科学が進歩しても、"神"はいなくならない
意図的ではありませんが、これが新年初の長文記事になります。
フォローしている方のnoteをなんとなく巡っていて、以下の記事を読みました。
私はこのホーキング博士の発言に思うところがあったので、少し調べてみました。
一般相対性理論と関わる分野で理論的研究を前進させ、1963年にブラックホールの特異点定理を発表し世界的に名を知られた。1971年には「宇宙創成直後に小さなブラックホールが多数発生する」とする理論を提唱、1974年には「ブラックホールは素粒子を放出することによってその勢力を弱め、やがて爆発により消滅する」とする理論(ホーキング放射)を発表、量子宇宙論という分野を形作ることになった。現代宇宙論に多大な影響を与えた人物である。(Wikipediaより)
このホーキング博士という人物は、「現代宇宙論に多大な影響を与えた人物である」とのことなので、革新的な研究をされてきた方なのでしょうし、おそらく真実に近い場所にいるのだと思います。
しかしどうにも「神を持ち出す必要はない」という点に引っかかりました。サイエンスライターとしても優秀な方だったそうなので、もしかするとポジショントークかもしれません。
しかし、考え出すと止まらないのが厄介な性で。
そこから科学と神、もとい理屈が明らかでないものに神を用いることと、科学ですべて解明するということについて色々と思考が飛躍してしまいました。
せっかくなので、そのことをまとめておきたいと思います。
以下に私の考えを述べますが、博士の研究や、なさじさんの記事を批判する全く意図はありません。私はホーキング博士についてはよく知らないので、見当違いな考え、揚げ足取りのようになっているような気がしますが、それでも興味のある方はお読みいただければ幸いです。
科学の進歩は"神"を殺せるのか
理屈が明らかでないものに神を用いるのは、昔から行われてきたことですよね。
宇宙の誕生だけでなく、たとえば自然災害などを祟りと言ったり、豊作を神の恵みだと言うなど、目に見えないものに信仰の対象を見出すことは日本でもよく行われてきました。
そして近代では、かつて祟りだ恵みだと畏れられた天候や災害は、そのメカニズムがほとんど解明され、予測や対策が可能です。また、先進国では、多少の不作はあれど大規模な飢饉や疫病など起こるべくもない(むしろ飽食なほど)。
科学の進歩によって助かる命が増えたことは喜ばしいことです。祈るしかなかった無力な時代は終わったのですから。
では自身の力で生きていけるようになった我々は、もう目に見えないものの力を必要とはしなくなったのでしょうか。豊作の祈り、あるいは健康でいたい、助かりたいという祈りは、必要ないのでしょうか。
私自身、科学の進歩は素晴らしいことだと思います。しかし、私は"神"も否定しません。
ここで言う"神"とは「一神教における絶対的超越者」ではなく「目に見えない力としての神」です。祈りとか信仰とか、日本でいう八百万の神とか心霊現象とか、自然とか、そういうものすべてひっくるめた大雑把なニュアンスで語っています。特定の宗教を推奨する意図はありません。
科学の進歩のおかげで多くの人の命が助かるようになった反面、人々の心がそういった「目に見えないもの」から離れたことで信仰が薄れ、神霊や精霊の力が弱まっている、という事も大いにありうるでしょう。
近代化が進んだことによる弊害も、そのように説明できるかもしれません。
科学の進歩こそが正しく最新で、信仰は野蛮で旧い考えなのか。
はたまた科学の進歩は人類のエゴで、信仰や自然回帰こそが正しいのか。
どちらも良し悪しがあり、少なくとも私は個人レベルでは科学の解明と信仰は両立できると思っています。理由は後述します。
科学と宗教の対立は主に政治のせい
科学と信仰の両立の前に、私が思う科学と信仰の関係性を明らかにしたいと思います。
ここでは先ほどとは打って変わり、"神"の定義を「一神教の神」と定義します。
ホーキング博士の発言における"神"には少なくともその側面、あるいは旧約聖書における創世記を否定するニュアンスが含まれると解釈したからです。
しかし、そもそも何故、科学と宗教は対立していたのか。どうして宗教は科学を弾圧し、科学は証明を以って信仰を否定しなくてはならなかったのか。
それはおそらく、政治が絡んだからなのではないでしょうか。
かつて科学が未熟だった時代、信仰の影響力は大きく、政治と深く結びついていました。そんな中で、真実を探求しようとする哲学者や科学者たちは、神を冒涜する異端となじられ、一方的に弾圧され、あるいは争うことがありました。
そういった歴史的背景もあり、宗教(特に一神教)と科学は折り合いが悪いのではないでしょうか。
科学とは学問であり、概念であり、技術であり、条件が揃えば再現可能というアドバンテージがあります。しかし、私は宗教や信仰との間に優劣はないと思っています。ある意味では科学も信仰とも言えるとすら。
たまたま、過去の時代においては政治家が民を扇動するのに都合がよかったのが宗教だっただけ。そして単一の宗教からすれば、科学も哲学も他の宗教も同じ「異端」でしょう。それを排するのだから、政治は盤石です。
しかし、一つのものにとらわれず、両方に片足ずつ突っ込んで俯瞰して見てみると、それらの背景も含め、どちらかに傾倒している人は、視野が狭いんじゃないかなと思ってしまうんですよね。
私みたいな若造が、何を偉そうにと思われるかもしれませんが。
科学は神を殺せないし、神にも科学を殺せない
