「一番星はポラリス」第15話
卒業式も最後のホームルームも終わり、あとは帰宅するだけ。
なのに教室には、まだほとんど全員が残っていた。本命の大学に合格した子もいれば、浪人を決めた子もいるが、ギスギスするわけでもなく、別れを惜しんでいる。
ちょうど一年前は、遠巻きにされていたが、私にも声をかけてくれる人が多くて、この一年での変化を思う。
卒業証書を小脇に抱えたまま、私は教室をぐるりと見回す。
笑ったり泣いたり、抱き合ったりしているのは女子が多い。男子はもうちょっとドライで、背中を叩き合ったり小突き合ったり。
中心にいるのは、やっぱり外村くんだった。今日は事務所も気をきかせ、オフになっているらしい。来月下旬には、いよいよメジャーデビューする彼と、こうやって気安く話すことができるのも最後だ。
女子の中には、ダメで元々、最初で最後だし! という気持ちで、「連絡先交換しない?」と声をかける人もいた。けれど外村くんは、毅然とした態度でそれを断る。
「これまで以上に、スキャンダルとか気をつけなきゃならんから、ごめん」
彼女たちはあっさりと諦める。彼が本気でアイドルを目指しているのは、みんな知っていたから。
「そんなこと言って、女優さんとかとすーぐ付き合って写真撮られたりしたら、許さないんだからね!」
「お、おお。肝に銘じる」
胸に手を当てて目を閉じる、という神に宣誓するような大げさなジェスチャーで約束する外村くんに、教室中がゲラゲラと笑う。
私も笑いながら、チクリとする胸の痛みをごまかす。
女子と個人的なやりとりをしない外村くんと、内緒で連絡先を交換していた罪悪感。でも、それも今日で終わりだ。
朝起きてすぐに、「卒業式が終わったあと、あの場所で待ってます」と送信した。既読になったのを確認してから、ブロックした。きっと外村くんはそれで察してくれただろう。
あとはタイミングを見て、待ち合わせ場所で落ち合うだけ。目立たない私の方はいいけれど、外村くんは、人の輪からうまく抜け出すことができるだろうか……。
「由梨乃!」
「わっ」
不意に後ろから体当たりされて、バランスを崩す。前に机があってよかった。手をついて身体を支え、転倒はどうにか防いだ。
もう、と肩を怒らせて振り向けば、かれん。部活に入っていたわけでもないのに、後輩たちに囲まれていた彼女は、卒業式でも女王だった。
「ほんとに大阪行っちゃうのね……」
「うん。もう家も見つけてあるからね」
受験の結果は全戦全勝とはいかなかった。交換条件として父に受験を指示された、国内トップの私立大学は、もちろん全力で挑んだけれど、不合格だった。そしてそこは、かれんが四月から通う大学だった。
受験するよ、という話をしていたので、うまくいけばキャンパスライフも一緒だと期待していたかれんは、当の本人よりも、私の不合格の報を嘆いた。
ぎゅっとハグしてくるかれんの背を抱き返して、「大阪、遊びに来てね。お泊り会しよう」と約束する。
ぐす、と鼻を鳴らして身体を離したかれんは、
「……実は来月、大阪で別の界隈のアイドルのコンサートがあってね」
と、言った。調子がいいなあ。
彼女のペースだと、最低でも月に一回は私の家に泊まりにきそうだった。そんなに泣く必要ないじゃない、と言えば、「それとこれとは違う!」と、またぴーぴーと喚く。
かれんを宥めていると、「由梨乃ー」と、また私を呼ぶ声が外からする。隣のクラスはすでに三々五々、解散してしまっているようで、千里子が顔を出した。
かれんはハッとした表情になり、私から離れた。すまし顔をしているのは、他人の前では格好つけたいのだろう。
結局、ふたりは仲良くなれなかったな。オタク同士なのに、いや、だからこそか、相容れないらしい。
千里子は飄々としているが、かれんの方が無駄に意識している感じ。高校生活、唯一の心残りと言ってもいいかもしれない。
「由梨乃。あたしそろそろ帰るけど、そっちは?」
今日の夜は、秋月家と合同で卒業祝いをする予定になっている。一緒に帰るのが筋だが、私には大切な用事がある。
「ごめん。先帰ってて。用があるから」
彼女は少し考えて頷くと、私の肩を叩いた。「ま、頑張りなさい。骨は拾ってあげる」と、励ます。隣のかれんはイマイチわかっていないらしく、頭の上にクエスチョンマークが浮かんでいる顔で、私と千里子を交互に見る。
「はい、行ってらっしゃい。またあとで」
私は卒業証書と鞄を手に、「うん」と、教室を出た。
授業もない日だというのに、鞄はごとごとと音を立てる。ドラえもんの四次元ポケットは、今日も健在だ。
私は強く、最後のキックを地学準備室の扉に決める。
後輩と付き合いのない私は、結局、外村くん以外にこの部屋の開け方を教えることがなかった。
扉の隅は、歴代の生徒たちによって何度も蹴られたせいで、極端に黒ずんでいる。卒業後、本当に開かずの教室になってしまったとしても、この痕跡をヒントに、誰かがまた開放するだろう。
