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拗れていく「愛されたい」という願い。劇場版FateHF2章を皮切りに間桐桜の心を紐解く

劇場版Fate/stay night[HF]2章のネタバレがあります

桜が好きです。原作を初めてプレイしたときから、HFには強く心を揺さぶられました。だから桜ルートと、間桐桜という女の子には少し強い思い入れがあります。

劇場版HF2章を観て、作中の描写、パンフのインタビュー、方々で見かける桜に対する解釈などもたくさん読みました。様々な視点から桜という子について語られていて、とても興味深くて。私は桜が好きだけど、まだ表面的な部分でしか桜を捉えられてなくて、桜のことをわかったつもりでいただけかもしれない、と思って。だから、これを機にちゃんと向き合おうと思いました。

でも他の感想はすぐ書けたのに、桜のことだけは言葉にするのに1週間以上かかってしまった。書くのが苦しくて小説の方に逃げたりと、めちゃくちゃ難産でした。けれど何とか形にできたので、公開します。

この記事は劇場版HF2章公開を受けて一部キャラについて考察を書いているうちの一つになります。その他の感想・考察記事は下記マガジンをご覧ください。

前半は劇場版での桜に対する感想、後半は桜の行動や心理を紐解き、最後に桜に対する私の考えと想いを述べます。あまりまとまっていないし、士郎の記事より長い……。けれど、頑張って書いたので、興味のある方は読んでいただけると嬉しいです。

あくまで個人の解釈、感情の文章だということをご理解ください。原作をプレイしたのはかなり前なので、誤った解釈である可能性があります。その点ご容赦いただければ幸いです。

劇場版の桜の描写は完璧だった

まずは率直な感想を。

もう全体的に桜の描写は完璧と言っていいほどだった。可愛いところもどんくさいところも怖いところも。私が好きなセリフ「だってあの人、私には勝てないもの」の表情も最高だった。最高だった。凛を傷つけようとする桜も、それを守ろうとして身を呈する士郎を見て自分を傷つけてしまう桜も何もかもが愛おしかった。

黒桜に覚醒するシーンも怖くて怖くてドキドキした。ギルとの対峙シーンもそうだけど、ぞっとするような怖い描写って、むしろ興奮する。

下屋さんのしっとりとした芝居も、夢の中の可愛い桜も、ラスト付近の冷たく暗い声も。桜の描写に関しては個人的には手放しで最高って言える。

あまりに的確で生々しい性的な描写

原作の性描写は、全年齢版では桜ルート以外は置き換えられても違和感のないものだった。けれど、桜ルートだけは性描写が絶対に必要だと思っていたから、今回うまく融合させて描いてくれたことは本当に嬉しかった。

また、全体の感想の冒頭に、須藤監督は容赦ないと書いたけれど、今思い返すと、初見時には別に容赦ないとは思わなかった。私は人の解釈を読みすぎると自分の意見と区別が付かなくなることがよくあるので、この記事を書くため、桜に関してはこの1週間、極力情報をシャットアウトした。そうして取り出せた素直な感想は「須藤監督の理解がすごい」だった。

表現規制の中で、行間を読めるような見事な演出は、桜を表現するにはあまりに的確で、それ故に生々しく感じた人も多かったのかな。PC版のセリフも、自慰行為のあとの手を洗う描写も、士郎と初めて夜なのに、いきなり士郎に跨る心の余裕のなさも、私にはしっくり来すぎた。

私は、本当に好きな人で奪われたくない人のためならそれくらいすると思う。快楽中枢を壊された女が、狂おしいほど愛しい人に対して想いを抑えられなかったら、がっつり自慰行為くらいするだろう。一番好きで嫌いな姉に対して、大事なものを取られると危機感を覚えたのなら、自分の身体を最大限に使って迫って「先輩は私のものだ」と確かめたくもなるだろう。年齢制限のおかげでマイルドになっているくらいだと思う。

それが間桐桜という女の子を、このHFという話を描くのに必要だから描いただけ。むしろそれくらいリアルに描かないと、それくらい感情を揺さぶらないとこのお話の良さは伝わらない。

私は、桜の女性としての計算高さや浅ましさを、異性でありながら理解できている須藤監督をより好きになった。けれど少し怖かった。桜に対してどういう感情で臨んでいるんだろう、と。私はねじ曲がった性格だから、舞台挨拶で語られない、深い愛以外の、後ろ暗いところがどうしても気になってしまう。