さて、話を戻します。
ついでに"神"の定義も、先に述べた「大雑把な信仰の概念」に戻し、「科学の進歩と信仰の両立」について噛み砕いていきます。
「信仰」は崇拝や盲信とは異なります。その本質は、「祈り」「目に見えないものを信じること」に近いものだとご理解ください。
また、私の立場を明らかにしておきますと、「見えない、理解できないものは信じない」という、割と科学寄りの思考です。今でもそうです。
しかし、幸か不幸か、ふとしたきっかけで見えないものを感知できるようになってしまいました。有り体に言えば、霊感が身についてしまったんですよね。開いたというべきか。
そのせいで、目に見えないものの存在を信じざるを得なくなりました。しかし、かといって、そちらに過剰に傾倒することはありませんでした。
神社への参拝やお祓い、お墓参り(先祖への感謝)はちゃんとするけど、大まかに言ってそれくらい。これと言って特別なことは何一つしていませんし、特定の宗教を信仰するということもない。
また私自身「全ての物事を解明したい」という衝動もあるので、何でも「説明できること」が大好きなんです。
だから霊的なことも「感じられる、理解できるようになったからこそ信じている」という側面があります。もし霊感がなければ、未だに心霊現象や自然信仰には(学術的興味はあれど)懐疑的だったと思います。
そして最近思うのは、起きている事象に対して科学の進歩で解明できたとしても、それは科学という一側面からの観測にすぎないということ。心霊方面からも然りです。
先にも述べましたが神や宗教という概念と科学を対立させたのは人間であり、本来それらは相反するものなどではないのです。
ごく身近なところでいうと、機械が霊を感知するという話を聞いた事があるでしょうか。
たとえば誰もいないのに自動ドアが勝手に開く、とか。センサーの誤作動で片付けられることもあるけど、それだけじゃない事もあります。
そしてそういう時は、人間の目には見えないけど、「サーモカメラを通すと、はっきりとそこだけ温度が違って見える」といったことがある。
サーモカメラから見たら「そこだけ温度が低いor高い」
心霊現象としてみれば「そこに目に見えない何かがいる」
他にも、空気中の電子の動きなんかも観測できればもっと面白いと思いますよ。
霊的なエネルギーは電子と解釈する事が可能だと私は考えています。ですがそれは、そこに「何もいない」という根拠にはならない。
そこで起きていることは一つ。それを科学で論じるか、心霊現象として論じるかだけ。
観測する立場や感じられるものが違うだけで、科学も霊感も、それ自体が事象を否定したり覆したりする力を持たない。覆るのは、人間の価値観のみ。
どちらか一方だけが正しいという事などないのだと思います。立場を定めない限り善悪はうまれない。
私自身は、科学も非科学も事象に沿っていれば支持します。その方が、あらゆる側面から楽しめてワクワクしますし、理解が深まれば新たな未知が生まれますから。
今例に挙げたのは観測が可能な事でしたが、もし本当に四次元や並行世界が存在するとしたら、我々が感じていることすら、別の次元から観測すれば全く違った姿に見えるかもしれない。
人間の見ているものが全て正しいと思うのは、人間の勘違いであり、驕りだと思うのです。
私としては、結果として自然回帰的な思想に寄ってしまいますが、これまで目に見えないものに守られてきたにもかかわらず、それを目に見えないからと無視するのであれば、個人であれ人類であれ、その代償はあると思っています。
科学は万能ではないし、万能も全知もつまらない
神と科学から少し話が逸れますが、最近感じていることと少し繋がったので記しておきます。
もしかしたら、科学で全ての物事を解明できると確信している人もいるのではないかと思います。以前は私もそう思っていましたし、そうあればいいなとも思っていました。
何か一つ革新的な物事に遭遇、傾倒すると、それが万能と思い込んでしまうのは、誰しも一度はあることだと思います。しかし、それは思考停止に他ならない。それは信仰ではなく盲信です。
しかし、科学で全てが解明できるかかどうかは誰にもわからないんです。できるかもしれないけど、できないかもしれない。できたとしても、それまで人類が生き残っているかはわからない。
そして、もし全て解明し切ってしまえたとしたら、そこで終わりになってしまう。
もし、仮にすべてを解明できる万能の理論や知識などが存在したら、多くの人はそれを称えるでしょう。しかし、私は全て解明され切った世の中などは発展がないしあまりにつまらないと思ってしまいます。
私のように、知的好奇心が強い人間というのは、わからないことをわからないままにしておくことができません。おそらくそれが「全てを明らかにしたい」という欲求の根源です。
しかし、それは「未知のもの」に魅力を感じているからでもあります。未知を探求することが楽しいのです。未知の分野があることにワクワクするのです。
少なくとも、私はそうです。心が弱っているときは、未知は不安でもありますが、それでも探求はやめません。
それに、何か一つを万能と盲信するより、あらゆる視点から観測できた方が、世界が色彩豊かになると思いませんか?
少なくとも私はそう思います。
私自身は専門家でもなんでもなく、少ない知識で書いているので、破綻、矛盾、勘違い等あるかと思います。その場合、容赦なくご指摘いただけると幸いです。
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