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「一番星はポラリス」第1話

【あらすじ】
高三直前の春休み、登校していた由梨乃は、男子が告白されているシーンに出くわす。彼、外村大地は「アイドルの卵だから付き合えない」と断る。進路に悩む由梨乃は、大地がそこまで情熱を傾けるアイドルとはなんなのか、と興味を抱いた。進級して同じクラスになり、交流を深めていくふたり。いつしかアイドルではなく、生身の大地に恋をしていることに気づく由梨乃だが、この片思いは決して実らない。想いを伝えるつもりはなかったけれど、彼の抱える事情を知り、由梨乃の気持ちは変化していく。


1

 自分がいわゆる、「間の悪い」人間だと感じたことはなかった。

 春休みから塾に行きたい。

 そうお願いした私のことを、母は一蹴した。曰く、「由梨乃(ゆりの)の成績なら、指定校推薦余裕でしょ? 塾なんて……」と。

 指定校で行くなんて一言も言ってない。けれど、じゃあ何をしたいかはまだ決まっていないから、強く反発もできない。

 夏休みからは行けるようにしたいな、と思いつつ、母とずっと顔を突き合わせているのは、気が休まらず、春休みは憂鬱だ。

 だから、開放されている日はほぼ毎日、学校に通い続けていた。

 一応、勉強を理由に登校しているので、受験勉強に励まなければならないが、図書室は集中できない。なにしろ蔵書が充実していて、ふと目に入った本を手に取ってしまうから。それに、他人の気配がするところはあまり得意じゃない。小さな物音や息遣いが気になる性質(たち)だ。

 参考書や問題集に真正面から取り組むには、ひとりきりの空間がいい。学校に、そんな場所が存在するとしたらトイレだけ……と思われるかもしれない。

 でも、私は知っている。誰も来ない場所。誰も開けられない部屋。私だけの空間。

 特別教室棟は、春休み、音楽室など一部の教室を除き、使われていない。しかも四階ともなれば、たまたまトイレが混んでいたからこっちで……なんてことも、ほとんどない。

 ない、はずだったのに。

「ねぇ、わかってると思うんだけど……好きなの。付き合ってくれない?」

 飲み物を買いに、一階の自販機コーナーまで行って戻ってきたら、人がいた。とっさに物陰に隠れた。

 間が悪いにもほどがある。

 なんだってこんな場所で。告白なら、定番は裏庭でしょ!

 実体験ではなくて、少女漫画の知識だが、確かに裏庭は、告白の要件は満たしている。人目につかない、二人きりになれる場所。それでいて、振られたときには逃げ出しやすい。

 雨粒が窓を強く叩いている。悪天候だからってこんな、誰が通りかかってもおかしくない往来で。

 いったいどんな人たちなんだろう。

 好奇心には勝てず、そっと覗き込む。

 告白した女子は、自信満々といった様子だ。長い髪をくるくると指に巻きつけて、相手に流し目を送って瞬かせる。

 遠目でも、派手な顔立ちの美人だ。性格はどうか知らないけど、私が男子だったら、告白を初対面であっても受け入れるかも。

 告白された男子は、どんな顔をして彼女の告白を受け止めているのか。彼はこちらに背を向けているために、表情が見えない。

 背筋がやたらまっすぐな男の子だな、と思った。

 果たして彼は、告白を受け入れるのか否か。

 目の前で繰り広げられる、映画かドラマのような光景に、人知れず緊張する。

 買ってきたお茶のペットボトルがやけに濡れているのは、私の手汗のせいだろう。

 男子生徒は、大きく肩を上下させて息を吸った。いよいよ回答するのか。

「ごめん」

 と。

 表情がわからないから、声色からしか、彼の感情を判断することができない。茶化す響きはない、真剣な「ごめん」だ。けれど、相手の気持ちを袖にすることに対する申し訳なさは、感じられなかった。さっぱりとした口調で続ける。

