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間桐桜の告白の重み(劇場版HF2章考察おかわり)

劇場版HF2章のネタバレがあります
一部Fate/Zeroのネタバレもあります

雨の中、士郎に想いを告げるシーン「レイン」でのあのセリフについて、少し考えを巡らせたので改めて記事にする。他記事に比べればそんなに長くはないのでお付き合いいただけると嬉しい。

以前書いた桜の考察記事にたくさんコメント・シェアいただき、とてもありがたかった。

しかしこれ以降、何度も観るうちに、ずっと自分の中で劇場版への感想や劇場版に対してのモヤモヤというか違和感が少しずつ顕在化してきて、新たに気付いた事があったので覚え書きしておく。

念のため、あくまで個人の解釈であることをご留意いただきながら読み進めていただきたい。


桜は物語開始時点で詰んでいる

桜の抱えた境遇について考えたときに、私自身、桜にとっての傷、負い目の本質を取り違えていたのでは、ということに気づいた。

蟲蔵での修練および慎二からの性行為の強要は、現実世界における「肉親による虐待」と定義、混同しがちだったのだけれど、桜の負い目の本質はそれだけじゃないんじゃないかと。

特に蟲蔵での修練は、虐待とは少し毛色が違う。と言うよりもっとタチが悪い。身体的苦痛という意味では虐待という性質も内包しているけど、アレの本質はどちらかというと肉体改造、外科手術の類に近い。神経の切断手術とか、そういうものだ。快楽中枢を破壊されているんだし。

劇場版をはじめとした映像作品ではかなりマイルドになっているけど、型月世界の魔術って結構エグい。詳細は省くけど魔術行使っていうのは肉体の酷使でもある。だから、教会のシーンで蟲蔵の桜が回想で一瞬映るけど、実際はもっと見た目がエグいはず。

桜の肉体はもう不可逆だ。霊媒医療の腕が司祭レベルの言峰綺礼が、魔術刻印を全て使い果たしても完全には取り除けない11年分の刻印蟲。身体の奥深くまで入り込み絡みつき、這い回り、桜自身と一体化してしまったものたち。

蟲蔵での仕打ちなどの心の傷は、士郎と寄り添う事で癒えるかもしれない。けれど桜は一生体内を這い回る蟲と、それによる魔力不足と付き合っていくしかない。そういう意味では詰んでいると言える。

間桐家での仕打ちに対する感情

というか桜自身の深い心の傷の本質は、間桐家に対して抱いている憎しみではない気がする。矛先は色々あって、純粋に間桐家だけに対して恨みを募らせていた訳じゃない。

むしろ、そんな洗練されたものじゃなく、もっと根源的なぐちゃぐちゃした感情だ。桜のメンタルは幼稚だから「世界と自分」くらいの線引きしかない。つまり、そもそも間桐家を恨めるほど自我が育ってない。

きっと慎二に対しても、性的虐待をしてきたから許せないとかそんな感覚じゃないんじゃないか。 「こんな人いなければいいのに」だって、士郎に受け止められて自我が育ってきたからこそ、そう思ってしまったわけだし。

だから普段の桜は、慎二が性的暴行を行うことについて多分あまりなんとも思ってないんじゃないか……? と思う。だからこそ、UBWの最後の献身的な看病や、「衛宮ごはん」のたけのこグラタン回があるわけだし。

ちなみに「衛宮さんちの今日のごはん」は原作の関係性を踏まえて描かれているので、本編での仕打ちは無かったことになってない。「Fate/hollow ataraxia」の世界観がベースなので、SN本編との線引きは曖昧だけど、ある程度繋がっている。

ここで、慎二からの仕打ちが平気だった、と言いたい訳じゃない。平気な訳がない。けれど、桜の主観や「痛みを他人事としてやり過ごす性質」を思うと、蟲蔵の修練に比べたらその苦痛は大したことない、ということ。というか、間桐家での仕打ちが全て苦痛だから、もはや麻痺しているんだと思う。

これは先の記事でも書いた通り、実際に、個人の尊厳を侵されるのが日常になった人間にとっては割とありがちな事で、一般的に見れば「ひどい」と思われる事もそれが日常になればなんとも思わなくなる。

「なんとも思わない」と言うよりも、「なんとも思わないようにしないと自分が保てない」が近いかな。苦しみは、苦しみと認識しなければ苦しみにはならない。自分の日常がおかしいだなんて、誰も思いたくはないわけだ。そのことに気付いてしまうと、自分の存在が根底から揺らいでしまう。日常の否定は、価値観の否定であり、自我の否定に他ならない。それを認めるのは途轍もない恐怖を伴う。

それに加えて、桜は慎二に対しては恨みというより哀れみの方が強いし、大切な肉親でもあった。歪んではいるけど。

桜の慎二に対する想いを語るとまた長くなるし本題から逸れるのでこの辺で。

「わたし、処女じゃないんですよ」の重さ

さていよいよ本題。

桜の身体の状態について考えると「わたし、処女じゃないんですよ」って、桜にとって本当に、ものすっっっごい重い告白だな、と改めて思った。

桜が間桐家に養子に行ったのは5歳。その時から既に修練は始まっている。 5歳と言えば性的な部分はほとんど未発達。自分の体を女性として意識する遥か前だ。そんな時に自らの女性性を否応なく自覚させられて、快楽中枢を壊されて、わけのわからないもの、即ち刻印蟲に純潔を食い破られる。 

