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物を買わずに豊かに生きる 番外編1

コロナ禍がひと段落して、会社の飲み会というものに行った。そこで思い知ったのは努力して生きている人の異様な空回りと虚しさだった。
ある先輩とサシで二次会に連れていってもらい、営業とは喋ることだから、こういうBARで俺は喋りを鍛えたんだ!と彼は話していた。もともと、シャイで口下手だった彼は、努力してたくさん話せるようになった。だから営業たるもの、喋りを鍛えるのは日々の鍛錬として絶対にやらなければいけない!と言っていた。
彼と行く飲み会では、ほとんど彼が話している。彼なりのBARで研鑽したトーク力で場を盛り上げている。だが終始彼が盛り上げようと話しているのに、周りは聴き疲れてしまったりすることもしばしば。さんまかタモリかで言ったらさんまタイプなのだが、出来損ないのさんまと言ったら叱られるだろうか。

努力する人にありがちな間違いを終始おこしている。ただ興味深い点もあった。彼が努力して場を盛り上げようと話をしている中で、偶に場の笑いとして切れ目が入る時があって、そのときに一瞬ぎこちなさが溶けて緩む時がある。緊張と緩和だ。また彼は下ネタが大好きで、そのような時の緩和作用も彼の持ち味だと感じる。ただ、努力している人は生きていることが辛い。がんばって、がんばって、何者かになろうとしているのだが、本人以外誰も臨んでいないんではないか?と思えるくらい空回りしている。本人自体もがんばっているのがつらいのだ。そのように人生にいっぱい重荷を詰め込んだ人に、私はどうやって接すれば良いのだろうか?彼にとっての努力の美学があるし哲学がある。でも生きることがとても辛いのであろう。

自分を振り返ってみると。若き日に同じように頑張って空回りして精神の病になったことを思い出す。あるとき河合隼雄、中沢新一に出会い、仏教と出会い。人というのはあるがままで素晴らしいものを持っていることを実感した。自然体という言葉で片付けると陳腐かもしれないが、自然でいることでいいんだ。そして自然になるために瞑想したりなど実践をした。

ただそのようにして生きていることが楽になった私が、生きていることが苦しい人、それでいて頑張って生きている人をあたかも上から見るように小馬鹿にした風でいることは自分の美学には反する。だから時として努力している人にありがちな相手への努力の強要というのには断固反論を挟みながら、彼の生きるということにはレスペクトの念を持つし伝えもする。ただ万が一、彼等にとっての実存の危機が訪れたときは、積極的に助け舟を出したいとさえ思う。

私は思う。生きるというのはダンスだと。音楽にノッて踊ること。これが生きることだと。それ以外なにもいらないとさえ思う。楽しいことをすればいいと心から思う。生きることが苦行という先輩が苦労してたどり着いたトーク力、彼が編み出した努力の結晶に一瞬裂け目が出来て周りがドッと笑う。彼はその瞬間に踊っているのだろう。生きていることがつらいけれど、その裂け目が出来て場が渾然一体となる瞬間に、彼の生きるが凝縮している。

そんな一生懸命生きる彼の実存を私はレスペクトする。

さあて、そんなことも考えながら私は大好きな大好きな中沢新一の話をしたい。中沢新一は資本主義というものの欠点、資本主義だけではない、人間というものが生きて何万年もの歴史の中で、ほんの短い期間が西洋的には有史と言われているが、この王権ができて、富というものが蓄えられ、権力のあるものが富を蓄積するという構造が出来てからの人間というものの劣化というものを痛烈に批判している。利益の増殖、あらゆるものが増殖して、成長していくミトロジーの中にみんなが生きている。象徴ー増殖の世界、それは苦難の歴史ともいえるのではないだろうか。成長のミトロジーを持つ人がコツコツと積み上げた利潤は時の無常さで一瞬にも紙屑となる。諸行無常。だから0ポイントが必要なのだ。蓄積するのではない、燃やし尽くすのだ。何もなくても何もかもある。百姓というものは本来そういうものだったのだろう。何もないところから生活をクリエイトしていく。衣食住すべてをクリエイトできる知性。彼等は0ポイントにいても、何もかもできる。だから何も不安ではない。仏教、農業(業を抜きにして「農」とだけ言うのが正しいかも)の一番大事なエッセンスを全て実現したような生きるがこれから資本主義の底が抜けた時、象徴ー増殖の世界の底が抜けた時に、必要になる知性なのだ。

中沢新一の明治大学での十年前の講義を聴いて、深く共鳴する。フランスというのは大半が農民の国でそこに少数の支配者階級の貴族がのっかって国ができたらしい。だから農の国だと。今フランスで起きているフランス革命2.0にたいへん共鳴している。さすが、農の国だと。だから資本主義で起きている著しい非対称に多くの「農」に関わる国民が気づいていて、治世者に対して本当の革命を起こそうとしている。なんて素晴らしいのだろう。もしかしてフランス初で資本主義の底が抜けていくのかもしれない。それは長く続いた、象徴ー増殖のミトロジーの瓦解の始まりのようだと感じているし、中沢新一もきっとそう思っているだろうと感じている。

ここで少し悲観的なことを言わざるを得ない。象徴ー増殖のミトロジーは私たちの社会、精神の深い深いところまで到達しているので、それが瓦解するときに大きな大きな痛みを伴う。それはどんな形で現れてくるかはわからないが、戦争という形をとるかもしれないし、地球のバランスを崩したしっぺ返しとしての天変地異だったり、ドルなどの通貨の崩壊という形をとるかもしれない。そこで多くの人はもしかしたら生死をかけた形になる可能性が高い。

ただその大きな変化を生き残った暁には、宗教というものが語った「楽園」のようなユートピアが来ることを私は確信している。生きることが苦行なんかではなく、本当に生きるというものが楽しい世界がくるはずだ。それは皮肉なことに、ヘーゲルが有史といった西洋的な歴史の始まる前、吉本隆明がアフリカ的段階といったような時期の再来であって、テクノロジーというものとは無縁のような時代でもあるのだが、あわよくばテクノロジーというものが象徴ー増殖のミトロジーのもとにシンギュラリティを迎えるという今の陳腐な予測とは真逆の、象徴ー増殖の底を抜けた精神にテクノロジーというものがいかに接続しうるかということを考えたい。先日、量子コンピューターが0と1を両方もっているということを解説している番組を見た。そのような仏教で言うと無分別智というもの、ロゴスとレンマの、レンマ的要素を含んだテクノロジーというものが、どのように私たちの新しい時代と融合するのか。そんな桃源郷を夢想しながら、今にも資本主義が瓦解しそうな、フランスのTwitterを見てビビットに感じた夜に長いつぶやきを残します。

ご清聴ありがとうございました。

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