凛に対する屈折した感情が愛おしい

私は遠坂姉妹の、好きなのに互いに素直になれないというこじらせ方が好きだ。

桜は、凛のことが本当は大好きで憧れで「大切なひと」。そして、自分とは真逆かつ、近しい部分もあるからこそ劣等感を抱くし嫉妬する。

それでもやっぱり、凛をずっと待っていて。窓ガラスを割って駆けつけた凛を見る桜の表情は、ヒーローを待っていた少女そのもの。けれど、凛は桜のそんな気持ちを知らないから、管理者という立場や間の悪さも相まって桜の地雷を踏み抜いていく。

ちなみに、原作だと「姉さん」と呼ぶまでもうちょいまごまごしてた記憶があったので、劇場版で割とすんなり「姉さん」と呼べていることに違和感があったけど、パンフで監督が「士郎と結ばれたから心の余裕ができてすんなり姉さんと呼べた」と語っていて「最高かよわかってんな」と納得できた。

ちなみに桜の凛に対する「助けて欲しい」という願いは「どうせ私なんて助けてもらえない」という絶望でもある。そしてそれが「なんで助けてくれないの」という怒りに転じるのだけど、それが三章でどう描かれるか今から楽しみでならない。

桜は士郎を試しているのか

レインのシーン、近づいてくる士郎に対して桜は感情を露わにして何度も拒絶する。

この劇場版を一緒に見た旦那(原作未プレイ)に「あれって男の人からどう映るの」と聞いたところ、「試してるんでしょ」と言われた。

それは、確かにそうなんだけど。でも私にとって「試してる」という表現は違和感があった。桜自身の心境に寄り添うと、その見方はあまりに冷たく感じてしまった。「試す」なんて余裕のある心境じゃなくて、不安だから確かめるしかないというか。

歩み寄る士郎を拒絶する桜に、士郎は「桜が自分を許さなくても、俺が桜を許し続ける」とはっきり示している。外から見れば、こんなにはっきりと言ってくれているのに、それでもなお手を取らずに拒絶して、あまつさえ「処女ではない」という告白までする桜は、面倒な女に映るだろうか。

けれど「先輩を傷つける自分が許せない」「こんな汚らわしい自分は先輩に愛される資格はない」というのは、桜にとっては紛れもない事実で。それでも自分を許すと言ってくる士郎を、自分からは信じられない。だからあれだけ強い意志で歩み寄る士郎を拒絶しようとしてしまう。

でも、少なくとも桜は士郎に嫌ってほしくて言ってるわけじゃないし、試しているつもりもないと思う。

桜にとって士郎は綺麗なもので、傷付けたくないもの。自分が士郎を傷つける存在であることもわかっている。本当は縋りたいけど、拒絶される方がもっと怖いし、何より縋る自分が許せない。その葛藤の結果、あれだけ強く拒絶をしてしまうんだと思う。

私はレインのシーンで桜の気持ちに痛い程共感して、身体が熱くなるくらい感情を揺さぶられるから、これが正しい解釈なのか、そもそもちゃんと文章として伝えられているかもわからないんだけど…。

桜の芯の強さ

ここからは少し本編の内容から離れて、桜自身について語っていく。

不安や闇を抱えながら、ぱっと見か弱く守りたくなる存在のように見えるけれど、彼女には、すさまじい芯の強さがある。私はこれを桜の「遠坂」らしさだと思っている。

それは凛のように颯爽と道を切り開くような鮮やかなものではないけれど、桜に備わった美徳であり強さ。じっと耐えて、粘って、待って、事を成すのが桜の強さ。言い換えれば、頑固とも言えるけれど。

たとえば士郎の家の前でチャイムを一度だけ鳴らしたら、出てくるまでずっと待っていたり、できなかった家事や料理も何度も挑戦して自分のものにしていったり。慎二のことも、UBWでは粘り強く看病している。弓道だって努力して実力をしっかりつけている。ホロウ(本編半年後)だと弓道部部長にもなるし。