「俺は、アイドルやから」

 西の響きを持つ言葉、それから「アイドル」という単語にハッとする。

 この学校で、関西の訛りを自然に使用する人間は、ひとりしかいない。

 どうにかして、男子生徒の顔を見ることができないものか。背伸びをしてみたり、ギリギリまで顔を出してみたりするが、やっぱり見えなかった。

「せやから……」

 続けようとした彼の言葉は、バシン、という強い音で断ち切られた。肌を打つ、鋭い音だ。手の動きが見えなかったのは、私が女子生徒に注目していなかったせいか、それとも速すぎたせいか。

「っ、つぅ~……」
「アイドルだから何よ! この私を振るなんて、後悔するがいいわ!」

 さっきまで美少女に見えていたけれど、目をつり上げた様子は、鬼そのもの。ずんずんと足音を立ててその場を離れ、こちらにやってくる。私はさっと身を翻し、たった今、階段から上がってきたように見せかけた。

 立ち聞きしていたと、気づかれてないか。

 俯いていた私の視界に入ったのは、彼女の足だけだ。上靴のラインが緑だから、ついこの間卒業した、三年生だ。私服で来たっていいのに、わざわざ制服で、しかも上靴まで持参したのか。

 そりゃ確かに、三月いっぱいは高校に籍があることにはなっているけれど。そのへんを考慮する真面目な人ではなさそうだ。

 学生時代の一瞬のきらめき。そんなようなものが、セーラー服には詰まっているそうだから、勝負服のつもりだったのかもしれない。

 怒りに目が曇っている彼女は、隅に寄って避難していた私に激突する。

「った。どこ見てんのよ!」

とは、むしろこちらのセリフだ。私に弁解する暇を与えず、彼女は階段を駆け下りていった。溜息をついて見送り、私はそっと、殴られた側の彼に目を向けた。

「う~……」

 いくら女子の力とはいえ、思い切り叩かれたのだ。しゃがみこみ、頬を押さえて呻いている。すごく痛そう。

 それをさらっと放置して、彼の背後にある秘密基地に入室できるほど、私は非情にはなれなかった。

「あの」

 たった一言だ。けれど私には、ありったけの勇気が必要だった。

 彼が顔を上げる。思ったとおりの人の顔。

 誰? という怪訝そうな瞳に、私の姿がちらりと映ると、恥ずかしくて怯みかける。

「ひ、冷やした方がいいと、思いますっ」

 自販機で購入したペットボトルは、まだ冷たい。こっそりと水滴をスカートで拭うことも忘れなかった。結露だけならまだしも、私の手汗まみれのものなんて、渡すわけにはいかない。

 私の顔とペットボトルを交互に見比べること数度、彼は立ち上がった。思ったよりも背が高いことに、初めて気がついた。反射的に一歩引く。

「ありがとぉさん」

 ペットボトルを受け取って、ふにゃりと彼は――外村大地(そとむらだいち)は、笑った。

 すぐに唇の端の真新しい傷が引きつって、眉根を寄せる羽目になっていたけれど。


2

 隣のクラスに、芸能人が来た!

 十一月、中途半端な季節の転校生というだけで、「訳アリ?」「何事?」とひそひそされるのは間違いないのに、そこに「芸能人」というレアなプロフィールが追加されたものだから、教室中が大騒ぎだった。

 自分のクラスじゃないのにこれだけ盛り上がっているのだ。実際に転校生がやってきたA組の状況は、推して知るべし。

 噂を聞きつけて、他のクラスや果ては上級生まで廊下に居並び、一目見ようと躍起になっている。さすがに一年生は、遠慮する気持ちがあるようだったが、フィーバーが落ち着いてから、見物に来るのかもしれない。

