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『十二国記』から読む-気候変動と政治 第三話

第三話 誰が責任を果たし得るか➁

 楽俊と再会を果たした陽子は、彼との対話によって自身が「ケイキ=景麒=景国の麒麟」により選ばれた王であることを知る。災異を止め、荒廃した景国の民を救うという巨大な責任を前にして、彼女は自分は「責任を取れない」と逡巡する。

わたしは、自分がどれだけ醜い人間か知ってる。王の器じゃない。そんな大層な人間じゃない。
盗もうとした、脅そうとした、実際に生きるために人を脅した。人を疑った、命を惜しんで楽俊を見捨てた、殺そうとした。

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[図]鼠と人の姿をあわせもつ半獣の楽俊

 楽俊を傷つけた自分が、どうして一国の民衆に対して責任を果たせるというのか。陽子は突然のしかかってきた責任の重さに怖気づいてしまう。

みんながわたしに期待してるのは分かってる。でもここでみんなの都合に負けて自分の生き方を決めたら、私はその責任を負えない。だから、ちゃんと考えたい。
自分一人のことならやってみる。自分で責任の取れることなら。失敗しても私が死ぬだけならいい。

 陽子の葛藤も最もなことだと思われる。現実においてこれほど大きな責任が急に肩に掛かってくることはそうそうない。ただし21世紀に生きる人々にとっては、ひょっとすると思い当たる節があるかもしれない。
 私たちは「人為的な気候変動」という未曽有の事態を前にして、その責任を迫られているからである。

 「エコ不安」という言葉があるが、いま世界中で多くの若者が気候変動の深刻な事態を前に不安や罪悪感を抱き苦悩しているという[1]。自分たちの何気ない日常が、温室効果ガスの排出によって間接的に気候の危機を招いているという認識がその背景にある。彼ら彼女らは、自分たちの生に密接に関わる気候危機に責任を負うとするが、その巨大さに打ちひしがれてしまうのである。

 責任を受け止め、それを確かな行動に移すためには、一体何が必要になるのだろうか。

・肩代わりの義務

 気候変動を止めるべき者たちが責任逃れをしている現状にあっては、誰かがその「肩代わり」をせざるえない、ということを前回に述べた。

 なぜこのようなことが起こってしまうかと言うと、「責任がある」と「責任を果たす」は異なるからである[2]。
 特定の誰かに「責任がある」と分かったとしよう。この時点では責任の所在が明かになっただけであり、その人が「責任を果たす」かどうかは確実ではない。さらに、どのようにすれば責任を果たしたといえるかは「責任がある」者=Aと「Aに責任を求める者」=Bとで考えが異なるかもしれない。Aが何らかの手段や行動をとって責任を果たそうとしても、Bがそれを「責任を果たした」と見なさないことがあるということだ。

 いま欧米をはじめとした世界各国はそれぞれ自国の削減目標を掲げているが(日本の削減目標は2030年までに2010年比40%減)、現在の目標では到底間に合っていないのが実情である。各国政府の中には「この目標で十分な責任を果たせる」と考えている人も多いのだろうが、災害の酷くなる未来でツケを払わされる若者は納得できるはずもない。
 若者たちが路上に出て「まだまだ不十分だ、責任を果たしてくれ」「科学に基づいて行動してほしい」などと叫んでいるのは、IPCCの報告書のように科学的・客観的に判断するなら現在の目標で「責任を果たせる」とは到底言えないはずだからなのだ[3]。彼ら彼女らは、大人の「肩代わり」をさせられているのである。

 とはいえ、「責任が果たされていない」から他の者に「肩代わりの義務」がある、とまで言うのはやはり難しいのではないだろうか。「責任がある」者は別にいるのだから、それ以外の者たちに責任は生じないのではないだろうか。これについて以下に考えてみたい。※1

・やれる人がやる?