重ねて言う。桜の処女は5歳で、人間ではなく、刻印蟲に奪われた。訳も分からないまま。
桜の性欲は成長の過程で獲得したものではなく、無理やり与えられたものだ。それを安易に肯定するのは、桜自身にとって簡単にできる事ではないはずだし、身体を駆使して士郎に迫る事に負い目がない訳ではないように思う。

この事について考えると、よくメンタル崩壊しなかったなと思った。いやむしろ既に崩壊してしまったからこそ、今の(一見)まともな生活を送れる桜になった……いや、衛宮邸で取り戻した、と言えばいいのか。士郎に選ばれたことで崩壊が顕在化してしまう訳だし。

でも多分、凛であれば耐えられなかっただろうな、とも思う。あの仕打ちに耐えるのは、誰にでも出来ることではない。耐えられない方が遥かに健全だけど。

間桐家での仕打ちと、レインでの桜の他のセリフを踏まえると、桜自身の嫌悪、毀損の矛先は、本当に、もうずっとずっと自分自身なんだなと。あそこで間桐家に対する恨みの言葉が一切出ない。

「自分の身体はおぞましいものに嬲られ続けて、汚れている」というのをずっと恥じてきた。 桜にとって魔術師である事は誇りなんかではなく、恥、汚れ、自身の汚点。 虚数という稀有な属性すら、彼女には価値のないもの。「間桐の魔術師として調整された身体」という事実、間桐の魔術特性の後ろ暗さも相俟って、その全てが桜にとっては目を背けたいものだったのだと思う。

だからこそ衛宮邸での日々で救われながらも、「彼らには自分は相応しくない」という絶望と常に隣り合わせだったんだろう。光が強くなれば、影はどんどん濃くなる。人の心もまた同じく。そんな中で、他ルートの桜が自分からマスターだなんて言えるわけがないじゃないか……。

それを全て乗っけた「わたし、処女じゃないんですよ」なんだなと。

自分が一番目を背けたい、一番知られたくなかった事実。置き去りの桜自身の心。自分の意思で選んだ訳ではなく、桜の責任なんかではないのだけど、桜はそれをずっと自分のせいだと恥じている。遠坂家から養子に出されたのも、間桐家でのひどい仕打ちも、こんな辛いことが起こるのは「自分に価値がないから」だと考えている。

「処女じゃない」という言葉には多分そんな桜の絶望が込められていて、桜にとってそれを告白するという事は、自身の汚い部分のまさしく「最奥」を告白するに等しかったんだろうなと思う。
下屋さんのあの声音にも、それだけの重みがあった(先日、極爆上映で聞いてなお痛感した)。

そんな、自身を汚れたものと定義する桜にとって、一番壊したくない、汚したくない人が「自分の手を取る」と言ってくる。

……けれど手を取れない。

自分が許せないとかでなく、そもそも取るという選択肢をずっと封じ込めてきたし、考えることすらしなかった……けど本当は、心の奥底で欲しがっていたものを目の前に示されて……。

あそこで士郎が無理やり抱きしめなければ、きっと桜は最後まで士郎を拒絶したと思う。自分をどんどん追い込んでいったと思う。けれど士郎は、桜を抱きしめ、受け入れた。あれは本当に、士郎でなければできなかったと改めて思う。

士郎の歪み、桜ルートの魅力

ここからは完全に余談。

士郎が強いのは、自分の痛み、傷に気付けないからだ。あれだけの告白をされて、桜に「許す」「帰ろう」って言えるのは、士郎が強くてカッコよく見えるけど、あれはなんていうか、すごく歪な強さだ。

士郎は切嗣の後を継ぎ、魔術を学ぶと決めた時に人を殺す覚悟を終わらせている。士郎には、覚悟「だけ」はある。

そもそも人が覚悟を決めるときというのは恐怖や不安が必ず伴うのだけど、士郎はそこが麻痺している……と言うより大火災で自分だけが生き残った罪悪感からフタをしているような形(だと私は解釈している)だから、覚悟だけを決められる。

気付けないだけで傷がないわけじゃない。恐怖と不安は士郎にはちゃんとある。けれど、その傷を全て度外視して桜の手を取れる士郎だからこそ、桜を守れるんだろうな、とも思う。

けど、レインの時点で士郎自身も「既に詰んでいる」という予感はある。 考えないようにしているだけで。実際、ベッドシーンでも影の歪みから目を背けているし。

正直あのベッドシーンは、個人的には人生で一番興奮しない推しカプのセックスだ。あんなしんどいのってあるか……?と思う。原作は逆にエロく感じるけど、劇場版はなまじ綺麗だからしんどさが浮き彫りになる。

もう何もかもはじめから詰んでて、解決するには奇跡に頼るしかないなんて言われて。絶望的な状況で何一つ解決の糸口は見えない。そんな中で確かなのが互いの温もりだけ……。まさに「しがみつく感情」なのだ。

それがあるから、士郎は人間として自分の傷に気づける……生の実感を取り戻すという見方もできるんだけど。

これはあくまで個人的な感想なのだけど、劇場版は、原作よりも「閉塞感」「絶望感」が軽減されているように感じる。どちらが良いと言う話ではない。劇場版2時間という映像の尺で、最大限詰め込んだ心理描写、映像の完成度は素晴らしい。

けれど、やはり原作にも、原作にしかない味というか良さはある。地を這うような苦しみ、どんどん希望が削ぎ落とされて閉じていくこの八方塞がり感。それを読み進める辛さ、それも、桜ルートの魅力のひとつだと思う。


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