 都内にはいくつか、芸能コースの設置された高校がある。本当に芸能人なら、そういうところに行くべきだろう。

 フォロー体制も整っているし、知人・友人も在籍している。すぐに馴染めるに違いない。何よりも、こうやって無駄な注目を集めることはない。

 ミーハーな生徒たちに囲まれて、かわいそうだな。転校生ってだけで、質問責めにあうのは間違いないのに。

 そんなことを考えながら、窓際の自分の席についた。

 テンションの上がりきった級友たちは、誰彼かまわずに、転校生の話を振る。相づちを打つのも面倒で、図書館で借りた本を開き、バリアを張る。

 もちろん、こんな騒がしい教室で、読書に集中できるはずもない。文章をなぞっても、目が滑る。

 山あり谷ありの冒険ファンタジー。ちょっぴり恋愛もあり、という私好みの物語を、こんなところで読むのはもったいない。あくまでも「フリ」だけだ。読書は人除けになるのだ。

 カモフラージュに、パラパラとページをめくっていると、ひょいと本が取り上げられた。

 こんなことをするのは、ひとりしかいない。

「千里子(ちりこ)。返してくれる?」

 極めて冷静に、凪いだ声音で要求する。怒っているわけじゃない。呆れているというか、諦めている。

 彼女は眼鏡の奥の目を私に向けて、「やれやれ」と肩をすくめてポーズを取る。オタク特有の、芝居がかった仕草である。そこが面白くもあるのだが、多用されるとイラっとくるのは間違いない。

「なーんで、そんなに冷めてるんだか」
「別に、そんなつもりじゃ」

 いいや、冷めてるね!

 千里子はそう言って、私に人差し指を突きつける。あまりの勢いに、身体ごと引いてしまう。

「季節はずれの転校生! しかも芸能人なんて、訳アリ物件! そんなんフツー、テンションあがるでしょうが」
「そうかなぁ」

 芸能人なら、注目されることには慣れているかもしれない。

 でもそれは、仕事の立場上だ。日常生活の大部分を占める学校の中でもずっとだと、すごく疲れるんじゃないかと思う。

 素性も知らぬ転校生を気遣って、ついでに本を取り返しつつ、そんな風に言えば、千里子は呆れかえった声を出す。

「だから、それが冷めてるっていうの」

 彼女は再び、力づくで本を奪い取り、閉じてしまった。こうなるともう、千里子が満足するまで、付き合うしかない。

「見に行こうよ、転校生」
「千里子、芸能人に興味あったっけ?」

 彼女は由緒正しいオタクである。三次元のイケメンよりも二次元をこよなく愛し、自分の好きなコンテンツがメディアミックスの一環として、アイドル俳優主演で実写化なんてことになれば、猛烈に愚痴を吐く。

 曰く、「顔だけじゃないの1 ××の魅力は、もっと、これこれこういうところに!」と。

 だからむしろ、アンチ芸能人のはず。こんな風に無理矢理私を誘うとは思わなかった。

「ないよ。ないけど、写真撮って、芽里(めり)に自慢する」
「なるほど」

 芽里というのは、千里子の妹。ちなみに芽里は双子で、片割れは男の子だ。

 秋月(あきづき)家の三姉弟は、それぞれみんな、オタク気質なところを持っている。千里子と違い、芽里の守備範囲は「次元問わずイケメン全般」である。ここで初めて、私は転校生が男子だということを理解した。

 ちなみにうちにも、芽里や双子の弟・潤(じゅん)と同い年の弟がいる。そのため、姉弟ぐるみの付き合いもあり、顔を合わせることも多い。

「それに、漫画のネタになりそうじゃん?」

 スマホを片手に拳を握る千里子は、漫画家になるのが昔からの夢だ。
小学生のとき、ノートにフリーハンドでコマを割って描いていた時代から、お年玉やバイト代でソフトを買いそろえ、デジタル作がをするようになるまで、一貫した目標を持ち続けている。そんな彼女のバイタリティに、私はほんの少しだけ、気圧される。

