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本音を認めたら、過去があふれてきて、全部がひっくり返った

全部、ぜんぶ、親のためだった。

そう、気付いてしまった。

健康になりたいのも。まともな人間になりたいのも。働けるようになりたいのも。全部、ぜんぶ。

だから、上手く行かなかったんだ。

自分のためじゃなかったから。

25歳の時に心と体を壊して会社を辞めた時から、この苦しみを根本的に解決したい、自分の人生を生きたいと思っていろんな事を試してきた。

自分の人生を生きたい。自由になりたい。自分を許したい。
もう苦しいのは嫌だ。トラウマももう十分すぎるくらい癒やしたと思う。

それでもまだ足りない。まだ苦しい。

そうだ、健康問題はずっと棚上げしてきた。上手く行かないからと。でも、いい加減、取り組まなくては。

健康問題は、何度も取り組んでは挫折してを繰り返している。今度こそ、と思った10月半ば。自炊も出来る限り頑張って、腸に良さそうな食事とかも気をつけていた。

そして、11月の下旬、アレルギー重症化。

何度目の失敗だろう。正直言って、心が折れてしまった。

喘息で夜眠れない、鼻炎と鼻詰まりで匂いが一切しない。心と体は密接につながっているから、子供の頃、重い発作で苦しんでいた頃の感覚と同時に、当時の記憶も蘇ってきて、情緒不安定になっていた。

ちょうどその頃、こんな記事を書いた。これは「やりたくない事としてずっと棚上げしてきた事に取り組まざるを得ないときがきた」というような思いつめた内容で、正直これを書いていた時というのはかなり強い緊張状態だったと思う。不安定でぐらぐらになった心を必死に支えているような。

そして、これを書いたあと。頑張って鼻呼吸をしようとするも上手く行かず「何かがおかしい」と感じた時、張り詰めた糸が切れてしまったのか、自分の本当の気持ちに気付いてしまった。

特に何か、明確なきっかけがあった訳ではない。ただ、もう苦しくて、辛くて、誰かにどうにかしてほしくて。このままじゃどん底に落ちてしまう、今度こそ戻れなくなるんじゃないか……みたいな不安と焦りでいっぱいだった時に、ふと込み上げてきた気持ちがあったのだ。

「心の底から大事にされてるって感じたかった」
「ダメでもいいって言われたかった」

これが本音だ、と思った。身体の力がスッと抜けて、これまでのすべてがひっくり返った。

「私が身体を壊していたのは、愛されたかったからなんだ」って。

もしかしたら、私にとって「親に大切にされている」と感じられた記憶が、唯一体調を崩している時だったのかもしれない。

少なくとも、私は生家で「大切にされている」と感じた事がほとんどなかった。だけど、病気のときだけは別だったのかも。けれど、それはきっと本当に幼い頃の、すごく少ない期間だったんだと思う。

仕事熱心だった母は、保育園の頃から既に、私が体調を崩しても、帰って来なかった。

帰って来ない事には色々と理由がある。遠方の職場で、かつ免許もないため、一時間に一本もない電車を乗り継いで通勤している。そしてドライな考え方なのか、祖母が看ていてくれるし帰ってきたところで病院に連れていけないのだから、それだけの労力をかけて自分が帰っても意味がないとでも思っていたのかもしれない。

実際、私を病院に連れていくために、代わりに車を持っている父が早退してきた。父が帰れないときは叔母が。もしくは年上の従兄弟が。時に近所の人のときもあった。

病院に連れていけなかろうが、私は母に帰ってきてほしかった。けれど、帰って来なかった。

ちなみに祖母は看病をしてくれたが、「子育てを押し付けられた」という空気を常に出している人で、そこに安心感はなかった。

私は心のどこかで「もっと重い症状になれば、お母さんが帰ってきてくれる」なんて幻想を抱いたのかもしれない。だからいつまで経っても、身体がよくなる事を拒んでいた。

けれど、同時に「まともに働けなければ、生きている資格はない」という強い思い込みもあって。「健康になりたい」という動機の多くは、「そうでなければまともに働けないから」だった。

つまり私の中には「病気になる事で愛されていると実感したい」という強い願望と、同時にそれを抑圧する「健康にならなければ見捨てられる」という強い強迫観念があって、それが常に葛藤を起こしていた。