地学準備室の中は、特徴的な匂いが漂っている。埃っぽいけれど、嫌いじゃない。もう二度と嗅ぐことのない空気を、胸いっぱいに吸い込んだ。
椅子を引いて座り、鞄の中身を取り出した。鏡と、ポーチの奥底にしまってある、私のお守り。これのおかげで受験は大成功だった。
これまでは眺めるだけだった口紅を、今日、初めて自分の唇に塗る。
リップクリームを塗るのとは違う。はみ出たら面白いことになってしまう。外村くんは大笑いしてくれるだろうけれど、そんなムードのない状態は、私が嫌だ。
彼にリップを塗ったときと同じくらい、いや、それ以上に震える。慎重に、慎重に。鏡を見ながら、馬鹿みたいに丁寧に。
最後に上下唇を合わせてから、私は鏡の中の自分に、にっこりと微笑みかけた。
かれんみたいな美少女ではない。平凡な私の顔の一部だけ、コーラルピンクが艶めいている。
外村くんが、私に似合うと選んでくれた色だ。たぶん人生で、今が一番きれいなはず。
この口紅は、勇気をくれる。
結末のわかっている勝負に挑む私を励まして、そして終わった後も、笑顔を取り戻せるように。
私は待った。何分も。一方的に押しつけた約束だったが、それでも外村くんが、無視して勝手に帰る人じゃないということを、信じている。
別れを惜しむ人たちの声は、遠い。聞くとはなしに耳を傾けていた私の意識を引き戻したのは、小さな、けれど、はっきりと聞こえるノック音だった。
「はい」
にわかに緊張する。扉を蹴る音がして、同時に開いた。
「田川さん。ごめん。遅なって」
首を横に振った。外村くんは人気者だから、大変だっただろう。式のためにきちんとしていたはずの髪の毛が乱れていることに気づき、私は彼に近づく。
寝ぐせ直し持ってへん?
そんな一言から、高校三年生の一年間は、始まったっけ。
私は彼の髪の毛に触れた。直そうと何度押さえつけても、決して元には戻らない。頑固な毛に、私は笑った。外村くんもまた、されるがままに笑っている。きっと、同じことを思い出している。
地学準備室に、ふたりきり。一年前、お互いにはっきりと存在を認識したあの日と同じだ。
関係が始まったこの場所で、私は自分の恋心に、決着をつける。
これからアイドルとして、いろんな人の前に立ち続ける外村くんのために、私たちはここに、自分の気持ちを置いていかなければならない。
彼に片思いをする少女ではなく、ただのファンになるのだ。ライトの波に埋没し、個人を識別できなくなるように。
それが、私が彼のためにできる、唯一のこと。
しばらく黙って見つめ合っていた。沈黙を破ったのは、外村くんだった。
「大学、大阪行くんやな。言うてくれたらよかったのに」
「うん……あなたの生まれ育った街で、実際に生活してみたくなったの」
好意を隠さない私の言葉に、外村くんは頬をほんのりと染めて「そっか」と、短く応じた。照れ隠しに頭を掻き、ただでさえ乱れた髪が、寝起きみたいにぐちゃぐちゃになる。
彼はポケットから紙片を取り出した。
「これ、うちの墓の場所。あっちにあるから、落ち着いたら訪ねてやってくれる?」
「うん。絶対に行く」
外村くんの両親は、この四月に大阪に戻る。東京に来たのは、娘の病気のためだった。美空さん亡き今、こちらにいる必要はない。彼女が眠るのも、先祖代々の墓のある、大阪だ。
お盆やお彼岸、命日付近の墓参は遠慮しよう。まかり間違って、外村くんたち家族と遭遇することのないように。
彼からもらった紙を、丁寧にたたみ直してポケットに入れた。そしてゆっくりと彼に向き直る。
外村くんは、これから私が何を言いたいのか、気づいている。
「外村くん、ありがとう。あなたのおかげで私、やりたいことがたくさん見つかったんだ」
大学では、学校祭の実行委員をやろうと思っていることを話した。文化祭でのクラスメイトの笑顔を忘れられず、もっと多くの人たちと繋がり、楽しみを生み出したいと思った。
それだけじゃなくて、これは外村くんには内緒の夢だけれど、大学卒業後は、何らかのイベント運営に関わる仕事をしたいと思っている。具体的な職種はまだわからないけれど、できれば海外で。
今後、外村くんたちのグループが有名になって、海外でのイベントやコンサートをするとなったときに、私が裏で支えられるようになりたい。
ささやかだけど壮大な夢を秘め、私はもうすぐ、大阪へと旅立つ。
外村くんは私の決意に満ちた目を、優しく見つめ返す。
「全部、田川さんが頑張ったからや。俺はなんもしてへんし、つーか、むしろ迷惑かけっぱなしやったやん。お礼言うんは、むしろ俺の方や」
ありがとうの応酬になりそうな雰囲気を察して、私は彼の唇に人差し指を当てて黙らせた。大胆で突然の行動に、外村くんは目を白黒させている。
私はそのままで聞いてほしいと願い、微笑んだ。
「あのね、最後だから言わせてほしいんだ」
私とあなたが特別だったのは、高校生活の一年間だけ。もっと言うなら、この部屋にいたときだけ。言葉には一度として出したことはなかったけれど、お互いに気づいていた。わかりあっていた。
ねぇ、そうでしょう?