 例えばいま池で溺れている子供がいて、それを3人の大人が見つけたとする。彼らにはなぜ子供が溺れているのかはわからない。直観的に考えると、子供を助ける責任を第一に負うべきなのは故意/過失を問わずその状況の原因を作った者(家族や友達など)であろう。また社会的な役割を考えるなら、近くにいるレスキュー隊員が助けるべきなのかもしれない。しかし、もしかしたら家族は子供の危機に気づいていないかもしれないし、子供を助けられるほど泳ぎが上手くないかもしれない。泳ぎが得意のはずのレスキュー隊員にしても、すぐ来れる場所にいるとは限らないし、呼んで来る間に子供が死んでしまうかもしれない。
 このような状況にあって、たまたま通りかかっただけの3人の大人は「助ける責任がない」と考えて良いだろうか。子供を助ける必要自体は認めていても、他に2人大人がいるのだから自分は何もせず通り過ぎてよい、と判断して責任を放棄するのもまた間違っているように思われる。深刻かつ急を要する求めに応えるべきという正義の観点に照らして考えるならば、3人それぞれに子供を助ける責任があるとみなされる[4]。※2

 多くの人が納得できる筋としては、まず自分が助けられないかを考える(「肩代わりの義務」を担おうとする)。泳ぎにそれほど自信がないときは、他の二人と声を掛け合って泳ぎの最も得意そうな人が助ける、という所だろう。
 「泳ぎの得意な人が助ける」という判断の背後にあるのは、「やれる人がやる」=支払能力アプローチという考え方である[4]。溺れている子供からみて重要なのは「誰が助けるか」ということではなく、「今すぐ助けてもらうこと」である。汚染者負担原則(原因を作った者が責任を負う)では責任の所在を公平に問うことは出来ても、責任が確実に果たされるかはわからない。果たそうとしても力が及ばない場合があるからである。支払能力アプローチでは「公平性」よりも「有効性」を重視し、子供が最も助かりやすい道を選ぶことができる。やれる人=責任を果たす能力のある者が責任を負う、というこの考え方に従えば「責任がある」と「責任を果たす」が一致しやすいのである。

 これを気候変動の文脈に置き換えて考えてみるとどうだろうか。池で溺れる子供の例と違い、災害に遭い助けを必要とするのは遠い社会の人々であることが多い。あなたが何らかの行動(温室効果ガスを減らす取り組みや災害対策のための資金援助など)を起こしたとしても、あなた一人の力では気候危機は解決せず、長期的に行動し続ける必要がある。

 上のような違いは、責任を取らなくてよい理由になるだろうか。「いいえ。大きな負担にならない限りは責任を負うべきだ」、というのが倫理に基づいた主張となる[5]。

  「近くにいるなら、同じ日本人なら助ける」、「自分一人では変えられないから、何もしない方がましだ」、「先週子供を救ったから今週は助けなくて良い」。このような考えは正しいだろうか。もし違和感を持ったなら、やはり気候変動の被害を受ける人々への責任もないとはいえない。少なくとも、先進国で生まれ、経済的に恵まれた若者には相応の責任が伴うと考えられる。

・自ら責任を引き受けるために

 ここまでで、「責任がある」と「責任を果たす」が同じではないこと、支払能力アプローチにより、その二者を近づけることができることを述べた。だが以上は「客観的・論理的に考えて」責任はどこに求められるか、という話に過ぎず、やはり主観の問題は残る。能力のある者であっても責任逃れは出来るのであり、その者が責任を主体的に引き受けようとしなければ、現実を変えるのには至らない

 さてここで『十二国記』の物語に戻りたい。前回、他者と関わり手を伸ばそうとする「人に忍びざるの心」が責任を取ることの第一歩だと述べた。陽子は確かにその一歩を踏み出せたが、王として気候変動を止める責任は引き受けられないと葛藤する。十二国の世界では王の在位中は気候変動が止まるため、王は責任を果たす能力があるわけだが、陽子の主観は責任から逃れる方に傾いてしまうのである。

 陽子が王として国を治めることを迷うのは、自分が「その責任を果たせない」と思い込んでいるためだ。愚かな自分では、苦しむ民衆を救うことなど到底できないと思っているのである。