健康で、働けているまともな大人。それは、元を辿れば「親の言う事を聞ける、いい子」という、中身のない理想像。

しかし、私はどう足掻いても「いい子」にはなれないと、どこかの時点で気付いていて、でもそんな自分は受け入れられないから、親の期待に応えられるいい子でいようと必死に努力した。

けれどダメだったから、今度は反対に自分にダメ人間の烙印を押すことで、親の期待に応えられない苦しみから目を背けていたんだと思う。

「こんな私は見捨てられて当然だ」と思考を放棄することも、本当に見捨てられるかもしれない現実から目をそらす自己防衛だ。

けれど、そんな自己防衛を取り払った先にあった気持ちは、「どれだけ堕落しても、ダメ人間になっても、私は生きていていいんだって言ってほしい。愛していてほしい」という、ただ無条件の愛情を求める心だった。

「ダメであっても受け入れられたい」という本音が出てきたら、私は別に健康になんてなりたくなかったんだと気付いてしまった。それどころか本当は、いい子にだって、なりたい訳じゃない。

うちの親はふたりとも進学校、そこそこいい大学、そして地方公務員。祖父も大手企業で定年まで勤め上げた人。祖母も専業主婦としてきっちり家事育児を全うした人。

兄も、幼い頃こそいじめにあったものの、中学以降は成績優秀、進学校、国立の大学、大学院、大企業……という人生。

そういう、世間一般で言うところの「まともな大人」である家族のいう「いい子」には、今となってはピクリとも来ない。

では、どうして、本当はなりたくない「いい子」になることを、ひいては「親の手を借りずに自立して、まともに働ける大人」になる事にこだわっていたんだろうか。

それはおそらく、そうしなければ自分を守れなかったし、生きて来られなかったから……というのもあるが、実際のところ、私は、母親を助けたかったんだと思う。

家族の経歴からもわかる通り、なんというかブロックがガチガチなのだ。教育方針は「子供は親の言う事を聞くもの」という軍隊もかくやという具合。両親は「受験は入学したときから始まってる」「高卒で働くのは絶対やめとけ」が口癖だった。

そんな家で、私は小6から不登校、精神科通院。書いていて笑えてくるこの落差。全日制高校には一年間だけ通ったけれど、結局授業は受けられず、通信制に転校。結局「一定期間まっとうに通学する」という事は、小6以来一度もできなかった。

「家の恥」とは祖母の言。「頭がおかしい」とは父と兄の言。
そんな彼らは、不登校の原因を「母親の愛情不足」と言った精神科医の言葉を鵜呑みにして、私に関する一切の責任を母に押し付けた。

私はその状況において、無意識下で、「私のせいでお母さんが、酷い目に遭っている」という風に捉えた。思春期の頃、とにかく家から逃げるように過ごしていたのは、母親の過干渉がキツかったのもあるが、その罪悪感に耐えられなかったからだと思う。

しかし私は、学校には行けなかったが、働く事はできた。通信制に転校してから始めたアルバイトは行けた。それが私にとって自己肯定感を向上させる一助になった。いや、なってしまった。「まともに働く事ができれば、私は恥ずかしくない大人になれる」「お母さんに報いられる」そう勘違いしてしまったのだ。

名前のある大学、人に胸を張って言える仕事、高い収入……そんなものは私は何一つ持たなくて、でもそれを手に入れる事こそ幸せだと思い生きている人々の背中を見てきた私にとって、「業種はどうあれ正規雇用で働いている」という事だけが、ダメな私にできる精一杯、そして唯一の拠り所だった。

私が働けている限り、母親を安心させられる、もう恥と言われずに済むと思い込んでしまったのだ。

だから、その唯一の拠り所すら失った5年前。私は働く事が自己価値と強く結びついている状態に何かおかしいと気付きはしたものの、やはり定めた目標は「根本治療をして社会復帰したい」というものだった。

