォークが何度も踏まれるのが分かった。わたしは両脇を抱えられ、彼女の奥の扉へと連れ去られる。足が宙を泳ぎ、服は破かれ、背骨が軋む。彼女の姿は肉の壁に遮られ、わたしは男達の発する熱に声も出なかった。幾つもの伸びてきた太い腕によって白い衣裳に詰め込まれたわたしは、男達が入ってきた眩い光を放つ扉の奥へと引きずり込まれた。

 気が付くとヘルメットが頭蓋にぴったりと嵌まっていた。わたしは燦々と日が照りつける、青々とした芝生が敷き詰められたグラウンドに立っていた。競技場には観客が溢れ、喝采が嵐のように渦巻いている。

 「出番だ」という声がする。背中を押され、尻を何度も叩かれながら、わたしはラインの中央に向かい、ハドルの輪に加わる。鼓動が激しく波打ち、指先が痺れ、吐き気がする。それでもなんとか巨人の間に身を滑り込ませ、スタンバイする。目を血走らせた男が地面を蹴り、胸に鋭い角と蹄を忍ばせて、生贄を待ち構えていた。

 ハット ハット ハット

 それが聞こえた瞬間、眼前を貫く稲妻が走り、もの凄い衝撃とともに体が後方高く吹き飛んで、激しく地面に叩きつけられた。肩が不自然に肋骨に突き刺さり、衝撃が脊髄から四肢の先端に伝う。息が出来ない。無意識のうちに涙が溢れ視界がぼやける。灼熱の太陽の許、両脚があらぬ方向に曲がり、首は捩れ、声にならない嗚咽を漏らし、地面に無様な姿を晒す。割れんばかりの歓声が聞こえる。そして悲痛な叫びと落胆が。チームメイトは誰ひとりとしてわたしの傍に近寄っては来ない。

 どうやらわたしのせいで試合に負けたようだ。

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