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自分が本当に欲しかったものに、やっと気が付きました

何をやっても達成感がすぐ消えて、気が付くと焦燥感に苛まれて、つい頑張りすぎてまた疲れて。いつのまにか息苦しくなってしまっていました。

なぜこんな風になってしまうか、その原因に気付きました。私は、自分が本当に欲しいものをわかっていなかったんだな……と。

増えるスキ、たまるモヤモヤ

noteを始めたばかりの頃に比べたら、スキの数はかなり増えました。初めは1スキもつかなくて、自分でスキしていたりしたのに、今では50を越えた記事もあるし、コメントももらえているし、ツイッターを始めてから新しい出会いも増えました。すごく嬉しいです。

けれど嬉しいはずなのに、どこかモヤモヤしていました。

「何を贅沢な」と思われるかもしれません。自分でも、これ以上は求めてはいけない、とそう言い聞かせていました。

けれど、伸びていく数字、増えていく通知、そういうものを見て喜びを感じる気持ちの裏で、心にはどんどんモヤモヤが溜まっていきました。

何かが違う。

こんなものでは満足できない。

以前に比べたら評価してくれる人は増えた。

読んでくれる人も増えた。

けれど私は、こんなものが欲しかったわけじゃない……とさえ思いました。

「わたしの物語」を見て欲しかった

じゃあ、私は一体何を欲しがっているんだろう?

そう考えた時、ふっと気付きました。

私は「記事」という結果に対する評価ではなく、そこに至るまでの過程、自分の物語に気付いて欲しい。見てほしい。そう思っているのだと。

テストの点数でなく、テスト勉強を頑張った自分を褒めて欲しい……みたいな。いやそれどころか、本当は頑張りたくない自分すら、見透かして、理解して欲しい……。

このことに気付いた時、「なんだこの感情は」と思いました。あまりにも、他者への期待値が高い。重すぎる。

現実的なことを言えば、スキの数に関しては、俯瞰してみれば、社会の風潮やどれだけの人に見られたか、ということにも、想像以上に大きく左右されます。

フォロワーさんは増えましたが、全員が好意的とは限らないでしょう。実際半分以上は無関心だと思います。フォロワーさんは地続きの世界のどこかの誰かではありますが、私の記事に何を感じているかは、今のところは、想像することしかできない。

何が評価されるかは、予想/想像はできてもコントロールはできない。

頭では、わかっています。頭では。

けれど心の底では、コントロールできない事までコントロールしたいと思ってしまっていました。

文章は、好きで書いているつもりです。

けれど、言葉が出なくて苦しい時もあるし、折れそうな心を必死で支えながら泣きながら書く時もあります。

それに私の場合、何をやっても続かなくって。最後に残ったのが「言葉を綴る」という行為でした。他に自分を示す方法がないから続けられた…というか、やめられなかったに近いです。

そういう裏側まで読んでほしい、あるいは聞いてほしい。察してほしい。

でもそれは、なんて贅沢な願いだろう……とも思いました。

「当たり前」という毒

どうしてこれほどまでに「目に見える評価」ではなく「察してもらうこと」や「認められること」にこだわってしまうのか。

これにはある考え方のクセが関わっていました。

それは何事も「当たり前」と思ってしまうということ。

「当たり前」は、肯定的に捉えれば謙虚さであり、自身が調子に乗らないようにするための戒めにもなります。けれど、時には自身を否定し、過小評価する呪いにもなり得ます。

評価されたのはわたしが頑張った結果ではなく、色々な要因が重なったことだから「当たり前」。

だから私が頑張るのは「当たり前」。
頑張っても評価されないのは「当たり前」。
ならば私が認められるのも「当たり前」…?

なら、どうしてこんなに苦しいの?

苦しいのも「当たり前」なの?

なにかを当たり前と思おうとしてしまうと、連鎖的に他の事象も当たり前と断定し、どんどん自分の首を締めていく。

味の薄い達成感に酔いしれ、縋り、増長する。
そんな傲慢な自分が許せなくて、自分で自分を引き摺り下ろす。

終いには「どうしてこんな事もできないの」と他者に押し付ける……。そして、そんな心の狭い自分も責める。悪循環。

「当たり前」という言葉はまるで毒のようです。じわじわとその人を蝕み、気付かないうちに心を破壊する、遅効性の毒。

「当たり前」で守っていたもの

この「当たり前」の原因となったのは、おそらく一番は「出来たところしか褒めない親」が原因だったのかなと。

テストで100点で当たり前、97点とかで持って行くと「ケアレスミス」と言われる。褒めるにしても「すごい」「えらい」でした。

母親の職業は教師です。母親自身も、幼少期に甘えられなかった人でした。だから、母親としての接し方がわからず、指導者として接してしまっていただけなんだと思います。

けれど、子供の私はそれを「愛されている」とは感じられず、かなりこじらせてしまいました。

そしていつしか「頑張るのが当たり前」という強迫観念が私の中に巣食っていました。

他者から「当たり前じゃない」「頑張りすぎ」と言われることもありました。しかし、どれだけそう言われても、当たり前と思ってしまうし、頑張りつづけることはやめられませんでした。

