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「日本人」の同調圧力:安楽死か「生きろ」か、はたまたこの二つだけなのか

祖母の死ぬ瞬間は、壮絶だった。

テレビやアニメの影響からか、「死ぬとき」は、ベッドで「うう」と小さく呻きながらも、静かに眠るように、スッと死んでいくものだと思っていた。

が、全く違った。そこは、家族にも苦しみの禍根を残すほどの修羅場だった。

私のお祖母ちゃんの最後:修羅場以外の何物でもなかった

呼吸器をつけた祖母の口呼吸は激しく、顔は歪んでいた。痛みや苦しみにも関わらず、力がはいらないためか、歪み方が不自然だった。見たこともない、激しい口呼吸の中、祖母の目は白目と黒目を彷徨った。父(息子)は本当に苦しそうな祖母(祖母)を見て、半分錯乱していた。「可哀そうに」と泣きながらも、死なないでくれ、と叫んでいた。

祖母は、苦しくて仕方なかったと思うが、懸命に呼吸器をつけたまま、顔を父に向けようとして、不器用に頷こうとしていた。

祖母はガン患者で、痛みへの「緩和ケア」も受けていた。あの修羅のような死に際のどこに「緩和」が存在したのか。今も謎だ。

私の祖父は、70代の時昼寝をしていてそのまま眠るように死んだので、苦しまなかったと思うし、私たち家族も苦しみを見ていない。母方の祖父母は、車で1時間の場所に住んでおり、同居をしていなかったので、死に際にあったことはなかった。

そのこともあってか、家族全員、父方の祖母の時まで、死にゆく「本人」が「病」と「死」に苦しむ姿を見たことがなかった。

それは四つの意味でだ。

一つは、闘病中の身体の痛み。二つ目は、闘病中の精神の痛み。三つ目は、死ぬ間際の闘病中以上のように見えた身体の痛み。最後は、死ぬ間際の恐怖に慄く祖母の顔に映し出されていた、精神の痛み。(そしてその恐怖の中、必死に子や孫たちに「祖母であり続けよう」と、必死に頷いた姿は印象に残っている)

初めて、私たち家族は、「病の苦しみ」と「死の苦しみ」と直面した。父は、その間も、祖母が死んだあとも、精神的に大分参っていたと思う。自分を責めてもいた。

日本人の同調圧力:安楽死は機能しない?

私は、日本人だ。

日本社会に貢献したいと思っていたので、ずっと日本で働いて来たし、ザ・日系企業での経験もある。なので、よおおおく、「日本人の同調圧力」が何なのかが分かる。そして、分かりすぎる程分かっていたので、「女だから」したくもなかった結婚をしなければ!と焦ったり、「皆こういっているから」、あれしなきゃ、こうしなきゃ!と、素直に思い続けてきた。

今でもコロナ禍で、私はやることなすこと、ネットで事前に全て調べて、「人様に迷惑になる行為か、(日本)社会的にOKか」を細かくチェックする。そういう意味で、根っこは、「日本人」だと言えると思う。

そして、安楽死の議論になる時に、『安楽死を法制化すると、この人は「生きていい人」や「死んだ方がいい」という「他者」の見解(医療費がかかるなど)や、医師の見解に軸を置いた「同調圧力」が発生するのではないか』、という懸念を良く見る。

私はこの言説自体はロジカルだと思う。

恐らく、「安楽死の法制化」自体はテクニカルに可能だと思っている。ただ、「自己決定権」の浸透が薄い日本(=同調圧力が強い日本)で、「それは本当に、あなたが「決定」した「あなたの決断」なのですか?」を確認するのは、非常に難しい。

安楽死を法制化すると、日本はいい意味でも官僚国家なので、「細則・施行令」、「Q&A」、「ガイドライン」、「フローチャート」など、きっちりとした、方針を示す必要が出てくる。真剣に国民の命を守れる法にしようと、専門家や官僚は努力すると思う。

生が人それぞれ違うように、死も人それぞれだ。従って、病状やそれに応じた痛みの度合い、精神的な支え(周りの家族)、本人の精神力(良いと思えるかどうか)、家庭環境(裕福か貧困か)など、個々人で大きく異なる。例えば、「安楽死が出来る基準」をこうした状況を全て細かく、フローチャートで定めたとしても、「これは本当にあなたの意思なのですか?」という確認を正確にすることと、「同調圧力」を、このフローチャートで排除する方法は、専門家でも難しいと思う。

