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闇とともに死に向かいながら生きる生き方。なんとも人間らしく、甘美である。(中野信子氏著『ペルソナ 脳に潜む闇』から考える)

 中野信子氏著『ペルソナ 脳に潜む闇』について触れる。

 本書にはところどころ「わたしは存在しない。」といった表現が出てくる。著者である中野氏のペルソナが恣意的に作られ、演じられたものだったとしても、何色にも染まりたくない、また染まることができない著者の苦悩を示しているようでもある。 

 終盤で「これは私の物語のようであって、そうではない。本来存在しないわたしが反射する読み手の皆さんの物語でもある。」とつづられているが、著者は存在しないと言われても、「中野さん」の片鱗でも知りたいと思って本書を手にとった読者であれば、ドキリとさせられるかもしれない。また、「わたし」と「私」という意図的に示した二つの表記があったことにここで気づくかもしれない。  

 この終盤の一文は恐らく、私たち読者が自分のフィルター越しの画面に「中野さん」を通じて自分を反映させているだけに過ぎない、ということを言いたいのではないか。

 著者の物語を読んでいるようであって、その実自分自身も振り返っているのだ。毒親、この存在さえなければ私の人生、こんなに辛くなかっただろうなあ、とか。ああ、私もそう、頭痛持ちなの。高校生の時に始まって、今もひどく悩んでいる。本当にひどい時は音も光も一切遮断した部屋にじっとこもりたくなる、とか。以上は全部私のことなのだが。

 著者は、生に向かって歩いているというよりは、死に向かって、あるいは死と隣り合わせで歩いている印象を受けた。

 夏目漱石とか太宰治とか、優秀で繊細で過敏な文豪が思い浮かんだ。著者は小説も書けそうだと、僭越ながら思う。きっと生に向かって人生を進んでいくと、私も含め、こういう類の人は途端に息苦しくなるので、時々落ち込む作業が必要なんだと思う。ある意味こちらの方が生々しくリアルで、人間らしい。

 なぜ息苦しくなるのかといえば、本書でも説明がある通り、「ポジティブな言葉で自信を喪失する」からである。心の余裕がない時にポジティブな言葉が散りばめられた自己啓発書を読むと、そういうふうに思えない自分に嫌悪するのだ。ポジティブに捉えることのできない自分はおかしいんじゃないか、とまで思えてくる。非ポジティブは、社会的通念に反する。かと言って無理に笑みを浮かべれば、それは自分の感情を殺すに等しく、自己肯定感が目減りするばかり。

 一般にネガティブ思考はよくないこととされているが、思慮深い状態にあり、「知性の反映」とまで言われてしまうと、本書を読んでかえって安心し、勇気付けられ、それこそポジティブになった読者も少なくないだろう。

 本書は、読者の視点やおかれた状況等によってあらゆるふうに解釈ができる。私は生きづらさが一つのテーマに感じた。

 男性原理の中で生きてきた著者が、男性であれば背負わなくてよかった苦悩を、どれほど抱えていたか計り知れない。産声を上げてから、特に目立つこともなく淡々と成長し、学校を出て、結婚し、就職、妊娠・出産という人生のテンプレートのようなキャリアを築いてきたまあまあ「平凡」な私ですら、「女、しかも若い」「若い、しかも女」というだけで、数えだしたらキリがないくらいのセクハラを受けてきた。時にはセクハラにとどまらない、痴漢等の性犯罪だって、首都圏で通勤・通学をする女性であれば当然のように1回は経験があるだろう。本来、とんでもなくおかしな話である。

 高校生の時に担任の当時30代の男性教師が言った。「皆いいお嫁さんになるよ。」と。女子高だったので前述の発言を先生がしたわけだが、なんとなく結婚が女子の憧れであるので、そう言われて皆嬉しそうにしていたように思う。

 しかしあれから10年ほど経過した今は、そんな生易しい感想は抱かない。今までそういう目で私たちのことを見てきたのか。結婚が女子のゴールであり幸せであるような発言はしないでほしい。そう思わずにはいられない。

 先生も悪気や妙な下心があって発言したわけではないと思うが、昭和的発言も甚だしい。それこそアカデミズムの中にいる教師の発言ではない。女性が「選ばれるような性」であるニュアンスの含まれる発言に苛立ちを覚えるが、残念ながら未だに社会とはこんなものなのである。

 私は今心の病気になり(こう記すと自分のことではないような後ろめたさが未だにある。)、仕事を休んでいる。気持ちの抑揚が激しく、ポジティブにも、ネガティブにもなり得る。闇を見つめだしたら負のスパイラルに陥る。しかしながら、堕ちるところまで堕ちていってもいいのかもしれない、と本書は思わせてくれる。そうやって、あとは自然治癒に任せて、這い上がってくればいい。這い上がるなんていうと大げさだが。

 「監獄のような生をゆっくりと一緒に死んでくれる誰か」は、幸運にもいる。残念ながら著者の配偶者のように「私が好きなように仕事をしていて不安になるタイプでもなかった。」わけではないと思うが、夫は「『生きること』が向いていない」私の性格の一端を理解してくれている。著者とその配偶者のように、お互いがお互いの時間を妨げることなく、時には二人の時間が交差しながらも、「孤独の価値と楽しみ」を尊重し合える関係に昇華できれば、今よりももっと空気が吸いやすくなるに違いない。

 光と影があり、影の中に闇がある。闇は闇のままでいいし、影と違って光を当てることも、どうすることもできない。

 その闇を見つめ、肯定していくことで、生と死の狭間にいる己を癒やすことができるのである。

 

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