というか大半の人が、頑張っていることにすら気付かなかったし、私自身も、頑張っていると悟らせないのが上手かったし、何もかも頑張りすぎていて、自分でも何が頑張りすぎなのか気付けなくなっていました。

でも、ここに来てようやくわかりました。

「頑張るのが当たり前」という思い込みが手放せなかったのは、「頑張ったのに褒められなくて悲しかった自分」を守っていたからなのだと。

言い換えれば、頑張るべきだと自分を鼓舞して、闇雲に頑張っている間だけは「自分が無価値じゃない」と目を背けていられたから。

自分が無価値であることを「当たり前」とすることで、等身大の自分の弱さ、未熟さを認めるのが、ずっとずっと、ずっと怖かったんです。

無価値感と万能感は表裏一体

これまで、自分を無価値だと蔑む一方で、根拠のない万能感がありました。どこかでずっと傲慢でした。謙虚であることが美徳だと思えば思うほど、傲慢な事を思ってしまう自分が、とにかく嫌いでした。

かねてから、この二つは表裏一体だと感じていましたが、ずっと理由がわかりませんでした。けれどこの「当たり前」という感覚が鍵になっていたのだな……と改めて気づきました。

この「当たり前」を手放せない弊害はすごく大きいです。

たとえば傲慢さは、他者の意見を聞き入れられない頑固さにつながります。そしてこの歳になると自信満々に見えるのか、増長しても諭してくれる人はどんどん少なくなる。

そして無価値感は、肯定的な意見をきちんと受け取れず、相手の好意を無碍にする。さらに、揚げ足取りや誹謗中傷さえもまるごと受け止めてしまいます。溺れる者は藁をも掴む。それが愛だと勘違いして。

閉じるか、鵜呑みにするか、どちらになります。閉じていても自分で自分を傷つけ、鵜呑みにしたらしたで傷付いていく。そして傷だらけになる。けれどそのことに気付かないから。最終的に二進も三進もいかなくなってから、些細なきっかけで爆発してしまう……。

「当たり前」に蝕まれた心の動き

具体的にどういう流れになるかと言いますと。

たとえば、先日のように「良い記事が書けた手応えがあり、しかもそれが伸びた」ということがあったとして。

たまたま飛ばしたホームランの爽快感は「もっと褒められたい」という気持ちに変わります。

しかし私は、その欲を適切に満たす方法を知らないため、満たされない想いはやがてどす黒い渇望と嫉妬に反転していきます。

そして、心の余裕がなくなり、満たされない承認欲求だけが燻り、不器用な自分頑張ってますアピールに変わる。

しかし、「本当にしてほしい事」と「求め方」が噛み合わないので、最終的に気持ちが荒み出して、自分可哀想アピールに変わる……と。

ここまで書いて、はたと気付きました。

……ただの「甘え下手」じゃねーか。

要は自分で自分を褒められないから、自分の面倒を見れないから、苦しくて苦しくて、駄々こねてる子供と一緒。

スキの数字だけで満たされないのはこういう理由があったのだな、と腹落ちしました。だから逆に言えば「好き」「なんか気になる」って言われると、「自分自身」を見てもらえたと感じて、舞い上がるほど嬉しいのか、とも。

あの、これちょっと恥ずかしい話なんですけど。こういう言葉をいただくと、いつもスマホ持って小躍りしてしまいます。本当に。笑

「当たり前」を解毒するには

本当に、自分でもうんざりするほど甘えるのが下手すぎます。何回も、いろんなところで言ってますけど。

何故下手かと言えば、やはり一番はその経験が少ないからです。

けれど、年甲斐もなく「褒めて」なんて簡単には言えないし、「認めて」と赤の他人に強請るのはなかなかに勇気がいります。

けれどこの「当たり前」の毒を解毒するには、未熟であるありのままの自分を認め、それを人に見てもらうことで許される経験をするのが、やはり近道なのかなと。

「自分を丸ごと認めて欲しい」と、そう他者にこぼすこと、縋ること。あるいは、まるごとの素直な自分を表に出すこと。それは、表現する者からしたら「みっともない」「かっこ悪い」と映るのかもしれません。

