日本の稀代の自由人たる柄谷行人 その6

柄谷行人の著作について, 間接的に触れるような記事は, 比較的最近においても書かれていたが, 彼の著作を直接に取り上げるような記事は, この記事以来ではないだろうか. この記事で取り上げたいと思った著作は, 柄谷行人『定本 柄谷行人文学論集』(岩波書店, 2016年)である.

この著作はまず, 次のように説明されている.

「一九六〇年代末に文芸批評家としてデビューした著者の今日にいたるまでの全文学評論から, 著者自身が精選改稿した一二篇を収録. 冒頭には各作品を解説する序文をあらたに付す. 『アレクサンドリア・カルテット』を論じた六七年の修士論文から, 漱石『文学論』について語った二〇〇五年の講演まで, 著者の文学的営為の全体像が一望のもとに. ダレル, シェークスピア, 鴎外, 漱石, 四迷, 安吾, 泰淳, 島尾敏雄, 中上健次らのテクスト読解を通していくつもの「可能性の中心」が導き出される. 思想家柄谷行人の原点を知るための決定版」

ここで引用された文章それ自体を柄谷本人が書いたかは, 定かではない(むしろ出版社にいる人間の一人が書いた文章である可能性が高い)けれども, まずは, この著作の全体像を大まかに示す文章としてこれを引用した. ちなみに, ここに引用されている人物たちについて補足を簡単に加えることとする. 鴎外とは森鴎外のことであり, 漱石とは夏目漱石のことである. 四迷とは二葉亭四迷のことであり, 安吾とは坂口安吾のことである. そして, 泰淳とは武田泰淳のことを指している. 島尾敏雄中上健次については, フルネームが書かれていることもあるので, もはやこの記事で詳しく説明することはしない. ダレル(Lawrence George Durrell)やシェークスピア(William Shakespeare)についても, この記事で詳しく説明することはしない.

今までの柄谷行人に関する著作の記事と同様に, この記事ではこの著作の序文の簡単な紹介を行うことにとどめることとする. しかし, その前にこの著作の目次を紹介することは無益でないから, その紹介をすることから執筆を始めようと思う.

1 目次の紹介

『定本 柄谷行人文学論集』の目次は以下のようになっている.

序文

 『アレクサンドリア・カルテット』の弁証法

 漱石試論 意識と自然

 意味という病 マクベス論

 歴史と自然 森鴎外論

 坂口安吾『日本文化私観』について

 歴史について 武田泰淳

 漱石の多様性

 坂口安吾その可能性の中心

 夢の世界 島尾敏雄

 中上健次とフォークナー

 翻訳者の四迷

 文学の衰滅

初出・底本一覧

以上である.

2 序文の紹介

柄谷は「文学批評を一冊にまとめておきたいと前から考えていた」(vページ)と述べた後に, この著作を二部に分けたことを次のように説明している.

「本書を編むにあたって, 二部に分けた. 第一部は, 六〇年代後半から一九七五年ごろまでの作品から選んだ. 第二部は, 一九八五年から二〇〇五年までの作品から選んだ. そして, この二つの時期の間の作品は除外した. 私が実質的に批評家として活動したのは, 一九七三年までである. したがって, この時期のものは第一部に入っている. 七四年には, 「柳田国男試論」と『マルクスその可能性の中心』を同時に連載するようなことを始めた. いずれも狭義の文学批評から離れるものであった. 私自身はそのような仕事を文学批評と見なしていたのであるが」(vページ)

この引用に述べられた「柳田国男試論」については, 柄谷が『柳田国男論』(インスクリプト, 2013年)としてまとめた著作の一部分をなしている. また 『マルクスその可能性の中心』は, 講談社学術文庫から柄谷によって1990年に出版された本である. この2冊についてもいずれ紹介記事が書かれるかもしれないが, 書かれないかもしれないので, 興味を持たれた方は購入するなり借りてくるなりをお勧めする.

ところで, この引用に述べられている「狭義の文学批評」という単語については, 柄谷が「対象が何であれ, 書かれたものであるならば, それに関する批評は文学批評である, と私は考えた」(ixページ)と述べていることから察するに, 文学作品として知られている作品のみを批評することを指しているものだと理解すれば良いだろう. とは言っても, この記事の執筆者がこの著作を見る限り, この著作に収録されている多くの批評は「狭義の文学批評」に属するものであるような気がするのであるが, この感覚が正しいかどうかは判断しないこととしよう.

第一部と第二部との違いについて, 柄谷は次のような説明を加えている.