レインで「先輩のお家に行くのがやめられなかった」と言うけれど「自分が魔術師である事を知られたくない」という一点のために聖杯戦争の事を知らんふりをするというのはかなりの頑なさに私は思える。HFでは士郎に知られてしまったから、ああして感情をむき出しにしてしまっているだけで、他ルートではどう見ても日常の象徴の通い妻系後輩だし。

異常なまでの我慢強さは「解離」

上で述べた桜の芯の強さや一途な性格は「我慢強さ」と捉えられるけど、蟲蔵の修練など、普通の人なら発狂するような事でも耐えられるという性質は、性格とは少し分けて考える必要があると思う。

桜は恐怖や痛みを他人事として捉えてやり過ごす性質があるという設定がある。これは、心理学や脳科学で言う「解離」だと私は思う。これは性格ではなく、脊椎動物に備わった心と身体の仕組みなのだけど、桜の場合は、本来の性格も相まって、その度合いが強いというか、重篤、慢性化しているんだと思う。

「解離」とは、強いストレス下において、身体からの感覚や情動が強すぎる場合に、脳が防衛反応として体からの感覚をシャットアウトすること。主に子供の頃に虐待やネグレクト、養育者との別離などのトラウマを経験すると、解離が慢性化しやすくなる。またこれはあらゆる神経症的症状の元になり、重篤になると離人症や解離性同一性障害(多重人格)を引き起こす。軽度の解離であれば日常的に割と誰でもやっていることで、上手く使えれば創作に生かせるというメリットもある。

蟲蔵での修練も、慎二からの性的虐待も全部、解離させてやり過ごしてきたんだと思う。そして、慢性的で重篤な解離は、体感覚を麻痺させることがある。寒い中半袖のワンピースを着ていたり、雪の中サンダルで待っていたりするのは、「可哀想と思われたい」「守られたい」という計算ではなく「寒いのは辛いうちに入らない」「足が凍傷になるより先輩が帰ってこない方が何倍も辛い」という桜の慢性的な解離から生まれた尺度と感覚のせいとも取れる。

そして、桜は「怖い話が好き」という設定がある。きのこ曰く、現実が怖いから、フィクションの怖いものが馴染むという。これも解離のせいと解釈できる。恐怖体験から来る情動を切り離しているから、恐怖という感覚がよくわからない。だから、理解しようとする。そしてフィクションの恐怖で、何故か安心する。実際、私も、強いストレスで心が不安定になり解離が悪化すると、恐怖・残虐系の作品を進んで見てしまうのでとてもよくわかる。

桜は成長の機会を奪われた子供

慎二役の神谷さんの「従順なフリをしてエゴイスティック」という評価は、辛辣だけど非常に的を得ている。神谷さんはそれをして「嫌な女」と言っているけれど、それは多分異性として、慎二の役作りとしての見方なんだろうなとは思う。桜を可哀想と思ってしまったら慎二の芝居ができないだろうから。

しかし辛辣な意見ではある。人間の発達の仕組みとして適切な言葉を選ぶなら、桜は「従順なフリ」をしているわけではなく「従順に振る舞わざるを得なかった」だけ。養子に出され、もらわれた先での残酷な仕打ち。それに加え、生来、自罰的で内向的な性格。おまけに臓硯がいらんこと吹き込んで退路を塞いでしまった。桜は、あの過酷な環境で生きていく為に、従順である事を選ぶしかなかった。

そして従順さの裏にある桜の感情は、間桐家での様々な仕打ちの中で恨みとして募り、士郎への恋心や凛への嫉妬で濁っていく。そして最終的に慎二を殺すことでタガが外れてしまい、桜はずっと抑圧していた「周囲への恨みと怒り」を最悪のタイミングで顕在化させてしまう。

桜のエゴイスティックな部分は、従順さとのギャップもあいまって嫌なやつに見えるかもしれない。けれど桜のエゴは誰しもが持つものだ。生まれた時点では誰しもエゴイスティックだ。自分では歩けないし、言葉も話せない。全てを誰かに頼らないと生きられない。まず他者に求める事から人生は始まる。彼女がエゴイスティックなのは、そういうエゴをきちんと消化させてもらえず、抑圧されてきたからだ。

抑圧されたエゴは何かしらの形で発散されない限り、ずっとそこにあり続ける。そして抑圧が強すぎると、解放された時にコントロールが効かなくなる。桜は、すごく平たく言えば、ずっとワガママを抑えてきたから、上手なワガママの言い方がわからないだけとも言える。それが究極に拗れた結果がこのHF。

