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早池峰山麓は江戸時代の要塞?

こんにちは。只今テスト運用中の「早池峰と賢治の展示館」ファンページ(非公式)です。

このページは、岩手県花巻市大迫地域にある「早池峰と賢治の展示館」を「勝手に」応援するページです。 という訳で、ページの中身は、「早池峰と賢治の展示館」の公式の見解ではありません。

前回から「早池峰の信仰」について、独断と偏見による偏った情報で書き始めていますが、今回はその続き。

前回のリンクも、下に貼っておきますね。

https://note.com/hayachinetokenji/n/n2d42a8ee936d


前回の記事で書いたような早池峰の信仰や風習は、第二次世界大戦が終わった後もしばらく続いていたようですが、早池峰を取り巻く環境が徐々に変化したのは昭和45年の岩手国体のあたりではないだろうか、と振り返る方もいます。確かに、現在、早池峰に登る人達から、かつての信仰の香りを感じることはほとんど無いような気がします。

同じ東北の名山の中には、昔から信仰の山として栄えた山形県の月山がありますが、月山では、現在でも白い装束を着た人達が、信仰のために登って行くのをよく目にするのが、早池峰とは対照的です。


山形県の月山で白装束で登拝する一団
(早池峰でこういった装束の方々とお会いしたことはありません)
タイトルの写真は早池峰の大迫側の入り口である岳集落


かつて、早池峰の麓の岳集落には「妙泉寺」というお寺があり、門前には山伏達が暮らす「六坊」と呼ばれる家々があり、山伏達が神事などを執り行っていたとのこと。山伏は仏教の僧侶のようでもありますが、神事を執り行うという意味では神様に仕える身のようでもある不思議な存在で、早池峰に限らず、日本各地の山岳信仰を支える重要な存在でした。

また、江戸時代に現在の岩手県を治めていた南部氏の時代の岳妙泉寺の役割は、「領内の平穏の祈る」といった信仰の面だけではなく、南部藩内に危機が起きた場合、藩主が一時的に避難する隠れ城、あるいは、藩主が三陸の海岸方面に逃げるために、岳集落一帯が関所の機能を果たすという役割があったとも言われます。このため、岳妙泉寺跡地周辺には空堀や石垣など、戦いに備えていた痕跡が残り、当時は城に近い機能を持った寺であったことが伺えるとのことです。

そうだとすると、当時、岳妙泉寺にいた山伏達は、ある意味で武士のような役割を担い、また、早池峰山麓から三陸海岸に向かって藩主などが逃げるためのルートも確保されていたという事でしょうか。

当時の岳集落一帯に住んでいた人達は、武士と同じような格式を持った、身分の高い人達だった、という話を聞いたこともあります。

早池峰の信仰のお話は、次回へと続きます。


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