 私にだって、好きなことはある。読書もそうだし、ひとりでゆっくり、カフェでお茶をするのも好き。

 けれど、「これしかない」と決め打つことのできる「好き」は、ひとつもない。

 生き方を決められるほどの情熱を持つ人は、いつだって眩しい。

「ほら! 早くしないと、チャイム鳴っちゃう!」

 手を引かれて、圧倒されていた私は立ち上がった。
 黒山の人だかりに突撃する千里子と一緒に、どうにか人と人の間に身体をねじ込む。

「うーん。見えないな。由梨乃は? 見える?」

 平均身長よりもだいぶ低い千里子は、精一杯背伸びをしているが、目の前の男子生徒が邪魔になって、目当ての転校生は見えないらしい。

「ん……私も、全然」

 一応、私も背伸びをする。千里子よりは背が高いとはいえ、決して長身の部類ではない。あと二センチあれば、一六〇センチになるのにな、と、今年の身体測定でも悔しい思いをした。

 転校生らしき生徒の周囲を、クラスの人間が固めている。一般生徒の枠からちょっとはみ出た、目立つ人たちだ。

 サッカー部のエースストライカーに、文化祭でギターパフォーマンスを披露して、学校中の話題をかっさらった軽音部の男子。同じく文化祭で漫談を披露した、ムードメーカー的存在。

 学年どころか校内の全員、顔と名前が一致する有名人ばかり。その中でも、ひときわ輝かしい紅一点が立ちはだかっている。

 学校で一番の美少女と名高い女子生徒が、周囲の女子を牽制するごとく、積極的に話しかけている。同じクラスであっても、序列によって話しかけることを禁じられ、中央のきらきらしたグループ以外は、隅の方でひそひそと様子をうかがっているのだった。

「あ、でもちょっと、見えそうかも」

 目の前の男子が「なんだ男か」と拍子抜けした様子で、行列を抜け出していく。頭の間から顔を出せば、なんとか。

 同時に、転校生を取り囲んでいた一角の男子生徒が離れた。初めて横顔が、露わになる。

「ほんと? じゃあ写真! 写真撮って! 芽里に見せるから!」
「えぇ……」

 隠し撮りは、気分がよくないんだけど。

 スマホを渡されて困惑する私をよそに、人の波に押し流されていく千里子。あとは頼んだよ~、と言い残して、彼女は人だかりから除外された。

 仕方ない。何か言われたら、謝ろう。

 託されたスマホのカメラを起動して、私は転校生にピントを合わせる。

 そのときだった。

 ひょうきん者の男子が、そっと彼に耳打ちをする。何を言ったのか、廊下にいる私には、わからない。けれど言われた側の彼は、私たちに笑いかけた。

 少女漫画や小説の中で、ヒロインの相手役の男の子が、「ふわっと笑う」ことがある。でもそれは、フィクションの中だけのこと。

 同じクラスの男子を見ても、くだらないことでゲラゲラと笑っていて、「ふわっと」とは程遠い。実際の男の子は、みんなもっとガサツだ。

 けれど、彼は私の知る男の子とは違った。別の世界から来たみたいに、柔らかく微笑んで、そして、手を振った。

「ひっ」

 思わず息を飲む。同時に、喉の奥で変な悲鳴が湧き上がった。間抜けな声はすぐに、周りにいた女子生徒たちの、「きゃああああ!」という黄色い声にかき消された。驚くよりも、ホッとした。

