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わたしはわたしが好きなのだ

 会社を辞めて、フリーで仕事をもらったり、作家活動に勤しんだり、今でこそ好き勝手に暮らしているわたしだけれど、考えてみれば、休職騒ぎのときはけっこう大変だった。

 どう大変かというと、恋人には「ずっと正社員として責任を持って働いてほしい」と言われたし、母からは「あなたは病気じゃないのだから、心療内科には行かないで」と泣かれた。

 恋人の言うことも、母の言うことも分かる。
分かるのだが、当時のわたしにその言葉はナイフのように突き刺さった。
 正社員以外の働き方を視野に入れることもできないのかあと項垂れた。
 母の「病気じゃない」という言葉には、悪意どころか愛しかなくて、だからこそ辛かった。病気じゃないならなんでわたしはこんなに苦しいの?それなら病気だった方がマシだよと。

 当時はそれなりに泣いて、言い争いになって、「この人はわたしのことを何もわかってない!」と勝手に憤慨していた。
 まあでもたぶん、ここで理解してもらえないならいいやと殻に閉じこもらずに、憤慨し続けたのがよかったのかもしれない。
 憤慨し続けるのも疲れるけどね。

 なんだかんだ言っても、わたしもけっこうな頑固者なので、結局、心療内科には行ったし、会社は辞めたし、正社員はしばらくはいいかな〜自分の生き方模索しよ〜って感じで、好きに生きている。

 結果的にまわりの人も理解してくれて、うまい具合にまとまっている。

 わたし自身は、水を得た魚のように今こうして毎日呼吸のしやすい生活を送っている。
 それはやっぱり、まわりの人の支えとか優しさとか、理解とかあれやこれやのおかげだと思う。
だから、今までエッセイとして自分の辛かった体験を書く時、まわりからの理解が得られなかった時期があったことを割と省略してしまっていたと思う。
 それを書いたらまわりの人に失礼だと思っていたので。

 でもふと気付いた。
 わたしにとってはいいのだけど、それって読んでいるひとにとっては、「ハイ、ではこちらのお肉を1日冷蔵庫で寝かせたものがこちらになりま〜す!」くらい、唐突で腑に落ちないストーリーになっているんじゃないだろうかと。

 よく、「色々と辛い目に遭ったけど理解のあるパートナーのおかげで今は楽しいです!」というエッセイを目にする。

 わたし自身は著者の言いたいことはなんとなく分かるのだけど、大体そういう作品には「結局パートナーがいる人しか救われないじゃん」みたいな類のコメントが寄せられている。
 その気持ちも分かる。そう、それはたしかに、そう。

 だけどわたしはこう思う。
 多分、理解のあるパートナーというのは元から簡単に理解があったのではなく、その間にも紆余曲折あり、なんとか理解が得られたのだけれど、著者がその部分を省略しているのではないかと。
 そう、まさに先述したわたしのようにだ。(プロの作家さんたちに対してこういう風に言うのは失礼かもしれないけれど)

 そしてついでに、こうも思う。
 この世界には、パートナーや理解のある誰かに助けられていなくても、自分自身で自分のことを救ってあげた人は山ほどいるはずだ。
 でも、おそらくだけど、そういう人はなかなか自分の体験をエッセイや作品にはしないんじゃないだろうか。
 たぶん、「この人のこの言葉で救われた」とか、そういうわかりやすいエピソードのある人の方が、自分が一つの壁を「乗り越えた」ということを客観視しやすく、その上その誰かに対しての感謝の気持ちもあるために「この体験を書き(描き)たい!」と思うのではないだろうか。


 わたし自身、親や恋人、友人に支えてもらったエピソードをほんとうに心の底から大切にしている。

 でも、誤解を恐れずに言うけれど、今のわたしがこうして自分を好きでいられているのは、やっぱり自分の力だ。
 誰に救われたのでもなく、自分が自分を救ってあげたのだと断言する。


 いや、むしろ、この世界の誰でも、みんな、本当の意味では「誰かに助けてもらった」っていうのは存在しなくて、結局は根っこの部分で「自分が自分を救ってあげたい」と思えた時点で、それはまぎれもなく自分のおかげなのだと思う。



 カネコアヤノさんの『ロマンス宣言』という曲が好きなのだけれど、その中にこういった歌詞がある。

《優雅にお湯を沸かして コーヒーのむのよ わたしの理想の喧嘩計画 分かってほしくて かなしいときには だれかの力をかりなくちゃ》

 
 彼女の意図したところは実際にはわたしには分からないのだけど、「分かってほしくて〜」のところに感銘を受けた。

 体力も気力もいることだけど、分かってほしくてかなしいときこそ、だれかの力をかりなくちゃいけない。
 それをわかっている時点で、もう自分のことを幾分か救っている。
 だから、もしまだ憤慨していない人は、試しに憤慨してみるのもいいかもしれない。「分かってくれよ!」と泣いてもいい。
 それってすごく疲れるし、勇気のいることだけれど、意外とここまで言わないと分かってくれない人だらけだからね。浮世は。

 それでも分かってくれない人も世の中にはいるし、それが身近な人だったりすると本当に辛いけど、でも、それでも、自分を救ってあげられるのは自分しかいないから、できるだけすべてを諦めないようにしていきたい。
 あと、たぶん自分が自分を分かってあげられれば、自然とうまく行くようにできているような気がする。


 自分しか自分を救えない、だからこそ誰かの力をかりるべきっていうのは、とても矛盾しているように見えるけど、たぶんどちらも間違っていないのだ。
 自分が自分を助けることを念頭に置いた上で、誰かに理解してもらうこと。それが大切なのだと思う。


 これは自戒でもある。またどうしようもなく、かなしいことがあった時、誰にも分かってもらえないという気持ちに苛まれた時、これを読む。

 理解のある誰かに救われたのは結果論で、その過程で自分を救ってあげたのは他でもない自分なのだ。
 だから、自信を持って助けを求めよう。「分かってくれよ!」と言おう。
 そして、コーヒーは飲めないから、優雅に紅茶でも飲もう。











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