「私はいい子になんてなりたくないけど、私のせいでお母さんが酷い目に遭っているから、お母さんを助けるために、いい子にならなくちゃいけない」

今改めて子供のようなシンプルな言葉にするならば、そういう気持ちだった。

この数年、私の芯にあった二つの強い願望。

「二度と同じ失敗を繰り返さないよう根本的に治して、社会復帰したい」

「家族が言うような表面的な価値じゃなく、すべてを削ぎ落としてなおなくならない自分の価値を知りたい」

後者はそれなりに見えてきた。きっとそれが叶うという事は、心の底からの本音だったんだとも思う。

実際、家族らの求めるキャリアや安定などというものは、本質的ではないと感じるし、それが本当に彼らに満足を齎すものならば、私にあんな言葉をかけたりしない。自らの築いた財を、安定を脅かされる不安を、私を始めとした他者を貶める事でごまかすような事は、絶対におかしい。誰かの犠牲の上で成り立つ安心は安心じゃないし、あんなものを幸せとは呼びたくない。

しかし、前者に基づく行動はたいていうまくいかなかった。そもそも在宅仕事は常に強大なストレスとの戦いだった。そして極めつけは今年のアルバイト。社会復帰の一歩と思ったが、結局体調を崩して8月末でやめた。

何故上手くいかなかったのか、これまでもヒントはあったけど、今回のことでようやくハッキリと腑に落ちた。

この二つの願望には決定的な矛盾がある。

まず、社会復帰するためにどうすべきか、と考えた時に「これまで自分に合わない事をしてきたからダメだったのかもしれない」という仮説を立てた。であれば、自分に合ったやり方を知れば、自分なりのやり方で社会貢献をしていけると。だから「全てを削ぎ落としてもなくならない私の価値」を知ろうとした。

しかし「社会復帰したい」の真意は「親の期待に応えられるいい子でいたい」だ。

そして「すべてを削ぎ落としてなおなくならない自分の価値」には「いい子になれない、親の期待に応えられないダメな自分」も含まれる。

だから、私が私のまま生きて社会貢献するという事と、親の期待に応えるという事は、私が「いい子でいたい」と願う限り両立しないのだ。

だから、上手くいかなかった。

しかし今回、心が折れたことで、自分の本音に気付く事が出来た。いや、認めることが出来たと言った方がより正確か。これまでは気付いてはいたけど、その本音に「それでいい」とは言えていなかったのだから。

「いい子になんかなりたくない。ダメでもいいって言ってよ」

「社会復帰したい」は、家庭環境の中で刷り込まれ、本音だと思い込まされた壮大な建前だ。しかし、生きるために必要で、これを捨ててしまえば家族に見捨てられ、わたしは生きていけなくなる。そう考えていた。だから「いい子でいたくない」なんて、認める訳にはいかなかった。

けれど、ここに来てようやく、認めることが出来た。私の中にきっと「いい子でいなくても大丈夫なのかもしれない」という安心感が経験として積み上がってきていたから、認めることが出来たんだと思う。

「ああ、私、別にまともに働きたくなんてないな」「苦しいのは嫌だ」「健康になるのも、躍起になってやる事じゃない」

そう、比較的素直に認めることができた。

もちろん、痛みがなかった訳じゃない。あれだけ勢いのある記事を書いたのだ。実際は認めるのが怖かったし、めちゃくちゃ泣いた。

なんだか失恋したような気分ですらあった。長年片思いをしていた相手に対しての未練を断ち切ったような気持ち。

そしてこの事に気付いた数日後、まるで耐久度チェックでもするかのように、母親からの連絡があって。その時のやりとりで、今度こそ「ああ、この人は私の事見てくれてないな。私の期待に応えてくれる事はないんだな」と、嫌という程実感させられた。

そして同時に、私のことを本当に心配して尊重してくれる人のために生きなきゃな、と改めて思った。

自分の本音を認めたあと、またさらに「親より幸せになってはいけない」というブロックにも気付いた。それは幸いにして人の助けもあり、上手く解く事が出来た。

そこから、より視界がクリアになり、あらゆるものの見方がひっくり返った。

二度と同じ失敗を繰り返さないと言うけれど、そもそも心を病んだ事も、不登校になった事も、会社を辞めた事も、私が望んだ結果で。壮大な反抗期、イヤイヤ期だった。失敗なんかじゃなかったのだ。