ちなみに桜の従順さは幼稚さの裏返しでもある。彼女のそれは「相手への畏怖や尊敬の念から従う」というものではなく「自分さえ我慢していればなんとかなる」という思い込みからだ。それは表面的に見ればひたむきさ、健気さとも取れるが、現実から目を背ける弱さであり、驕りであり、本質は幼児的万能感と同じ。

これも誰にでもある感情だ。本来であれば現実と正しく向き合うことで、無力感を味わい、時に諭され、時に学び、現実と思い込みの差異を修正し、自我を成熟させていく。それが成長だ。しかし、現実と向き合う事は恐怖を伴う。そのための心の強さは、信頼できる養育者がいて始めて獲得できるし、本人の心が向き合える現実の規模である必要がある。安全圏での小規模なトライアンドエラーが、健全な発達には必要だ。

しかし桜は養育者から切り離された。そして桜にとっての「現実」、つまり間桐邸での仕打ちは、向き合うにはあまりにも怖いものだった。だから、本当に須藤監督の言葉通り、桜はただ成長の機会を奪われてしまった子供なのだ。

桜にとっての「現実」を思うと、本当に衛宮邸での日々は、桜にとって唯一従順に振る舞わなくていい世界、「怖くない現実」だったと言える。「それだけが意味のあるもの」というレインでのあの言葉は比喩でもなんでもなかったんだな……。

桜の決意と、反転。桜にとっての悲劇

劇場版のラスト付近、桜は一人で間桐邸に向かう。ここで素直に士郎に助けを求めないのは、ここまで話した桜の性格を思えば仕方ないことだけれど、桜は士郎に助けてほしいと思う以上に、士郎を傷付けたくないと思っているからだ。そして、本当は助けてほしい凛に頼れないのは、自分を殺そうとしている(と思っている)から。

そして桜は、「わたしがお爺様を止めないと」と決意して間桐邸に向かう。しかしその決意はグラグラで、弱々しくて。慎二に思い切り出鼻を挫かれる。「またわたし間違えたんだ」と無力感を味わう。しかし、士郎と結ばれたことで抑圧された自我が少しずつ解放されていた桜は、ついに奥底にある「こんな人いなければいいのに」という憎しみを浮上させてしまう。

そこで最悪だったのは浮かび上がった「無意識」が力を持っていたことだ。自分の理性とは関係なく、慎二を殺してしまったこと。そこで桜は肉親を殺してしまったという罪悪感に耐えきれず、タガが外れてしまう。そして、あまりにもあっけなく慎二を殺せてしまったために「はじめからこうすればよかった」と感情が反転してしまう。

「わたしを嫌っている世界なんてなくなればいい」

本当に世界をなくしてしまえる力を持った女の子がそう思ってしまったら、もう、そこからは泣きながら世界を滅ぼすしか道がない。本当は、ただ愛されたかっただけなのに。辛くて苦しくて、助けて欲しかっただけなのに。

輪になって踊る黒い使い魔から蹴飛ばされて弾き出されたのは、きっと桜の表層意識。優しくて、我慢強くて、健気であろうとする桜。

ここで桜の最後のスイッチを押したのは、士郎ではなく慎二だったというのもだいぶしんどい。ここで慎二を殺した事がトリガーになるということは、桜にとっての慎二は少なくとも「同じ家にいる他人」ではなく「桜なりに想いやっていた身内」だった。歪であっても、血は繋がっていなくても、桜にとって慎二は肉親だったのだ。

桜は成長の機会を奪われた子供で、現実が怖くて不安で、ただただひとりぼっちの女の子だった。けれど桜の悲劇は、それをやり過ごせる我慢強さがあり、実際に我慢してしまえたこと。それに加え、桜の悪意と相性が最高な「最悪の力」を与えられてしまったこと。そして、現実と向き合える機会がないまま、行くところまで行ってしまったこと。

間桐家には、桜を虐げ、利用する人しかいなかった。叱り、諭し、成長させてくれる人はいなかった。この先、桜を叱り、成長させられる人は凛と士郎だ。これまでは凛は立場的に手を出せなかったし、間桐の修練の実態も知らなかった。士郎も、桜の境遇を知らなかった。けれどそれを知った今、凛と士郎がどう桜を叱っていくのか。そこがこの先、三章の見どころになると思う。