例えば、私の大学時代の知り合いの祖父母家族の事例だ。

ある日、私と彼でご飯を食べていた時、電話が鳴った。彼の祖父からだった。とても長電話で、戻った時には食事が冷める程、長い時間電話をしていた。どうしたのか聞くと、「死んだ方がいいのかな」と彼の祖父からの電話だったと言う。

彼の叔父と彼の祖父母は同居していた。彼は、同居していないが祖父母が大好きだったと言う。彼の祖父母は裕福だった。祖父が病気をしたときに、彼の叔父家族が豹変した。

元々あまり叔父の妻と彼の祖父母(舅・姑)は関係が良くなかった。病気が発覚する前、叔父家族が家をローンで建てた。彼の祖父母は資金援助をしなかったと言う。それを叔父の妻は根に持っていて、子供(彼の祖父母にとって孫)とも仲良くしないように、と言い聞かせていたという。このように態度が露骨になってきている時、祖父の病気が発覚した。これを契機に、あまり彼の家族(叔父の姉家族)に実家に戻らないように、叔父から連絡が入るようになったと言う。色々と背景を調べると、彼の叔父家族は、裕福な祖父の遺産を意識していることを知った。

彼の祖父は、息子である彼の叔父とその妻と喧嘩をし、家を買うときにお金も出してくれなかったのに、何で面倒みなきゃいけないの?と言われたという。彼の祖父は、子供を自立させたかっただけで、「意地悪のつもりではなかった、こんなに息子を傷つけることをしたのであれば、死んだほうがいい」と、仲の良かった孫である彼に電話をしてきたのだ。

この場合、彼の祖父の病気が仮にガンだったとしよう(実際は違う)。病が進行し、私の祖母のように「緩和ケア」が全く機能を果たさず、痛みに苦しんでいる状態では、おそらく「その祖父ご本人」が、私のお祖母ちゃんのように、強い意志を持って、「死にたい」と自分で決断できるかもしれない。

だが、実際彼の祖父の病気は、ガンではなかったし、後遺症は残る可能性が高かったが、治療可能な病気だった。だが、ここで、「安楽死が法制化」されている場合、如何にこの「叔父家族」の「私情」を排除できるか、が大きな論点だ。

いくらガイドラインやQ&Aをもとに、フローチャートで、「家族構成」、「病気の重度」、「精神状態」、「身体的痛み」、「資産状況」をチェックできても、実の息子から「何で面倒みなきゃいけないの?」と言われたショック、「自分が息子を傷つけた」という「負い目」は、チェックシートに反映されないだろう。そのまま、彼の祖父の「意思」(*息子のやり取りに触発された、「死にたい」という感情)を見分けるのは、特に多忙な病院関係者、医療関係者の方々、全員が出来るとは到底思えない。

つまり、本当に医者や医療従事者が、患者家族の関係性や、デリケートな部分まで分け入って、「状況」を理解をしていなければ、彼の祖父の「死んだ方がいい」という「意思」は、「本人の意思」になってしまう。

従って、ここで重要なのは、日本社会に変わることを「求める」ことではなく、「私」が「私」から変えていくことだと考える。「私」と対話して、「私」による「自己決定」をする習慣。

他の記事にも書いているが、安楽死が「法制化」できる社会は、国でも、官僚でも、医者でもなく、他の誰でもない、「私」(たち)一人一人が、「自分で自分を決定することが出来る」社会だと思う。

大学時代の友人の祖父の例で言うと、このお祖父ちゃんはとてもお辛かったと思う。「死にたい」と思う程、息子との関係に悩んでしまわれたのだと思う。

でも、このお祖父ちゃんの「死にたい」への答えは、大学時代の友人(孫)でもなく、ましては、本当の死でもなく、「自分との対話」だ。「なぜ、息子はこんなに傷ついたのか」、「なぜ、私はあの時資金援助をしないと決めたのか」。「なぜ、息子の嫁はあそこまで息子に憎悪を焚きつけるのか」。「ずっと一緒に暮らしてきたのに、なぜ息子は、その妻は、こう思うのか」

これに一つ一つ向き合ったうえで、他の誰でもない、「息子」と「その妻」と対話をするしか、答えは見つからない。

私は、同調圧力が「所与のものである」という前提で、物事を語ることは勿体ないと思う。なぜなら、同調圧力は、いいものにものなりえることもあるし、悪いものにもなりえる。

「日本人」が作りだしたものであるのであれば、その「日本人」がその時々に扱い方を調整すればよい。

自己決定権は、国や官僚や機関が「外部から」与えてくれるシステムではない。欧米や日本など国籍や文化に関わらず、これは、人がより自分らしく生きることが出来るように、各人が「内部から」意識的に紡ぎ出す、一つのツールだと私は、考えている。

