見出し画像

2021/07/20 旭日の1964、落日の2020

またしても不始末である。東京五輪開会式の作曲担当だった小山田圭吾氏が、学生時代のいじめ荷担を語った過去のインタビュー記事がネットで炎上し、辞意を表明した。新国立競技場のザハ・ハディド氏設計案撤回に始まり、これまでにどれだけのゴタゴタが続いただろう? 数えるのもしんどいぐらいだ。「呪われた五輪」と言われても仕方ない。

今回の件で終わりではないかもしれない。パラリンピックが閉幕するまで、まだ騒動やトラブルが起きるかもしれない。選手の活躍よりも、そちらの方に関心を寄せてしまう。

まだ開幕前なのだが、「東京2020」とは、どういう大会だったと、歴史上、記録されるのだろうか。1964年の東京五輪は、小学校6年の 社会科で、 単元名「 新しい日本、平和な日本へ 」の象徴的なイベントとして取り上げられている。

私が習った中学校時代の副教材にも、戦後ニッポンの目覚ましい復興を描くページに、「夢の超特急」の新幹線や東名高速の開通などの写真が華々しくレイアウトされていた。どちらも五輪に合わせて、64年に整備された交通網だった。戦後わずか19年で、五輪を開くまでの奇跡の復興を成し遂げたニッポン。それに続いた高度経済成長の「ハッピーエンド」として、新宿副都心の林立する高層ビルの夜景写真で締めくくられていた。

バブル崩壊から始まる「続きの物語」は、「失われた30年」でひたすら暗い。昭和の成功物語よ、もう一度と、起死回生を狙った「東京2020」は皮肉にも劣化し、衰退する落日のニッポンの象徴となってしまった。

未曾有のパンデミックに直面した不運はあっても、日本社会の劣化が、一連のお粗末な結果をもたらしたことは事実である。なぜ、劣化が起きたのか? 私は、1964年の東京五輪に遠因がある気がしてならない。

戦後ニッポンは自らの戦争責任に真正面から向き合おうとせず、経済成長に「突貫工事」で邁進した。そのツケが、寿命をはるかに下回る急速な劣化をもたらしたのではないか。

今、できることは膿を全部出し切ることだ。不透明な政策決定や不可解な人事などの問題を可視化し、よりましな政治家を選挙で選び、補修することから始めるしかない。その出発点に「東京2020」がなれば、せめてもの開催意義になるかもしれない。

この記事が参加している募集

最近の学び

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?