誰しも桜のようになる可能性がある

文中で繰り返し述べているように、桜の感情や行動は、紐解いていくと誰にでもある感情がベースになっている。そして、たとえ成熟した人であっても知らずして罪を犯すこと、抑圧された欲望が歪んで顕在化する事、感情を暴走させてしまう事は起こりうる。人間は弱い。強い意思で正しく生きようとしない限り、環境で簡単に狂っていく。気を抜けばすぐに悪い流れに絡め取られる。そして、そういう部分から目を背ければ背けるほど、闇は暗く翳っていく。

桜がHFの作中で行うことは決して他人事じゃない。誰しもきっと、他人には見せたくない自分がいて、抑圧された傷があって、諦めた想いがある。桜の存在は、そういう人間の弱い部分をダイレクトに揺さぶってくるから、「桜に対してどう思うか」という問いの答えは、その人自身が自分、あるいは人間というものに対してどう思っているかに深く関わってくると思う。

こうして人間の感情の仕組みから桜を紐解くと、桜は「愛されたかっただけ」という結論に帰結する。しかし社会的な見方をすれば別だろう。桜の感情とは別に、桜が間接的であれ大量殺人を犯すことは事実だ。社会的観点から「桜を許せるのか」という議論をたまに見る。擁護派と断罪派ではそもそも立ち位置が違うので、この議論はいつも平行線になる。だからここからは意味のない仮定だ。けれどこれを語らないことには、私がどうして桜を肯定しているのかが伝わらないと思うから、無意味でも書いておく。

まず、私は幸い「身近な誰かを他者の手によって奪われる」という不幸に見舞われる事なく生きてきた。その上、桜ほどではないにせよ、発達にトラウマを抱えているため、生育環境に歪められ罪を犯してしまった人にはどうしても同情的にならざるを得ない。それが凶悪犯罪者でもだ。そして同情的である以上、「実際に大事なひとを殺された時でも同情的な立場でいられるのか」という問いについては、HFについての論争なども見ながら、何度も考えた。

結論から言えば「いられる」。たとえ旦那を殺されようと、同情的な立場は変わらない。何故そう言えるかと言えば、自分の感情や被害者意識と、事実を切り分けて考えているから。もちろん、それとは別に身を引き裂かれるような悲しみを抱くだろうし、きっと復讐心を抱くこともあるだろう。けれどそれは私の感情で、加害者を責めても何も解決しない。

実際に「たまたま最悪の形で交わっただけ」「間が悪かっただけ」というあまりにも悲しく空虚な事実があるのみで、本当に「それとこれとは別」だから。

そして、自分の納得のために、生育環境、親の対応、人間関係などから、相手の人格形成のプロセスを理解しようとすると思う。いや、理解しようとしてしまう……。

「綺麗事」「正しすぎて怖い」……そうかもしれない。そんな風に割り切れる方が、おかしいのかもしれない。感情に任せて他者を責め立てられるなら、どんなにいいかと、自分でも思う。いや、もしかしたら、同情心と憎しみの板挟みになって、理解するより先に心が壊れてしまうかもしれないけど。

けれど、私は何より私自身が他者への狂おしいほどの害意、悪意を抱えた経験がある。実行には移さなかったものの、殺したい、犯したい、許せない、閉じ込めたい……身を灼かれるような激しい感情を抱いたことがある。だからこそ、罪を犯した人も、行動の結果が違っだだけで同じ人間だと思ってしまう。それは、私自身が桜と同じように成長の機会を奪われ、エゴを肥大化させてしまったから。愛されたいという渇望が、満たされない想いが、歪に顕在化して人を傷付けることを、その狂気を、身をもってよく知っているから。

だからこそ、桜に自分を責めながら生きていけなんて、私には言えない。桜は言われなくても、桜が一番、自分のことを責め続けるだろうから。
本人に反省の意思があるならなおのこと、私には言えない。擁護的な立場を取っているつもりもないけれど。

むきだしの心で桜を受け止めて感じた事

私は、実は公開直後「花の唄」が聴けなくなるという心理状態になっていた。理由はわからない。もしかしたら、自分の後ろ暗い部分を見つめるのが怖かったのかもしれない。そして、一週間かけて少しずつ向き合う準備をしたら、なんとか聴けそうだったから聴いてみた。すると何故か嗚咽をもらして泣いてしまった。

