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「喪失と再生の物語」映画ドライブマイカーを見て

ドライブマイカーを見た。
「おくりびと」以来のアカデミー賞を受賞した日本作品だということで気になったので。3時間の超大作だったが、見て行くうちにどんどん引き込まれていくようなすごくいい作品だった。村上春樹の小説は読んだことが殆どなかったが、少し読んでみたくなった。

この作品のテーマは、「真実を直視すること」だと思った。人間は弱い生き物だから不都合な現実からはついつい目を背けたくなるのが常だ。僕も弱い人間の中の1人だから、よく分かる。特に、「自分の弱さ」という「不都合な現実」と向き合うことは本当に難しいことだ。人間だれしも、自分が出来ない人間であると思いたくない、自分は完璧なんだと信じていたい、できれば自分の弱い部分は見なかったことにしたい。でも、そういう自分の弱さと向き合わないと、悲劇的な結末を迎えることがある。本作の主人公である家福はまさにそういう人物だった。
家福はどうしようもなく弱い人間だった。自身でその弱さを直視することができなかった。

妻の音の浮気現場、それも自宅に男を連れ込んでセックスをしているという衝撃的な、修羅場に遭遇したにも関わらず、妻に何も言わないのだ。いや、言えないのだ。それを口にしてしまえば、これまでと同じような夫婦ではいられなくなる。その状況が、あまりにも恐ろしいのだ。ただ、音は話して欲しかった。ちゃんと自分の意見言ってほしかった。あれはどういうことだ!と怒鳴ってっもらいたかった。それによって愛されていることを実感したかったはずなのだ。

子どもの件もそうだったんだと思う。1人めの子供が死んだあと、妻の音は子供を望まなかったようだが、車の中で家福に「あなたは子供が欲しかった?」と尋ね、家福は「自分だけが望んでも意味がない、君の望むことに合わせる(本当は欲しいが言わない)」というような趣旨の回答をしていたと思う。その後、音はすごく悲しそうな顔をしていたように見えた。恐らくここでも、事勿れで相手に流されるのではなく、家福なりの思いとか考えを話して欲しかったのだと思う。家福は2人の関係を維持することだけに執着し、自身の想いを発露していなかったのである。

家福とは真逆の存在として描かれているのが高槻だ。高槻は自分の感情を全くコントロールできない人間として描かれている一方で、思ったことはなんでも言うし、行動に出してしまう。音との浮気に至った理由も恐らくは、家福とは異なり、感情をあらわにし生身でぶつかってくる高槻に惚れた、という側面もあるのだろう。家福はそんな高槻に対して、恐らく嫌悪感のようなものを常に抱いていたように思う。(この嫌悪感はセックス現場を目撃した浮気相手であったということ以上に、自分とは違うもの、自分にはないものを高槻に感じていたからだろう。)高槻が同じ劇団のメンバーと一夜を過ごしたり、交通事故を起こし、遅刻をしたことに、「分別を持ってくれ」と忠告する場面は印象的だった。しかし、高槻は最後の最後まで傷害致死で捕まってしまうような自分をコントロールしきれない衝動的な側面を抑えることができなかった。分別を持てなかったのだ。それが良いことだとは言えないが、自分を抑えすぎたが故に、妻を失った家福がいるのも事実である。

真実を直視できなかったことで失ったものがある、という物語であると同時に、絶望のエンドではなく、そこからの再生も描かれているのがこの物語だ。絶望の淵で、彼を救ったのが、ドライバーのみさきだった。当初、彼女とのやりとりは大変ぎこちないものだった。だが、家福の「車をドライブ」するということを通じて家福は彼女に(そして彼女も家福に)信頼を寄せていくことになる。この辺りは又吉がYouTubeでいっていたように「車」とか「ドライブ」というものの特別さを感じた。(又吉のYouTube、エピソードトークがシンプルに面白かったので是非見てみてください。)

車というのは基本的にはドライバーが車を止めない限りは、完全なる密室である。見ず知らずの人間と部屋に2人きりというのは耐え難いものがあるが、車の中で2人きりというのは何故だか耐えられるような気がする。運転という目的が存在しているからだろうか。ビジネスなど目的がある会話を苦手と感じたことはあまりないが、雑談のような目的のない会話はなかなかしんどい、という感じに似ている気がする。そういう目的を付与された空間だったからこそ、2人はお互いを気にかけたり干渉しすぎたりする必要はなかった。そういう意味では、劇場の案内人的な家福の素性も演劇のこともしらない、全く演劇には関与しない「ドライバー」という存在だったこともすごく良かったのかもしれない。そんな干渉しすぎる必要のない2人だったからこそ、変に相手を気遣わずに、徐々に絆を深めていけたのだと思う。彼女は表情こそ変わらないが徐々に家福に心を開いていた。自身の生い立ちのことを話し、(家福のお願いもあったが)自身の故郷に家福を案内した。倒壊しているみさきの生家の前で抱擁するシーンは印象的だ。多重の人格を持っていたみさきの親とその死(みさきにとっては殺し)、家福を愛しながら高槻とも体を重ねていた音とその死(家福にとっては殺し)。家福は、お互いのストーリーを重ね、これまで抑え込んできた後悔の念のようなものを止めどなく言葉として発露する。家福はみさきのストーリーによってカタルシスを得たのだ。


これはこの映画を見て自分が得たカタルシスにも通ずる。僕が映画を見るのはカタルシスを得て、解放されたような気分になるためだが、映画に限らず、ストーリーはこのように人を解放し救うものなのかもしれない。人はどこかの誰かのストーリーを求め、救われたいと願う。そのストーリーが事実かどうかには関係がない。誰もがフィクションのドラマを見たことがあるだろうし、聖書はもう何百年も読み継がれている。嘘であれ本当であれ誰かのストーリーを感じることが救いになるのだというメッセージを感じた。だから、振られて落ち込んでいる時は、失恋ものの小説を読んで徹底的に泣けばいいし、大切な人を失ってしまった時は、ヒューマンドラマ映画を見て感動したらいいと思う。過去を引きずって一生前に進めない人は一回どん底まで落ち込んでみるのがいいかもしれない。そうやって現実を直視して、人のストーリーを感じながら生きることが救いの道なのだから。(余談だが、そういう意味では、宗教というのは理にかなっている。)

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