 そうだ。私に対して手を振ったり、微笑みかけたりするわけがない。彼は芸能人だし、クラスで早速仲良くなっているのも、派手な人ばかり。

 私みたいな面白みのない人間が、どうして接近できるだろう。

 周りで「笑うと可愛い」とテンションを上げている女子たちは、口には出さないものの、みんながみんな、自分に対して笑ってくれたのだと思っているのが、ありありと見えた。

 なんでそんなに自信があるのか、私にはまったくわからない。

 教室外の我々に、情けの微笑みをかけた彼は、すぐに美少女に話しかけられて、そちらに意識を向けた。視線にさらされなくなったことで、肩の力が抜ける。

 生きている世界が違いすぎる。あれくらい美少女じゃないと、傍に寄ることさえ、許されない。

 チャイムが鳴っても、しばらくの間、A組前の廊下には人が溢れていた。私は集団から抜け出して、すごすごと自分の教室へと帰る。当然、スマホのカメラのシャッターボタンを押すことは、できなかった。

 それが、私が外村大地くんと出会った日のこと。

 出会ったなんておこがましい。たった一瞬、視線が交錯しただけのことだし、何ならそれすら、私の勘違いだ。

 私たちの人生は、同じ学校に通っているという接点だけ。決して交わらない。

 けれど私は、それ以降、なんとなく彼のことが気になっていた。あの笑顔が、忘れられなかった。

 体育の時間に、グラウンドでサッカーボールを追いかけている姿を眺めたり、あるいは廊下でたまたますれ違ったり。向こうは私のことなんて、もちろん知らない。

 名前を覚えてもらいたいとか、友達になりたいとか、そんなことを考えられるほど、私は図太くなかった。

3


 あの日笑みを浮かべていた唇が、痛々しく腫れている。ペットボトルで冷やしているから、幾分はマシかとは思うけれど、傷は消えてなくならない。

「今日って保健室、開いとるんかな……」

 傷口に触れて確認している外村くんの眉毛は、情けなく下がっている。

 告白されていた男子が彼だとわかってしまえば、女子からの告白は、「受け入れない」の一択しか考えられなかった。

 大阪から転校してきた彼は、男性アイドル事務所の研修生、すなわちアイドルのタマゴだ。デビューはまだでも、雑誌撮影やコンサートのバックダンサーを務めている外村くんは、もう立派な芸能人である。

 昨今、ワイドショーや週刊誌だけじゃなくて、ネットの素人たちも探偵気取りで、芸能人のスキャンダルを追いかけ、糾弾するようになった。

 彼の事務所は、所属タレント本人にSNSアカウントの運用をさせることはほとんどないが、個人で非公開アカウントを持っていないとは、限らない。そういうのがどこからかバレて、炎上状態になるなんてことは、もはや日常茶飯事だ。

 彼自身は、SNSはやっていない。それどころか、個人的な連絡先を知っているクラスメイトも限られている、らしい。

 ほとんどの子がスマホを持っていて、トークアプリを入れている。隣のクラスも、全体連絡はトークグループを作ってそこに発信するようにしているそうだけれど、外村くんは加入していない。一番仲のいい友達にだけ連絡先を伝えていて、彼経由でしか連絡ができないのだと、隣のクラスの子が言っていたのを、思い出した。

 目の前で傷の具合を確かめている外村くんは、絶世の美少年というわけではない。千里子は口が悪く、後日、ようやく顔を拝むことができたときに、「ふーん。大したことなくね?」などと宣った。

 そりゃ、千里子が見ているアニメの美形キャラの方が、キラキラしているだろう。けれど、外村くんはこう、うまく言えないのだけれど、絶妙なバランスなのだ。

 十人いたら、八人は格好いいと言うけれど、あとの二人は千里子と同意見かもしれない。

 廊下ですれ違うときだって、特に意識しているわけじゃない。なのに、ふとした瞬間、目を引く。

 それは誰かを馬鹿にする冗談や、他人への迷惑行為を自慢げに語る友人を見て、沈黙したその一瞬だったりした。あるいは、珍しくひとりで歩いていて、無意識のうちにご機嫌な鼻歌を歌っていることに気づき、「うわ、聞かれてないかな!?」と、焦ったときだったりもした。