そして同じ日、神戸の舞台挨拶のLV回。心の準備をして、できるだけフラットな状態で桜に向き合おうと思って観ていた。けれど、無防備な心でこの映画を受け止めるのは、正直とても苦しかった。桜と同じように「解離」が慢性化している私は、頭が心を他人事だと切り離さないように、身体に爪を立てて観る必要があるほどだった。

そしていつの間にか、桜の感情に深くリンクしてしまっていた。桜が影に飲み込まれるシーンで湧き上がったのは、悲しみでもしんどさでも恐怖でもなく、ただ「怒り」だった。これには、自分でも正直驚いた。

「なんでわたしの周りにある世界は、こんなにもわたしを嫌っているんだろう」

エンドロールと共に流れる「I beg you」を聴きながら、怒りに身を震わせて、うずくまってしまった。けれど涙は出なかった。ああ、ここまでリンクしてしまうんだ。と、自分がいかに桜に自分を重ねて感情移入しているのかがわかってしまった。

公開後しばらく、桜への否定的意見も踏まえて桜を客観視、もとい切り離そうと試みた。けれどそれはもはや自分のダメな部分を否定するのと同じ感覚になっていて、痛みを伴うものだったように思う。だから、私は結局、桜を自分と切り離して考えるのは無理だと悟った。だって性根があまりに似ている。彼女の気持ちがわかりすぎる。

だからこの考察を書くにあたって、ストーリーの内容に即したものになるように最大限努めたけれど、本当に客観視できているか、自分でも自信がない。

桜に似ているからこそわからない事

最後に、どれだけ考えても答えが出なかった事を書いてまとめにする。

私は、あそこまでの我慢強さはないものの、桜に似ていると感じる。けれど、だからこそわからないものがある。それは桜への肯定的意見。理解できないとか、間違ってるって言いたいんじゃなくて。肯定的意見は、とても嬉しいと感じるけど、それ以上に「わからない」。

桜に同情して泣いてくれる人、桜の辛さに向き合ってくれる人、桜を理解しようとしてくれる人たち。きっと、優しいんだろうなって。人の気持ちに素直に寄り添える人なんだろうなって。愛されてきた人なんだろうなって、想像をする。

けれど、私には本当のところがわからない。桜のために涙を流してくれる人の気持ちがわからない。かわいそうだから?辛そうだから?

たとえば「私は桜に似てない」って言っていたのに、あんな風に桜の辛さに向き合って泣いてくれる下屋さん。神戸舞台挨拶の下屋さんのコメントを聞いて、涙が止まらなくなった。その時本編で感じた怒りが溶け出すように。

けれど、私はそういう気持ちを言葉にできない。自分とは違う境遇の人をそんな風に思えるのは、すごくすごく素敵なことだと思うけど、私には手の届かない眩しい感情のように思えた。

私は下心や打算、好奇心の方が信用できる。無償の愛の方が理解できなくて怖い。一章で姥櫻を繰り返し読む桜のように。雨の中、士郎を拒む桜のように。

だから、似た経験がないのに、桜の辛さに寄り添える人は、どうして桜に涙したのか、知りたい。もし叶うなら、聞かせてほしい。


(2018/1/23追記)コメント欄に書いたものを記事本文に転載します。またコメントでも興味深い解釈を書いていただいているので、よろしければお読みください。

この記事を書いて、コメントをいただいて、桜の感情を肯定することで、やはり私自身が「許されたい/肯定されたい」のだなと感じました。「誰しも桜になりうるのだから桜を否定しないで欲しい」という主張は、そのまま「私を否定しないで」という叫びでもある。本編を感じた時に感じた怒りは、過去に出会った無理解な他者への怒りでもありました。

また、何故桜に惹かれるか……という問いですが、何となく答えの片鱗が見えました。桜の弱さに、桜の闇に惹かれる時、人はきっと「愛」を獲得するのだと思います。それは人によって形が異なるもの。たとえば「可哀想」という憐れみであり、あるいはこんなどうしようもない自分でも受け入れてもらえるという「安心」でもあるような……そんな気がしました。

以上です。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

後日、おかわり書きました。



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