「第一部では, 私は文学批評家として活発で意気盛んであり, 第二部では, 否定的で陰々滅々であるように見える. しかし, 第一部の時期でも, 私は近代文学が永遠であるというような考えをもっていたわけではない. 冒頭に「『アレクサンドリア・カルテット』の弁証法」(一九六七年)という論文を置いたのは, 私の最初の文学批評だからだが, それが唯一の理由ではない. ここで, ある意味で「近代文学の終り」が論じられていたからである」(viiページ)

「近代文学の終り」という表現については, 『近代文学の終り』(柄谷行人, インスクリプト, 2005年)を, 柄谷行人読みとしては想像しないではいられない. だが, この表現そのものについてこの記事で考察を深めるつもりはないので, 興味のある方は, 『近代文学の終り』を含めて柄谷の著作を読んでみてほしい. ただ, それだとあまりに残酷な対応だと思われる人もいるだろうから, 端的にその表現の意味だけを述べることにすれば, それは「終わりがあるから始めることができる」という意味となるだろう. 「近代」とは?「文学」とは?そして「終り」とは?...これらそれぞれについて本来であれば記述しなければならないのだろうが, それはこの記事の目的からは外れてしまうので, この記述を行うことはしない.

『アレクサンドリア・カルテット』とはダレルのかいた作品であり, カルテットと名付けられていることから推察されるように, 四部作になっている. 第一巻『ジュスティーヌ』第二巻『バルタザール』第三巻『マウントオリーブ』そして最終巻『クレア』となっている. このダレルの作品群を柄谷がどのように批評したかはまさしく, 『定本 柄谷行人文学論集』の本文を参照していただくことでしか, 理解できないだろう. ここでは, 「『アレクサンドリア・カルテット』の弁証法」について柄谷がどのような自己評価を加えているかを述べるにとどめる.

「「『アレクサンドリア・カルテット』の弁証法」には, 私自身にとって記念すべき意味がある. これは東京大学大学院英文科での修士論文である. 私はもともと経済学部の学生であったが, 卒業後は大学院の英文科に進んだ. これは大きな転換のように見えるが, そうではない. 私は中学の時期から, フランスとロシアの文学を耽読していた. 文学は私にとって不可欠なものであった. が, それと, 自分が書くこととは別である. 自分には天分がないという気持がいつもあった. 数学ならいいかもしれないと私は思った. だから, 大学を受験する直前まで数学科を志望していたのである. しかし, ここでもやはり「天分」が問題であった. 私は最後に, 文学も数学も断念し, その中間として経済学を選んだ」(viiiページ)

経済学が文学と数学の中間である, という認識を柄谷は持っていたようだが, この認識それ自体は一体どこから来たものなのか. この記事の執筆者はその点が気になっている. しかし, 柄谷が経済学を学んでいくにつれ, この認識は誤りであるということを, 柄谷自身が発見していくようなのだ. 次の2つの引用を見てほしい.

「しかし, 学ぶにつれて, 経済学は文学と数学の中間ではないし, そもそも「中間」などない, ということが分かってきた. 私はマルクスの『資本論』には強い関心を抱いたが, それを経済学者として続ける気にはならなかった. たとえ天分がなくても, やはり文学をやろうと思い直したのである」(ixページ)

「私は経済学を放棄したが, それは別に『資本論』を捨てることではない. そもそも『資本論』は「経済学」ではなく「経済学批判」の書なのだから. 『資本論』について考えるのであれば, むしろ経済学者の観点を離れたほうがよい. 私はそれを文学批評として考え直そうとした」(ixページ)

『資本論』が「経済学批判」の書であること, 並びに『資本論』は文学であるということ, これらはいずれも正しい認識である. 前者の認識については, 『資本論』というタイトルは, Das Kapital: Kritik der politischen Oekonomie という原文のDas Kapitalを邦訳したものに過ぎず, 邦訳されていない(正確に言えば, ほとんど気にされない)部分であるところの, Kritik der politischen Oekonomie が「経済学批判」の意味にとれるからである. 後者の認識については, マルクス本人が, 『資本論』をアートとして完成させようとしていたことからも, その認識の正しさが裏付けられる. この二つの認識は, 少なくとも『資本論』を経済学の書であるとか哲学の書であるとか...という形で評価するよりは, 『資本論』の評価の仕方として外れていないように思われる.

