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”余計な事をしない”という価値

先日息子と二人でスーパーに買い物に行った。

その日に食べるものも必要だが、
常備しておかなくてはならない調味料の類が
いくつか切れかかっていたので、
それらをリストアップして買い出しに来たのだ。

買い物かごをカートに乗せて
息子にそれを押してもらいながら2人で
買い物を進めていた。

「次はみりんや。お前どこにみりんがあるか知ってるか?」
「う~ん、どこやろ?醤油のとこかな?」

などといいながら2人で必要な商品を選び、
事前につくったリストを消し込んでいく。

そうして店内をウロウロしていると
日ごろ目に付かなかった商品が目に入るらしく、
私は試してみたい商品を手に取り、
そのいくつかをカゴに入れていた。

一生懸命に言われた商品だけを探す息子。

そんな光景をふと見たときに
昔母に言われた一言が脳裏にフラッシュバックしてきた。

昔私はよくおつかいに行っていた。

友達と遊ぶ約束をしていない平日などは
宿題以外特にすることもなかったので
私にとってはヒマつぶしぐらいの感覚でもあったのだが
単純に母が喜んでくれるのが嬉しかった。

母によく「今日なんか足りひんもんとかない?」
と聞いていたほど、当時の私はおつかいが好きだった。

行くのはいつも歩いて10分ほどの距離にあるスーパー。

今ではもう無くなって、駐車場付きのコンビニに
なってしまったのだが、
その店は安いことで地元では有名なスーパーで
いつもお店の前には多くのママチャリが並んでいた。

ドン・キホーテが安い理由は陳列にコストをかけない
圧縮陳列のおかげだという話を一度は聞いたことが
あるかもしれないが、
得てして安い店というのは陳列が雑なものである。

そのスーパーも段ボールの上を開けただけのような形で
商品が陳列されており、
どこに何を置くというルールも曖昧なのか
あちこちを探し回らなくてはならなかった。

そんな店で私は母から渡された買うものリストを
片手に握りしめ、商品を選んで買って行った。

最初は母が思っていたものと違うこともあったが
それも回数を重ねれば精度が高くなり、
母が言ったものを間違いなく買えるようになるのに
それほど時間はかからなかった。

そんな風におつかいをちょくちょくしていた私だが
ある時、おつかいを終えて母に袋を渡すと
母がこんなことを私に言った。

「あんたにおつかいを頼んだら、
いらんもんを買わんでいいから助かるわ」

その当時の私は母の言っている意味が
イマイチわからなかったのだが、
恐らく母も雑な陳列の中をあちこち探し回っていると
ついつい目に入った色んなものが気になり
それを購入してしまっていたのであろう。

私におつかいを頼むと言われたものだけを
愚直に守って買ってくるので、
余計な失費を抑えることができたのかもしれない。

そう思うと、なんだか自分がおつかいをすることで
家計にも貢献したような妙なうれしさを
感じることができたのである。

そんなおつかいも大きくなるにしたがって
頻度は減っていき、
スーパーの袋を下げて店から出てくるのを
友達に見られたら恥ずかしいと思うようになった。

そして、時は流れ私は大人になった。

会社に入り、仕事をしていると
上司たちはしきりに「自分で考えて行動しろ」
ということを私たちに言った。

いわゆる指示待ち人間にはなるなということであろう。

私は元来自分で考えて動くことが好きなので
何も言われなくても自分で工夫をして上司に提案をし、
比較的早いうちから会社で認められている自負はあった。

そんなあるとき、私は製造現場の監督者のような
仕事を任せられることになった。

もちろん上司からすれば私が思ったよりも
自ら考えて動く人間だったので、
現場の改善も進めてくれると期待しての抜擢だったのだが
私はこの仕事をすることで、
初めて人に指示をして動かさなくてはならなくなり
それがプレッシャーであった。

なぜなら、私の目から見れば現場で実際に作業をする
作業員の人たちは、全然物事を考えずに仕事をしているように
見えたからである。

実際、その仕事をし始めてみると
そのことで戸惑うことがしばしばあった。

あるとき生産性の改善を狙ったレイアウト変更を
してみようということになり、
現場の人にその論理と理由を理解してもらったうえで
動いてもらうと思い、私は資料を作って説明会をした。

ところが、現場の方々は驚くほどリアクションが薄く、
「そんなんええから、やるんやったらはよしよ」
という言葉が顔に書いてある気がした。

結果として、そのレイアウト変更は成功し、
生産性を上げることにつながったのだが、
私の中でとてもモヤモヤが残ってしまった。

本来私は今回のレイアウト変更の論理を説明することで
現場の方からも意見を募って、
みんなで最適解を見つけていきたいと思っていたからである。

確かに私の案は結果として成功したが、
それでは私の言った通りのことを
現場の人からすればやらされているに過ぎない。

それではダメだという思いがあったのである。

そんなモヤモヤを抱えながらその日の仕事を終え、
帰路についたとき、私はあることに気が付いた。

帰ってから食べるものが何もない。

当時一人暮らしだった私はお米を炊くという
習慣がなく、
いつもチンするご飯と自分で作った雑なおかずを
食事にしていたのだが、
その日はチンするご飯もおかずになりそうな食材も
残っていなかったのだ。

慌ててスーパーに進路を向けて進み、
スーパーで買い物をすることにした。

チンするご飯と、冷凍餃子にしようと
スーパーの中を歩き回っていたとき、
ふと私の頭の中に昔母に言われた一言が
蘇ってきた。

そして、私の頭の中にあったモヤモヤを
その言葉が融かしてくれるような気がしたのだ。

工場の現場の方からすれば
言われたとおりのこと、作業手順書通りの仕事を
愚直に守って作業をすることも
立派な価値なのではないだろうか。

もちろん皆が自ら考えて行動することは
素晴らしいことであるが、
製造業では決められた手順を愚直に守るからこそ
均一な品質の商品を製造し、
顧客に届けることができるという意味で
何よりも大切な価値の一つなのである。

まさにその日、現場の方々はしっかりと
自分が発揮すべき価値を出していてくれたのだ。

そう考えると気持ちが一気に楽になった。

それからも私は現場の監督者の様な仕事を
しばらく続け、
紆余曲折があって今の仕事にたどり着いた。

そのキャリアの中で自ら考えて
行動をすることのできない部下に当たることも
何度かあったが、
彼らにはその持ち味をうまく活かす仕事を
させてやることができたと思う。

ついつい自分が親になると
子供たちには自分で考えて行動することを
求めてしまいがちであるが、
一生懸命みりんを探す息子を見ていると
「余計な事をしない価値」をかつて母がしてくれたように
伝えたくなった。

次の休みに彼には一人でおつかいに行ってもらおう。

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