最大の勇気を振り絞って、私は叫んだ。
「めっちゃ、好っきゃねん!」
それは、外村くんがドラマで演じた青年が、泣いているヒロインに対して投げかけたのと、同じセリフ。
残念ながら彼は振られて、ヒーローとヒロインがくっつく布石になってしまうのだけれど、ストレートな告白は、視聴者には好評で、「どうしてこいつとくっつかないんだ!?」と言わしめるほどだった。
とうとう言った。言ってしまった。顔が熱い。
言わなければ、友達という思い出だけが残った。しかし、私は決めたのだ。卒業後は友達ですらいられなくなるのだから、と。
ぎゅっと目を閉じて沙汰を待つ。答えはわかっている。どんなに彼が私を憎からず想ってくれていたとしても、それを認めることはない。これまでに振ってきた数多の女の子と同じように、
「ごめん。俺はアイドルやから」
と。
けれど、身体が覆いかぶさってきた。頭を抱えられ、外村くんの顔は見えない。男の子の肉体の熱さや重さ、何よりも力強さを感じて固まる私に、彼は静かに言った。
「俺も」
たった一言。けれど胸に染み渡る肯定の返事に、私はおずおずと、彼の背に腕を回した。恋人同士の熱い抱擁のようで、その実は違うのだと理解していた。
これは、お別れのハグ。
「俺も、好きや。俺のために、誰かのために一生懸命になれる、優しい田川さんのことが、好きや。大好きなんや」
言葉とともに、一層強く抱きしめられたあとで、外村くんは身体を離した。目元が赤くなって、泣く一歩手前だ。そうだった。彼は意外と、涙もろいのだった。
思わずクスリと微笑んだ私を、彼はどう捉えたのだろう。一粒きれいに涙を流すと、「せやけど、ごめん」と言った。
私は首を横に振る。
わかっている。
最初から叶わぬとわかっていても、止められないのが恋だ。そう知ることができたのは、あなたのおかげ。
辛いのも、幸せなのも、全部全部、あなたのことを想うからこそ、生じるのだ。
外村くんが、そっと私の唇をなぞる。目尻に少しだけ皺を寄せて、くしゃっと笑った。
「よく似合(にお)うとるよ」
淡い紅の色をさした唇に、彼の唇が重なる。私は慌てて目を閉じる。啄む口先。
口が離れて目を開けたときには、外村くんの唇に色が移っていた。女の子とキスしたのがバレバレで、私はそっと、彼の口を指で拭った。
「ダメだよ。跡、残っちゃう」
「……ああ」
そう言いつつも、彼は私を離したがらなかった。もう一度キスをされる。
これから先、どんな恋をしても、誰と付き合ったとしても、私はこの初めてのキスを、忘れないだろう。
そして外村くんも、私とのキスを忘れないようにと、心の中で呪いをかける。
ドラマや映画で、そしてプライベートで、キスをする度に、私の唇を思い出すように。
最初で最後のキスを終え、外村くんはゆっくりとかぶりを振った。一瞬だけの恋人。想いは通じ合っていても、決して叶えてはならない恋を、私たちはこの部屋に置いて卒業するのだ。
外村くんは、笑う。誰よりもきれいな顔で。カメラの前にいるときよりも、純粋な笑顔で、私を振る。
「ごめん。俺、アイドルやから」
「うん。わかってる……私はずっと、外村大地のファンでいるから。だか
ら」
自分の選んだ道を。まっすぐに、脇目も振らずに、突き進んでいってください。
私の励ましに大きく頷いた彼は、そのまま無言で、地学準備室を出て行った。
しばらく立ち尽くした私は、彼の足音が完全に遠ざかるのを聞いてから、わあ、と声を上げて泣き、その場にうずくまった。
さようなら。私の好きな、あなた。私を好きになってくれた、あなた。
想いはこの涙に溶かして、全部忘れるから。
私の永遠のアイドルでいてください。いつかこの傷が癒えるまででいい。他の誰も愛さないでいて。ああ、ひどいことを考えているのはわかっている。でも、お願い。
泣きながらも、私は顔を上げた。
いつかまた、彼の前に立つことができる日まで、私は歩かなければならない。
新たな決意とともに立ち上がり、私は地学準備室を出る。
一度も振り返ることはなく、前へ、前へ、前へ――。
いただいたサポートで自分の知識や感性を磨くべく、他の方のnoteを購入したり、本を読んだりいろんな体験をしたいです。食べ物には使わないことをここに宣言します。