『アレクサンドリア・カルテット』に関する柄谷の認識について述べるのはこれくらいして, 引き続いて柄谷が取り上げた別の人物について取り上げることにする. まずは夏目漱石とシェークスピアの二人にご登場願おう. なお『ハムレット』がシェークスピアの作品であることは, わざわざ述べる必要はないと思われたのであるが, 念のために先んじて述べておくこととする.

「「漱石試論」で, 私はつぎの点を指摘した. 彼の長編小説では, 主人公がそれまで直面していた問題を途中で放棄して, 唐突に別の次元に移行してしまう. それは以前から, さまざまな観点から批判されていたことである. 私の考えでは, それはつぎのようなことである. 《主人公たちは本来倫理的な問題を存在論的に解こうとし, 本来存在論的な問題を倫理的に解こうとして, その結果小説を構成的に破綻させてしまったのである》. / しかし, このような破綻を非難すべきではない. そこに避けがたい必然性があることを見るべきなのだ, と私は考えた」(xi-xiiページ, / は段落の変わり目である)

「ハムレットは亡父のための復讐をすべきなのに, 何やらえたいの知れない内的問題にとりつかれて, 本来のコースから外れて, 道徳劇的な構成を破綻させてしまった, とエリオットはいう. しかし, 私は, この破綻こそが『ハムレット』を今日まで残る作品にしたのだ, と考えた」(xiiページ)

精緻な構成のもとに従って行動することが強いられる, 文学作品の主人公たち並びに登場人物たちは, その構成がいかに素晴らしい構成のものであったとしても, 所詮は構成された素晴らしさのもとで動いているに過ぎず, そのような動きによってもたらされる感動というものは, せいぜい一時的なものであって, 世代を跨いで読まれることはないだろう...この記事の執筆者はこの二つの引用を読んでこのようなことを感じ取ったのであるが, それにしても, 破綻こそ必然なのだ, と言わんばかりの柄谷の主張は, どのようなことを言いたいがためになされる考えなのだろうか.

「むろん, 『ハムレット』に開示されたような世界は歴史的であって, 長くは続かない. それをルネサンス的な世界と呼ぶとすれば, 漱石の作品世界もルネサンス的であるということができる. 彼の長編小説は, 一方では, 封建的あるいは儒教的な世界像の骨格にもとづいている. が同時に, 主人公らはそこから致命的に逸脱している. しかも, そのことが何であるかを, 彼らはわかっていない. ここから生じる分裂は未曾有のものであり, 出来合いの言葉では語りえない」(xiiiページ)

当たり前とされている世界観の中で生きながら, その当たり前に対して疑問を持つような登場人物, というのはおそらく至る所の文学作品に登場するだろう. ところが, その当たり前に対して「致命的に逸脱」しているような登場人物を登場させることは実は難しいように思われる. というのも, 文学作品として書くと想定している以上, そのような逸脱も書き手にとっては想定の範囲内になることがほとんどであり, その逸脱を致命的たらしめることは難しいからである. 事実は小説よりも奇なり, という言葉があったように思われるが, これは何よりも, 致命的な逸脱を書くことに失敗している作品あるいはそれを書こうともしない作品にこそ当てはまる言葉であろう. 予想される逸脱で終わってしまうような作品は, その寿命を長らえることはできないのだろうと思われる.

第一部では, 以上に挙げた人物以外に, 森鴎外, 坂口安吾, 武田泰淳についての批評が選ばれている. 柄谷自身がこの三者についてどのように説明しているのかを, それぞれ見ていくこととする. まず森鴎外についてである.

「森鴎外(一八六二ー一九二二)はロマン主義であれ自然主義であれ, 日本近代文学の始祖と呼ばれてもよい人であるが, 私が注目したのは後期の「歴史小説」である. それは前近代つまり封建的社会における人間をとらえようとするものであった. それによって, 鴎外は近代小説の構えを根本的に脱構築したのである. また, 彼は医者且つ軍医総監であり, 明治国家の政治的中枢とつながると同時に, 文学者, 中でも石川啄木のような若いアナキスト詩人らと親しく交際していた. このような振る舞いはルネサンス的というべきものである. ついでにいうと, 農政学者・農政官僚であり且つ文学者・民俗学者であった柳田国男(一八七五ー一九六二)は, 若い頃から鴎外と親しかった」(xiii-xivページ)

次に坂口安吾についてである.

