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言葉を使わず世界を見る

素晴らしいドキュメンタリーに出会う。子どもの自死という重いテーマを題材にした絵本が出来るまで。言葉を紡ぐのは、かの有名な谷川俊太郎。合田里美さんという若手の方が絵を担当する。


この絵本ができるまでのプロセスに、とてつもない深いメッセージを受け取った。それは谷川俊太郎の言う通り、「意味偏重社会」である現代に、意味を越えて、言葉を使わずに、世界を見よう!という素晴らしき真理のことだ。

タモリは、言葉を憎み、意味を解体することを芸までに昇華した。そう、「ハナモゲラ」である。タモリが言葉では到達し得ない境地、真理に触れて、言葉や意味はダメだ!と悟る小噺がとても良かった。長くはなるが全て引用しようと思う。

セイゴオー今日、どうしても知りたいのは、なぜ、コトバに挑戦したかという一点に尽きるんだな。
タモリーかんたんに言えば、理由はコトバに苦しめられたということでしょう。それと、コトバがあるから、よくものが見えないということがある。文化というのはコトバでしょ。文字というよりコトバです。ものを知るには、コトバしかないということを何とか打破せんといかんと使命感に燃えましてね。
セイゴオー苦しめられた経験とは?
タモリーものを知ろうとして、コトバを使うと、一向に知りえなくて、ますます遠くなったりする。それでおかしな方向へ行っちゃう。おかしいなと思いながら行くと、そこにシュールレアリスムなんかあって、落ちこんだりする。何かものを見て、コトバにしたときは、もう知りたいものから離れている。
セイゴオーそうね。最初にシンボル化が起こっていて、言語にするときは行きすぎか、わきに寄りすぎてしまってピシャといかない。ぐるぐる廻る感じです。ヴィトゲンシュタインがそれを「コトバにはぼけたふちがある」と言った。
タモリー純粋な意識というものがあるかどうかは知らないけど、まったく余計なものをはらって、じっと坐っているような状態があるとして、フッと窓の外を見ると木の葉が揺れる。風が吹くから揺れるんだけど、それがえらく不思議でもあり、こわくもあり、ありがたいってなことも言えるような瞬間がありますね。それを「不思議」と言ったときには、もう離れてしまっている感じがするんですよ。ほんとうは、まったく余計なもののない、コトバのない意識になりたいというのがボクにある。ところがどうしても意識のあるコトバがどんどん入ってきてしまう。それに腹が立った時期があるんスね。そのあと、コトバをどうするかというと崩すしかない。笑いものにして遊ぶということでこうなってきた。
セイゴオーなるほどねェ。遊ばせていくしかない。ボクは学生時代に自分の性根を直そうかなと思って坐ったことがある。たんなる坐禅だったらいいんですが、タンカ詰めというのがあって、段の所に指を置いて、禅師がいいと言うまで待っている行があるんです。頭にガンガン血が昇る。上框のような所で、「おまえ、上がれる気か」と言われて、そのまま四、五時間も同じ姿勢でいる。するも、頭が谷岡ヤスジの漫画のように、ギンギンにふくらんでる感じが自分でわかる。唇なんか肥大して、ひどい顔になってるだろうと想像できる。そのときに、これを乗りこえなきゃという思いが出てくる。このとき一番、困るのはコトバです。つまり、つまらないコトバがゆっくり入ってくると耐えられない。やはりひじょうに速いスピードになるべきであると気づいた。ところが、速く出てこない。たとえば、オレは昨日、何をやったのかをおもいかえしてみると、なんと五分で終わってしまう。しゃべるなら時間もかかりますが、頭の中でグゥ…とやるとバババッと速いわけです。そんなんじゃ時間がたたないから、もっと速くガンガンやらなくちゃいけない。知ってる女の名前を全部あげるとか、育った街の名前をあげるとかゴンゴンやったわけです。もっと出して先に行かなければ捨てられないともがいていた。
そのうちに、リンゴ屋が来たんです。その声を聴いたとたんに、ピタッと自分の内言語の調子が合った。「リンゴ〜、リンゴ〜、青森のリンゴ〜」と節がついている。それが過ぎて消え行った間は、きれいにその時間どおりにボクの時間が進む。行ってしまったあとも、半跏跌坐のまま「青森のリンゴはおいしいよ〜」というリズムがずっと入っていって、これだったらなんとかなるとおもった。けっきょくその行は、いつ顔をあげてもいいんですね。それをわかればいいということなんだ。ところが、やってみると上げられない。いま上げるとバカにされるんじゃないか、悟ってないとおもわれるとかね。それでフラフラになりながら頭があがらない。しかたないから目だけを開けようと、パッとわきを見たら向こうに雑草がまぶしいくらいにはえている。それを見たら、バーっと泣き始めてしまった。
 こんなものに感動したことないのにね。青森のリンゴの声のリフレーンを聴くこととか、雑草の光などというものに感動できるとおもわなかった。それ以来、コトバをいま使われるままにしておいてはまずいとおもった。だれもが入りやすいものがあるのではないか、遊べるものがあるのではないか、こだわりなくコトバが使えるものがあるとおもった。ほかのものだとダメなんです。自分を苦しめるコトバと格闘しなくちゃいかん。遊べなくちゃいかん。それで『遊』というタイトルにしたり、コトバを使いながらそこをやっていくという方にきたというわけですね。
タモリーさっきのボクの体験は浪人のときだった。はなれの部屋を使っていて、庭と石垣が両端にある。そこでジーッとしていて、この世に人間が出てきたとき、周りのものをどう見るのか、一種の坐禅のようなことをしていた。ある一瞬に、フッとそういうことになった。偉そうに言うと「無」とかかな。すると自分の手がすごく不思議だし、窓の方を見ると、ネズミモチの木がチラッと揺れた。それは感動的ですね。
セイゴオー一生に何回かありますね。
タモリーもう、鮮烈に憶えています。
セイゴオーそうとうに鮮やかですね。ボクもフレームに切りとられた雑草は、どんな絵よりも、どんなビデオよりも高感度にキラキラとしていた。
タモリーそう、そう、そうです。そのときからコトバとは余計なものだとおもった。十九歳くらいのときだった。