 日常と非日常。知り合いに一人か二人くらいいそうな空気感と、唯一無二の存在感。その両方が、外村くんの魅力だと思う。

 だから彼は、めちゃくちゃモテた。アイドルはアイドルでもタマゴ、研修生ということもあって、手に届きそうな気がしてしまう。

 転校してきてから、彼に告白したという女子生徒の噂は、星の数ほど聞いた。決して情報通とはいえない私の耳にすら届くくらいだ。実際は、もっと多くの女子生徒から告白されているのだろう。

 でも、どんなに男子に人気のある女の子であっても、振った。いつだって彼の断り文句は、そう。

「俺はアイドルやから、どんなに好きになってもらっても、恋人にはなれへんっちゅうに……」

 外村くんは、己を律している。告白されて悪い気はしないだろう。実際、お付き合いを選択するアイドルが多いからこそ、あれだけ炎上騒ぎが頻発するのだ。

 顔をしかめて唇に触れ、血が出ていないかを何度も確認する外村くんを見て、私は少しだけ、近づくことにした。

 だって心配だし。それに、私は別に、外村くんに恋なんてしていないから。そう言い聞かせて。

「あの、私、その、傷薬……」
「あん?」

 小さな声に対する返事は、彼にとっては自然なものだ。たった二音でも、関西のイントネーションは、消せないものなのだと知る。しかも、聞き返すために大きな声なものだから、私の身体を竦ませるのに十分だった。

 そんな私の反応を、怪訝な顔で彼は見つめてくる。ぎこちないながらもどうにか身体を動かして、「き、傷薬、持ってるから」と言って、地学準備室の扉に手をかけた。

「あれ? そこって開かずの教室じゃあ」

 現在は地学の授業もなく、専門の講師もいない。特別棟の四階は、ほとんど人のいつかない場所である。

 この学校にも数人いる、不良ぶった男子生徒が、サボろうとと試みたことはあれど、決して開くことのない地学準備室。

 生徒たちはおろか、教師たちも「施錠したまま、誰かが鍵をなくしたのだろう」と考え、放置されていた。本当はいけないのだろうけれど、そんなことに予算を使うのは、もったいない。そもそも使わない場所だし。

 でも実際は、鍵なんてかかっていなかった。扉が歪んでしまっているだけ。そこまで校舎が老朽化しているわけではないが、何かきっかけがあったのだろう。

 引き戸の取っ手を持ち、思い切り力を入れて引っ張る。同時に、扉の右下を強めに蹴る。

 おとなしい風貌の私が、急に乱暴な振る舞いをしたことに、外村くんは目を丸くしている。だがそれもすぐに、扉が開いたことへの驚きへと変化した。

「すっご。なんで?」

 男の子はみんな、秘密基地が好きだ。わかりやすくテンションが上がっている外村くんに、思わず口元が緩んでしまう。

 地学準備室の開け方は、一年のときに、当時三年の先輩が教えてくれたものだった。

 彼もまた、先輩から聞いたとのことで、代々お気に入りの後輩に伝授してから卒業するのだそう。

 私は部活もやっていないし、仲のいい後輩はいないから、その伝統も、申し訳ないことに、私の代で終わってしまう。

 あの先輩が、どうして私を選んだのかは、よくわからない。ある日、突然声をかけられた。

 学校の中で、ひとりになれる場所を探し、人気のない特別棟をふらふらしたり、ぼんやりと廊下の窓から外を眺めたりしている私を見て、手助けする気になったらしい。

 細かい事情を話すには、私のトークスキルが不足していた。ほぼ初対面の男子相手に、私は立ち向かう術などなく、ただひたすら、唇に曖昧な微笑みを浮かべるだけだ。

 中に入った外村くんは、くしゃみをひとつ。定期的に掃除をするようにはしているけれど、少し埃っぽいかもしれない。窓を開けて空気の入れ換えをしたいところだが、残念ながら、外は雨が降っている。

