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絶対になくしてはならないカメラ

Nikon D800Eというカメラをご存知だろうか。

2012年にNikonから発売されたフルサイズ一眼レフカメラ。当時としてはかなりのハイエンドなスペックだった。

どうして発売から10年以上経ってこのnoteを書こうと思ったのか、それをまずは書きたいと思う。

Nikon D800Eとの出会い

このカメラとの出会いは、2019年10月末まで遡る。

私には写真の「大先生」がいた。
と言っても本当に先生をしてもらっていたわけではないし今になって勝手に「大先生」と、そう呼ばせてもらってるだけなのだが。実の関係は祖母の姉の旦那さん。すごく離れた親戚のような、でも小さい時から顔を合わせていたがゆえに、近しいようなそんな関係だった。

私はある時、大先生から「カメラを渡したいから来てくれ」と連絡を受けた。
当時の私は高校3年生で、小さい時からとても優しくしてくれる大先生の呼び出しを二つ返事で了承した。

大きい名だたるフォトコンテストで入賞したりしていた大先生から指導もいただけるということで私は張り切っていた。

当日、いただいたNikon D800Eと大三元レンズを引っさげて一緒に写真を撮りに行ったのだが、当時の私は根性がなくスパルタ指導に疲れ果てていた。
一緒に宿泊して朝のいい時間に滝雲を狙いに行かないかとのお誘いもあったのだが、先述した通り私はもう行く気にはなれず夕方には解散してしまった。
最後の大先生の顔はなんだか寂しそうな、そんな気がした。そのまま家路に着いて帰ってから少しだけ大先生と電話したようなそんな感じだった。
いまその時のことを振り返れば、お金を払ってでも受けたい指導だったな、と強く思う。
当時は「またそのうちなんだかんだで会えるだろ」くらいにしか思っていなかった。

だが不幸にも、それが大先生と最後の別れになってしまった。
離れた地方に住んでいたことや、大先生の持病の悪化、新型コロナウイルス感染症流行による緊急事態宣言。

17歳の私が撮った大先生が生前とても褒めてくれた写真

喪にふくした直後は、「あの時俺にカメラを預けたのは亡くなる予兆だったのかな」とか思ったりした。その程度だった。それよりも大先生の熱い指導が私の写真に対するモチベーションを下げていた。がんばれなかった。

急にどうしてnoteを書いたのか

私はあの最後に会った日のことをずっと回想している。
あの時大先生にどうしたらよかったのか。

まさか本当に最後になるなんて。自分が本気で写真に取り組めば取り組む程に、大先生のあの日の指導はもっと必要だったのではないかと感じてきてしまい、あの日の行いを悔いては反省してしまう。

いつ人は会えなくなるかわからない。そんな当たり前のことに今頃気付かされる。必要だと思った時にはもう自分の近くに大先生はいなかった。

教えも乞えず、お墓参りにも行けずにいた。
だがつい1年半ほど前、やっと大先生の墓前に手を合わせられた。

墓前に行けた日の学芸大学駅前
大先生が遺した機材で撮る東京国際フォーラム

大先生が最後に自分に遺してくれたもの

大先生が遺してくれたNikon D800Eと大三元レンズは、いまでも自分のもの思っていない。ただ少し借りていて、大事に使おう。そんなくらいな気持ちである。

ただ借り物という意識が強く、あまりにも利用頻度が少なすぎたので私は半年前にNikon Z 5とFTZを買って大先生の機材を有効活用しようとした。

Z 5の首掛けのストラップにはD800Eのものが付いている。すこしでも大先生が近くで自分の写真を見守ってくれてくれますように。そんな気持ちで付けさせてもらった。

今年の5月。2024年の5月で大先生の命日から丸4年。
自分はどんな写真を撮ればいいのか、何を撮ったら楽しいのかわからなくなっていた。

ついこのnoteを書く2日前に撮りに行った時久しぶりに写真を楽しいと思った。その時ふと大先生の顔が見たくなってLINEのプロフィール画像を見ようと思ったがアカウントが消えていて見れなかった。

私は気になって当時のトークに飛んだ。

『君の感性はカメラを通して作られている。』

亡くなる前にした最後のやりとり。その言葉にすごく救われた気がした。
これからも後悔を背負って写真を続けていこう。
そう強く思った。

最後にやりとりした時に送った写真
自分の学生時代で1番よく撮れた写真だった。

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