たくさんのことを学んだ。その最たるものが、平たく言えば、わたしは莫迦だということだ。

 だが、自分なら責任を担えると思い込んでいる者であっても、周囲にとって「責任を果たしている」と認められない場合もまた多い。これは気候変動をめぐる世界各国の大人たちの対応を見れば明らかだろう。
 だとすれば、むしろ「自分は責任を果たせているか」と自問し続ける態度こそが、ふさわしい責任の負い方だと呼べるのではないだろうか。

 逡巡する陽子をみて、楽俊はこう諭そうとする。

民のことを考えて怖気づく分別があるだけでも、お前は玉座につく資格があるよ。 

 また、隣国雁の国王である尚隆はこう述べる。

お前はお前自身の王であり、己自身であることの責任を知っている。
自らを統治できない者に国土を統治できようはずもない。

 ここに見られる考えは、中国の政治思想の一つ、「修己治人」をなぞっているのだと思われる。修己治人とは、前回述べた孔子や孟子の「徳治主義」を前提としながら、徳のある統治者が生まれるための方法を説いた思想である。儒教の経典の一つ、『大学』にはこうある。

その国を治めると欲する者は、、、まずその身を修む。その身を修めんと欲する者は、まずのその心を正しくす。

 宋代の思想家である朱子は『大学』に基づき、自己を修めるとは、人目をはばかって自分の心に反した振る舞いをせず、自身の内に生じる悪を自覚しこれを払うことだと述べた[6]。この自己修養によって善なる政治家が育ち、国が良く治まるというのである。

 これに照らせば、陽子は少なくとも自分の愚かさ、自分の内側に潜む悪を自覚し、それをなくしていこうと努めている(=修己)のがわかる。

わたしは本当に愚かだった。そんな自分をわかって、やっと愚かでない自分を探そうとしている。
これからなんだ、楽俊。これから少しづつ努力して、少しでも、ましな人間になれたらいいと思っている。

 自身の内なる悪を省みてこれを改めようとすることは、自己に対する責任を負うことだと言えるかもしれない。陽子の言葉に対し楽俊はこう返す。

ましな人間になりたいんだったら、玉座について、ましな王になれ。それがひいては、ましな人間になるってことじゃねえのかい。
王の責任は確かに重い。重い責任で締め上げられりゃ、さっさとましな人間になれるさ。

 この一言に押されて、陽子は玉座につく決意を固める。十二国の世界で新たな王として立つということ、それは気候変動を止め、人々を災害から救う責任を果たすことである。

 自己を修める責任と、他者に対する責任。この両者を過酷な経験と楽俊=他者との出会いによって学んだ陽子は、気候危機を食い止めるという巨大な責任を果たすに相応しい、これが物語が出した答えである。

※1参考にした論文(宇佐美誠編『気候正義』)では「肩代わりの義務」という言葉が使われていたため、「肩代わりの責任」ではなく義務と書いたがが、今回は責任と義務を意味を区別せず用いている。

※2池で溺れる子供の事例は、功利主義者のピーター・シンガーによる論文『飢えと豊かさと道徳』(1972)において論じられ、その後「正義」をめぐる様々な議論に大きな影響を与えている。シンガーの主張は、苦境にある者を助けることができる者は、それぞれが個人として可能な限り救援の義務を負うというシンプルなものである。

<参考>

[1]「若者の「エコ不安」とは。地球の未来への不安を和らげるために、私たちができること」World Economic Forum 2021
[2]鵜飼健史『政治責任』岩波書店 2022
[3]「16才の少女が訴える 温暖化非常事態」NHK 2019
[4]宇佐美誠編『気候正義―地球温暖化に立ち向かう規範理論』勁草書房 2019
[5]ロナルド・L・サンドラー『食物倫理入門』馬渕浩二訳 ナカニシヤ出版 2019
[6]中島隆博『中国哲学史』中央公論新社 2022



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