「坂口安吾(一九〇六ー五五)は尋常な小説家ではなかった. 彼はそもそも「ファルス」を掲げて出発した作家である. 彼は仏教僧侶になるべく修行し, それに挫折して文学に転じたのである. 彼が知られるようになったのは, 一六世紀日本文化と政治について書いたエッセイや歴史小説を通してであった. 彼は文字通り日本のルネサンス的時代をとらえようとしたといえる. それは一七世紀以後の鎖国体制の下で消滅してしまい, その後に「日本文化」と称されるような伝統が形成されたのである. そして, それがイデオロギー的に動員されたのが一九三〇年代であった. 彼の『日本文化私観』は, それを痛烈に批判したものである」(xivページ)

最後に武田泰淳についてである.

「私はまた, 戦後文学の中で, 安吾と並んで異色の存在であった武田泰淳(一九一二ー七六)を論じた. 彼は仏教僧侶であるとともに中国文学者であった. 彼が直面した最も苦しい事態は, 徴兵されて中国大陸での戦場に立たされたことであろう. 彼はその体験を通して, 司馬遷の『史記』を読んだ. それはまた, 現代を『史記』の観点から見ることであった. 泰淳が『司馬遷ー史記の世界』を出版したのは, 一九四三年, 京都学派の哲学者らが「近代の超克」や「世界史的立場」を論じたのと同時期であり, それらを批判するためであった」(xivページ)

この3者に共通するものを, この記事の筆者は, 作られようとする伝統に対する批判, と捉える. 特に, 作られようとする伝統を用いて国家を繁栄させようと思考することへの批判が, この3者に通底するものであると思うのである. この思いが正しいかどうかは, この記事に大きな影響はもたらさないだろうし, この記事それ自体が長くなってきたために, この思いの正当性に関する議論はしないこととする. そして, 第一部に関する序文の紹介もこの辺りとしておこう.

第二部については, 第一部の紹介のような詳細な紹介を行うことはしない. それは一つには, 柄谷が「狭義の文学批評」から離れた時期の批評が第二部に収められているからであり, もう一つには, 終わりの始まり, または始まりの終わり, について述べられているからである. もう一つの理由についてはこれだけでは意味不明だと思われるので, 柄谷の述べるところを引用しておく.

「第二部の最後においた「文学の衰滅」に関して, 一言述べておきたい. これは最初に述べたように漱石の『文学論』に関する米国の学会での講演にもとづくものであるが, 同じ時期に私は日本で「近代文学の終り」と題する講演をした. これにかんしては, つぎのような誤解があった. それは, かつて近代文学の「起源」を書いた私が, ついにその「終り」を告げるにいたった, という誤解である. しかし, 私が近代文学の「起源」を問うたのは, すでに何かの「終り」を感じていたからである」(xviiページ)

何かの始まりを問うことは, 何かの終わりを問うことに等しい...この記事の筆者はこの引用からこの考えを思いついた. 始まりがはっきりと意識されるためには, 終わりがはっきりと意識されなければならない. 終わりがはっきりと意識されないのであれば, 円環をぐるぐると回るが如く, 始まりというものを明晰に意識することはできないのである. 円環を回り始めた瞬間の人間は, その初めの位置を覚えていることができるかも知れないが, 回っているうちに, その位置を覚えていることの困難が増してくるのである.

3 終わりに

「私は一九六九年から文学批評家として活動し, 十数冊の本を出してきた. しかし, 『日本近代文学の起源』(一九八〇年)を書いて以後, 徐々に現場から遠のき, 思想の仕事に専念するようになった. 現在私の本を読む人の多くは, 私が文学批評家であったことを知ってはいても, 読んだことがないだろう. たとえ読んだとしても, それは私が過去に何を考えていたのかを知るためであって, 文学批評自体に関心があるとは思えない. 私はむしろ, そのような読者の手間を省くために, 文学批評を一冊にまとめておきたいと前から考えていた」(vページ)

この引用でもって『定本 柄谷行人文学論集』の言葉ははじまる. この記事の筆者も, この引用で見透かされているかのような人である. すなわちこの記事の筆者は「たとえ読んだとしても, それは私が過去に何を考えていたのかを知るためであって, 文学批評自体に関心があるとは思えない」ような人なのである. とは言ったものの, 文学批評を行うことと自らの思想を展開することとの間には, どのような差があるのだろうか...それこそ文学批評と思想展開との間に「中間」なるものは存在しないのかも知れない. 人間は言葉によってのみ思考することができる動物である以上, 批評することなしに生きることはできず, 思想を考えることなしに生きることはできない. そういった意味では, 批評すなわち思想, と言えるのだろう.

...といった形で, この著作を簡単に紹介してきたのであるが, どうもこの記事の字数が8000字程度ということになってしまったので, ここでこの記事の筆者は筆を置くこととしよう.


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