 鼻をすすり上げる外村くんに、ポケットティッシュをすばやく渡す。

「おお……ありがとさん」

 鞄から続けて、救急セットの入っているポーチを取り出す。ばんそうこうはもちろん、傷薬や虫刺されの薬なども入れてある。

 そうだ。鏡も必要だよね。顔だもん。

 あわあわしながら鞄を探る私を見て、外村くんが背後で「ぷっ」と、噴き出した。びくん、と身体が跳ねてしまうのが情けない。

 そんな私の反応を見て、気を悪くしたのだと思ったに違いない。

「ああ、ごめんごめん。なんか、ドラえもんのポケットみたいやな、君のカバン」

 万が一の事態に備えて、鞄には入るだけの便利グッズを詰めている。折りたたみ傘以外にも、携帯のレインコートを持っているし、スマートフォンの充電器は、常に二個持ちだ。

 弟には「心配性にもほどがある」と呆れられることが多いが、その分私の手荷物に助けられたことだって、一度や二度じゃないだろうと論破している。

 外村くんは、受け取った鏡で自分の顔を見ながら、手当てを始めた。思った以上に傷口が大きかったことに衝撃を受け、「うへぇ」と言いながら、薬をちょんちょんと塗る。

「ばんそうこうも、どうぞ」
「ほんま、おおきに!」

 切り離して渡そうとしたところで、大きな声で礼を言われて、思わず取り落とす。本当は私が拾わなきゃいけないのに、彼は何も言わずにしゃがんで拾い、不器用な手つきで唇の傷に貼った。

 真っ赤な傷そのものは隠れても、ばんそうこうは逆に、痛々しさを強調する効果もある。アイドルは顔が命だという。いつまでも残ったりしなければいいけれど……そんな心配をしながら、横目で見守っていると、ふと視線がかち合った。

 真顔だったのは一瞬。外村くんはなぜか、私を見つめると、へにゃりと情けなく眉を下げた。

「あのさ、俺、なんかした?」
「え」
「よく言われんねん。お前はデリカシーをオカンの腹ん中に忘れてきたんかー、って。なんや気づかんうちに傷つけたんかと思て」

 早口の関西弁に、圧倒される。私が沈黙しているのをよそに、「いやでも今日が初対面やんな」「それとも俺が忘れとるだけか」と、ブツブツ呟いている。

 私は慌てて、「ち、ちがうんです!」と、否定した。理由を告げなければ、納得してはもらえないだろう。

 疑問と期待の入り交じった外村くんの目は、ピュアた。顔を見ることができず、こんなことを言ってもいいものかどうか。気分を悪くするんじゃないか。迷いつつも口にする。

「その、関西弁、怖くて」
「怖い?」

 小学校のときの担任が、関西出身だった。いつも青いジャージの上下を身につけていて、声が馬鹿みたいに大きい。機嫌のいいときは、自分で飛ばした冗談にガハハと笑い、そうでないときは些細な失敗や忘れ物なんかを、ありえないくらい怒る。さすがに手が出ることはなかったが。

 私自身はおとなしい子どもだったから、直接何かがあったわけではない。それでも、帰りの会のとき、とばっちりで怒鳴り散らされることは、幾度となくあった。

「それに」

 ちらっと外村くんを窺う。こんなことまで言っていいのか、判断がつかない。

「それに?」

 話を促されて、私はどもりながらも、どうにか話を最後まで続けた。

「か、関西の人って、関西弁に、すごく、誇りを持っているっていうか」

 くだんの教師も、関西にいたのは幼少期だけだったそうだ。中学からはずっと東京にいたというのに、関西弁のままだった。生まれ育ちが大阪であることをずっと主張し続ける。それが唯一の誇りだとでもいうように。

 あの先生のせいで、私はしばらくの間、バラエティ番組が一切見られなかった。それこそお笑い芸人は、大阪やその近県の出身者が多い。しかも、漫才ではけっこう激しく相方の頭をどつく。暴力的なツッコミは、面白いどころか、恐怖だった。