安楽死の法制化が先に来るのではなくて、「国」や「文化」に左右されない、自分の自己決定権が各自が持てる社会が先に来るのだと思っている。ここに来た時に初めて、「安楽死の法制化」の議論が可能になると思う。

緩和ケアが平等に行き渡れば安楽死の声は抑制できるはずなのに。。。

但し。上述の私のお祖母ちゃんのケースは全く別だ。

あの壮絶な数十分の修羅場は、完全に憲法(第25条)違反になりうるとさえ、私は思ってしまった。

健康でもない、文化的からは程遠い、「人の権利」が、祖母にも家族にも、微塵も存在しない、修羅の瞬間だった。

祖母は、終焉に至るまで、何度も入退院を繰り返した。緩和ケアを受けたうえで、逃れられない苦しみから、私に「死にたい」と言った。

こういうケースを見た時に、祖母の確固たる、自分の心と体と対話をしたうえでの、自己決定を実現できる社会(=安楽死が出来る社会)があってほしいと思っている。

緩和ケアをしてもなお、苦しむ彼女のどこに、「同調圧力」があるのだろうか。「死にたい」と言って、孫(=私)からの「お願い死なないで、生きて!」という問いかけにも、ぼーっと悲しそうな顔をして答えなかった彼女である。*そこにはむしろ「生きてほしい」という同調圧力しかない。

「緩和ケアで殆ど苦しむことがなくなった」と有名なお医者さんが仰るのは、東京や周辺、若しくは地方都市のことだと思う。私の故郷は所謂限界集落で、県内の県庁所在地までも大分距離がある。周辺には車で30分行ったところに市民病院が一つだけ。

内閣府のデータによれば、2035年には国民の3人に1人は65歳以上の高齢者になると言う。

もし、私のお祖母ちゃんのようなケース(激しい痛みから解放されず、医者も死が近いことが分かっているケース)についても、「同調圧力」があるから安楽死は法令化出来ない、となる場合、「緩和ケア」をもっと充実させてほしいと思う。

私は、「死」の喫緊性を鑑みると、比較的若い(30代後半)ので、敢えて書くが、人口の1/3のうちの病気で苦しむ人達が、東京やその近郊に限定せず、地域差に関わらず、適切な緩和ケアができる社会は、相当のコスト(税金)がかかると思う。

私は、あと4年で、介護保険料を支払う40歳になる。それから20年間適切な緩和ケアができる社会のために、確実に高額になるこの保険料を払い続ける。税金は国民の義務だし、私は、上の年代の方々のおかげで、今生きられているという感謝の気持ちもあるので、喜んで払いたい。だが、喜んで払った挙句、私のお祖母ちゃんのような事例(緩和ケアが皆無のなんちゃって、緩和ケアを受けて、苦しんで死んでいく多くの高齢者がいる事例)が、地方の益々過疎化していく地域で見られた場合、大きなショックを受けると思う。片や東京や神奈川では、「緩和ケアは大成功、苦しんで死ぬ人はいなくなっている」のに、地方は。。。という状況では、税金を払っても有効活用されていない、と感じてしまうと思う。

安直で、安易な「安楽死法制化」議論に舵が向かないためには、国民の努力だけではなく、国や行政にも「緩和ケア」の地域差のない「平等性」を意識してもらいたい、と強く思う。

また、私の同年代の方々でお子さんを育てている方は特に、年々増える介護保険料について、大きく懸念している人が非常に多いことを、見逃しても行けないと思う。子育て世代の彼らが、社会的な不平等を感じて、「安楽死」を提唱したくなるような社会保障の偏りを如何になくすか、というのも少子化の中の大きな課題だと思う。

京都のALS嘱託殺人のケースについて、日本緩和医療学会より以下の声明が出ていた。

日本の緩和ケアは、がん疾患が中心であり、「がん以外の疾患に対する緩和ケアが広く実施され、その質の向上を図ることができるように、⽇本緩和医療学会として最⼤限の努⼒をしていく所存です。」と記載されている。

ALSは原因・治療法など、がんと比べて多くの解明がなされていない。だが、「肉体に感じる酷い痛み」はがんと何が違うのか。特徴は異なるかもしれない、だが、耐えがたい痛みや呼吸困難について、緩和ケアもなくほっとかれるのは、無情だと思う。

「同調圧力」に飲まれて、患者の自己決定を殺すのは、安楽死ではなく、「まだ死なないのだから、痛くても生きろ」という無思考の「同調圧力」ではないか。

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