けど私は、表現しながら、自分を許すためにnoteを書いています。白状してしまえば、私の自分育てのために、フォロワーさんという他者を巻き込んでいます。

「他人はお前の親じゃない」

そういう声もあると思います。
かつて知人に言われた言葉でもあります……。

でも、求めてしまうのは仕方ないじゃないですか……。

だって、今まで散々、強がって強がって、やっと素直になる方法を知ったんです。方法がわかったから試しているだけなんです。リアルでは怖いから、このnoteを書くことを通して、自分を許してもらっているだけなんです。

だって、親に満たしてもらえなかった部分は、自分が自分で満たしてあげるしかないから。自分自身を満たすというのをこれまでは一人でやってきました。

けれど、これからは自分が素直になって、他者にきちんとお願いする事で満たしていく段階なのだと自覚しました。

そして、それを自覚した上でやるなら、問題ないのではないだろうか……と、おっかなびっくり思っています。

見ていてくれる方へのお願い

多分すぐには変わりません。けれど少しずつ、素直になっていきたいと思います。自分をうまく出せるよう、試行錯誤していきます。

もしかしたら、「思ってたイメージと違った」と思うこともあるかもしれません。甘ったれた事をたくさん言うし、また浮き沈みすると思います。

みっともない、許せない、そう思うなら離れてもらっても……悲しいのは、悲しいですけれど。

でももし、何か思うところがあれば、「すき」「わかる」とか、一言でもいいんで、もしよければ、コメントなり、リプライなり、DMなりをいただけると本当に嬉しい。けれど、今まで通りでも構いません。

既に絡んでくれてる人たち、フォローしてくれてる方々、ファンだと言ってくれる方、本当に感謝しかないです。ありがとうございます。大好きです。あなた方のおかげで、本当に、本心から生きていてよかったと思える事が増えたんです。

これ、書きながら泣いています。実はこの記事、書くのにすごく時間がかかっています……。

以前より強迫観念は減りましたが、それでも「どうせわかってもらえない」という思い込みはいまだに私を苦しめます。

だから沈んでいても、いただいたものを忘れたわけではないんです。今は解放しようと必死なだけなんです。

だからどうか、見守っていてください。

また「いい」と思ってもらえる文章が書けたらいいなと思います。文字以外にも、いろんな自己表現、自分にできる事を探していきます。

褒める前に、受け止めること

この記事を書きながら、他者や子供を「褒める」ということについて改めて考えました。

私もまだ、うまく言語化できていないんですが。

おそらく「褒める」より前に「受け止める」「認める」が先にあると、いいのかなって。

たとえば褒める言葉って「すごい」「えらい」とかじゃないですか。けどそこには優劣がある。結果を褒める言葉です。

その前に「これ好きなの?」「頑張ったんだね」「楽しかった?」みたいな、ただ、相手/自分の気持ちを受け止めるというか、歩み寄りというか、気持ちを引き出す言葉があると、人って安心したり、嬉しかったりするのだと思います。

結果ではなく在り方をそのまま受け止める、感じる。そこに湧き上がる気持ち、想いを感じる。

これって、他人/自分/子供、全てに通じるんじゃないかなと。対人関係の根源は親子関係です。だからきっと、そうなんだと思います。

けどこれは、なかなか難しいことです。余裕がある時しか出来ない。だから余裕のない人同士で一緒にいると苦しいし、余裕のない時にできない自分を闇雲に責める必要はなくて……。

「今そんな余裕ねーから」って方は、自分にそれをしてあげてほしいなと。うまく言えないし、私もまだうまくできませんが。

けれど、そんな風に自分に心を砕くことができたら、人にも優しくできると思うんです。私もそんな風になりたいと思っています。自分を犠牲にしない、思いやりの形。

最後に 決意のようなもの

とりあえず、私はもう褒め言葉に謙遜するのはやめます。

「いや、私なんて……」とか言うの、やめます。

素直にありがとうって言うし、嬉しいって言うし、全力で小躍りするので、じゃんじゃん褒めてください。

チヤホヤされ上手になります。

あ、オタクとしてやネタとしての自虐は面白いんでやめるつもりはないです。笑

そして同時に、ご指摘や、新しい知識を教えて頂けることはこれまで通り謙虚に、より素直に学びます。

もちろん、好きなものを遠慮なく好きと言うのも、愛を示すのもやめません。

だからどうぞ、これからもよろしくお願いします。

こんな、自分のための長い文章にお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

私の気付きが、あなたの気付きのきっかけになれば幸いです。

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