 これは今も尾を引いている。弟がお笑い番組を見ようとテレビのチャンネルを変えた瞬間、食事中でもなければ、部屋に引っ込むようにしている。

 私は俯いて、外村くんの反応を待つ。彼もまた、生粋の関西人。引っ越してきても、自分自身の言葉は決して揺らがない。そんな人の前で、私は関西弁をディスってしまった。

 小さくこぼれた溜息に、私はまた、大げさに肩を揺らしてびくついてしまう。

「ああ、ちゃうちゃう。そういう人も、おるよな。うん」

 友達ですら、「関西弁が怖い」という私の気持ちは理解してくれない。
面白くてかっこいい。方言男子っていいよね。

 そんな評価をする子ばかりだったから、当の大阪出身者が同意するなんて、意外だった。

 顔を上げた私に、外村くんはにっこりと笑い、喉を押さえて、なぜか発声練習を始めた。咳払いをした後で、

「そういう人の前では、できる限り標準語? 東京弁? で喋るようにしたいよね!」

 瞬きとともに、彼をじっと見つめてしまう。不自然な響きは、間違いなく無理をしている。唇がぷるぷると震え、どちらからともなく、声を上げて笑う。

 外村くんの笑い声は、地声よりも幾分高かった。低いところから高くなっていくのが特徴的で、きっと、目隠しをした状態であっても、彼だとわかるに違いない。

「ふふ……大丈夫。外村くんが優しいのは、わかったから、関西弁でも、たぶん」
「ほんま?」

 先ほどよりも柔らかなイントネーションに、外村くんの気遣いを感じた。なんだか頬が緩む。

 そこで初めて、私は彼と面と向かって話ができていることに、気がついた。アイドル相手に、なんてことだ。

 大勢と知り合うことよりも、気心の知れた少人数の友人たちと一緒にいる方が心地よい私は、人見知りの気が多少ある。

 自分の性格を思い出して、私は再び、だんまりになってしまう。外村くんも空気を読んで、話しかけてこないから、雨が窓を叩く音だけが響く。

 何か話をした方がいいのかな。あれ、そういえば私、名前も名乗ってない。

「あ、あの!」

 と、私が口を開いたのと同時だった。

『二年A組、外村大地。二年A組、外村大地。至急教室に戻りなさい』

 くぐもった校内放送の音声が流れた。どの先生だかわからないけれど、男の人の声で、しかも不明瞭であっても、怒っていることだけは、はっきりと感じ取ることのできる声だった。

 外村くんは青くなり、頭を掻きむしった。

「せやった! 俺今日、補習で来とってん!」

 デビュー前とはいえ、仕事の関係で遅刻や早退がどうしても多い彼は、出席日数がギリギリだったり、テストの点数も赤点スレスレだったりする。

 すでに仕事を請け負っている外村くんに、ノウハウがないながらも、先生たちは気を回して、補習日程を彼のためだけに、わざわざ組んでくれている。

 背中に「行きたくない」という感情を背負った状態で、外村くんはとぼとぼと出入り口に向かった。中からは簡単に扉が開く。一歩廊下に踏み出そうとした彼は、ふと何かを思い出したように、振り返って笑った。

「ほんまありがとう。ゆりのちゃん?」
「!?」

 唐突に下の名前で呼ばれた。同性ならまだしも、身内以外の異性にそうやって呼ばれるのは、小学校低学年以来だ。驚き固まった私をよそに、外村くんは廊下を走って、自分の教室へと帰っていく。

 どうして名前、知ってるの?

 しばらく呆然としていた私が、「ゆりの」というネーム入りのチャームの存在を思い出したのは、帰宅しようと鞄を持ち上げた、そのときだった。

 足に力が入らなくなって、結局家に帰ることができたのは、しばらく経ってからだった。


【各話リンク】

※更新次第随時追加されます


#創作大賞2023 #恋愛小説部門


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