親に対しても、「まあ親は親で必死だったし、あれ以外のやり方を知らなかったんだ」と思えるようになった。そしてあの人たちは、その人生を選んで生きているのだから、私が助けようとする必要はない。

そして親の期待に応えようとする過程で身につけた、他者の心を観察する術や、エリートの歪みを体現した事で「世間で信じられる価値観が必ずしも正しく幸せだとは限らない」という視点を得たことは、私の価値観形成には外せない要素だ。だから、そういう意味で「親には感謝している」。

そして、今の私に必要なものにも気が付いた。それは、この間の記事のように、歯を食いしばって苦手を克服する事じゃなく、どんなに些細でも素直な欲求を叶えてやる事じゃないのか、と思うようになった。

眠い、疲れた。あれが食べたい、食べたくない、やりたい、やりたくない。余計な心配をせず、先回りせず、今ここで、自分の気持ちに集中する。

自分軸、マインドフルネスとか言われているが、つまるところそういう事だ。

その中で「やっぱり身体が辛いから治したいな」とか、「やりたい事やる時に不便だな」とか感じたら、健康を目指せばいい。

たとえみっともないとか、ありえないとか、贅沢だとか自堕落だとか言われようが、眠いときに寝て、食べたい時に食べて、遊びたい時に遊ぶ。

きちんと甘えきる事で、自立心が養われるって、もう嫌という程学んだでしょ。

だから、私は私の欲求を叶えて、私を幸せにしてあげようと思う。贅沢で何が悪いの?と、セルフジャッジを蹴飛ばして。

「好きな事して遊んで暮らして、それが人の助けになれば理想」

「いい子でなんていたくないし、親の期待に応えるより、楽しくて魅力的な事が世の中にはいっぱいある」

「もっと面白おかしく、楽しく生きてたい」

そういう素直な気持ちを原動力に生きていく。

もちろん不安だし、まだ自分の本音を叶える事の難しさを感じているけれど。でも、試行錯誤ならこれまでだってやってきたから。

今度は「いい子」ではなく「幸せ」になる練習をして、これからはもっと素直で、自然体で、魅力的な私になるよ。

眠いなぁと思いながら、この文章を書いている。さっそく本音を無視してんじゃねーか、と言われそうだけど、これは、これまでnoteで積み重ねてきた内省のある意味集大成なんだと思うから、どうしても形に残しておきたくて、自分に「ごめんね」って言いながら書いている。

何故集大成だと思うか。多分、こういうのはこれで最後だからだ。

実は、この間の満月に夢を見た。

多分、小学校低学年くらいの、とても中性的な子供がいて。でも子供らしさは微塵もない、冷静な子供だった。それが自分だとすぐにわかったのだけど、その子供に面と向かって「もう、ここまで降りて来なくていいよ」と言われたのだ。

ずっと、仲が悪い、信頼関係が築けていないと感じていたインナーチャイルドの姿。いつも怯えているか、暴れて怒り狂っていたような、私の内側の子供。それが怒りもなく、冷静に私を見据えてそう言った。

正直まだ実感は湧かない。寂しくもある。もうこの数年で自己分析と内省がクセになってしまっているから、うっかり深掘りして消耗してしまうけれど、でも「もういいよ」なんて言われてしまったから、これからは深刻に心の傷をほじくり返すのはしなくてよくなるし、もしかしたら出来なくなるのかも知れない(やろうとすると体調崩すとかね笑)。

実際、今月の終わりに大きな節目がある。そこで時代の価値観は今度こそガラリと変わり、もう戻らない。

だから、多分、書かなくなるし書けなくなる。だから今、私の軌跡と爪痕をここに残しておきたかった。

この数年、色んな人との出会いがあって別れがあった。ずっと付き合ってくれた人も、一期一会の人も、心から感謝したい。

これを読んで何か感じていただけたなら嬉しい。そしてあなたの心を縛るものも、少しでも緩めばいいと思う。鎧を脱ぐことは痛みも恐怖もあるけれど、その痛みと恐怖は感じ切る事でなくなるし、必ず癒せるもの。自分の声に耳を澄ませて、ゆっくり進めば、きっと大丈夫。

これまでの時代が生きづらかった、志ある優しい人たちが、軽やかに、新しい時代を生きていけますように。


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