遊(ゆう) プラネタリー・ブックス16 愛の傾向と対策(工作舎)



私の大好きな中沢新一は兼ねてより探求されているメインテーマであるが、最新の論考でも「精神の考古学」(月刊新潮にて連載中)にて、人類がコトバを知る前の精神を探求されており、象徴からコトバ、カミが発生して農業によって、富の蓄積、増幅、増殖していく社会を有史と言うならば、それ以前の歴史では消去されてしまっている無史の世界、古代の精神というものが、どれだけ素晴らしい精神世界だったのかということを明らかにしようとする。

「レンマ学」(講談社)では、南方熊楠やフロイト、ユングなども導き手として、コトバのロゴスの世界とは違う、レンマの世界、分けずに丸ごとガバッと把握するレンマ的知性について語られていた。仏教ともリンクしてきており、坐禅、瞑想によって、コトバの世界から離れて、全てが連関して生成変化し合う、世界のリアルを見事に表している。

話をもどそう。谷川俊太郎がコトバを越えて伝えてたい世界のリアルを、絵本をつくる制作過程で見事に表してくれている。はじめに、イラストレーターの合田さんは、コトバに引っ張られた絵を描いていた。谷川俊太郎との対話の中で、象徴的なスノードームを使ったり、コトバから離れるように指示されたり、指導を受けながら、見事にコトバを越えた世界のリアルに肉薄していく様子が素晴らしかった。

コトバを通して考え、意味を求め過ぎる「意味偏重社会」である現代は、古代の循環型の社会をベースとする、豊かな精神からはかけ離れた、とても生きづらい世の中であると思っている。仕事をしていても、上司はプレッシャーという名の意味の重さを載せてきて、ともすると意味の重さに押しつぶされるようなことがある。

コトバから離れて、世界のリアルを知る得れば、なんて素晴らしいものだろうと、思うに違いない。道元が悟った、山川草木悉皆成仏とは、自然や世界と渾然一体となる世界観であり、今日のテーマ、言葉を離れて肉薄する世界のリアルにシンクロするのだ。

谷川俊太郎の絵本には、死んでしまったボクを通して、宇宙規模の存在に触れるなにかを感じとる。
死を意識することによって、生きている自分はなにを感じるだろうか。ボクの持つスノードームには、宇宙が描かれていた。ボクは、宇宙と渾然一体となって、存在している。死んでしまった世界には空のスノードームが置かれていた。死を通して見つめる生は、どれだけ輝いていることか…!この世から消えていなくなったボクを通して、生きている読者は、何を思う?素晴らしい絵本の誕生に立ち会えて、幸せだ。

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