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遺伝? それとも

 発達障害と呼ばれるものや、心身の特性の多くは遺伝性が疑われつつも、旧優生保護法の悪評の影響や、遺伝学における優性遺伝・劣性遺伝といった翻訳のまずさなどから、議論すること自体がタブーとされている節があります。

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強特性一家

 まず、私はADHD+ASDで、両方の特性が打ち消し合ってかなり分かりにくい感じです。これについては以下の動画を見ると理解が早いかも。

 一見して社交的だけど学生時代は友だちとの関わりが下手で、周囲との会話では細かいところが気になり余計なことを言ってしまうことも多く、協調性なんてものは皆無でした。過集中・注意散漫が酷く馬鹿にされがちだったり、成績は良かったが維持することができなかったり…。マイナスな部分を数え上げればきりがありません。

 妹もコミュニケーションがかなり苦手で不登校となり学生時代は苦労をしていた様子。ASDとLDの診断が出ています。

 次に、父はかなりASD傾向が強く、仕事は一点においては完璧。段取りや記憶する系統のものはたの追随を許さないが、昇進しないのに上司よりも高給取りというわけわからん万年平社員だったようです。
 親兄弟からはバカにされて育ったらしい。
 情緒不安定で、悪友に流され、利用されやすく、家庭では酒浸り。基本自分の時間しかなく、ルーティンの繰り返し。
 様々なことでこだわりが強く、子どもに対しては小言を言うという関わりしか存在しませんでした。

 母は、自覚ないようだがどう見てもADHDとしか思えない人物です。
運動能力は高く、手先は器用でわりと何でも作れてしまうが、兄弟の能力値が高すぎてやっぱりバカにされて育った様子。
 片付けはひどく苦手で、いつも父がやっていたらしいですが、何でも捨ててしまうといつも文句を言っていました。
 確信を持つ要因はいくつもあるのですが、ここでうまく記述が出来ません。

発達障害児の保護者・縁者

 こう書くと反発もあるかもしれませんが、何百家庭も関わってきた体感上、子どもの発達特性と近いものを持っている保護者は多く見受けられました。そこにご本人も気付いていらっしゃらないがために、発達特性に対して偏見を持っている場合が多く、頑なに受診を拒んだり、様子を伝えると馬鹿にされたと感じてしまう方も多かったです。

 保護者のこれまでの経験などの中に、そうならざるを得ないマイナス体験が多く存在しているのではないかと感じていました。

特性って…必ずしも悪ではない

 上記のように遺伝の可能性を書きつつ、一方では全く別のことを考えていたりもします。
 それは生活する上で困り感が無い場合、受診という選択肢がないということです。

 目立たなければ注目もされない。

 困らなければ対策も考えない。

 つまり、マイナスな部分が目立つ場合のみ研究対象とされ、名前が付いたり『脳機能の特性』と位置づけられたりするのではないか。
 逆にコミュニケーションや生活、何かを成す上でとても助かる場合が多い発達特性もあるのではないかと思っています。

 有名な人が実は○○障害だった! とか、よく耳にしますが、案外、10人に一人とかではなく、ほぼほぼみんな、生まれ持った脳機能による何かの特性を持っていて、お互いに優劣をつけてみたり、系統ごとに区別してみたりしているのではないかと、思っていたりもします。

 潜在的な発達障害の持ち主は掃いて捨てるほどいると思います。

 本人・周囲の人が望むか望まないかに関係なく、自己スペックガチャを引いて生まれた感じ?

 こんな言い方もかなり語弊を招きそうですね。

普通のお父さん

 昔実家の近所に1つ上と2つ下の兄弟がいる家があって、時々一緒に遊んだりしたものです。そこのお父さんが、私にとっては理想でした。

 子どもと休みのたびに親子でキャッチボールしていて、サッカーボールを蹴り合っている時もありました。
 一方、私は壁に一人でボールを蹴って、ソフトボールの3号球を壁に投げて一人でキャッチ。

 テレビゲームも家でお父さんが一緒にやっていたり、とても楽しそうでした。
 一方、うちはテレビゲームやるのは私だけで、将棋の相手すらだれも見向きもしない感じでした。

 妹と2人、「普通のお父さんが欲しかった」と母に泣いたことを覚えています。

 当時、近所のお父さんのことを、『普通のお父さん像』としていましたが、おそらく当時にしては特別子煩悩なお父さんだったのでしょう。
 現代で、やっと普通になりつつありますよね。 

時代の流れと他者理解

 父も母も、そして私も妹も、苦手が目立つことで馬鹿にされて育つという経験をしてきました。
 人と人との違いを受容する社会であれば、母は高スペックの親族から馬鹿にされることもなく長所を伸ばして様々な特技を活かして大人になったはずです。そうすれば、私や妹に「こんなのも出来ないの!?」みたいな言葉がけは無かったはず。

 父は記憶力の良さや手順・作業の効率的な組み立ての力などの高さを評価されていれば、かなり周囲から頼りにされ、全く違った人生を歩んだのではないか。家庭内外での日々のストレスに晒される酒浸りな半生は送らなかったのではないかと思います。

 各々の自己肯定感が低いがゆえに、自分を正当化するため、人が人に対しマウントを取りたがる社会だったのだと思うことにしていますが、果たして時代が移り変わった現代では、どうでしょうか。

まとめ

 運動能力や器用さ、苦手さ、人前で話すことが得意だったり、音感があったり声が綺麗だったり、物事を把握・理解する能力が高かったり、ぼんやり物思いにふけることが好きだったり。

 容姿や体型も含め、『○○似だね』と言われるようなものは全て、遺伝するのではないかと思います。
 それが、マイナス面が目立ちがちな発達特性であっても、同様に遺伝していると感じます。

 生命活動そのものの苦楽に関わってくるものや、美醜(時代や地域で捉え方や基準が違う)についての遺伝は、ストレスのないものがいいと思います。

 あとは、本人と家族・周囲の人々の捉え方だったりするので、人の得手不得手を受容し、支え合いができるような社会になっていくといいですね。

※ 発達特性・発達障害・・・細かいニュアンスで使い分けています。


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