地面が揺れ 亀裂が走ったあの日から続いている “私への問いかけ” #東日本大震災から12年
地面が大きく揺れた2011年3月11日、仙台市のホテルに勤務していたある女性は宿泊客の避難誘導に追われていた。その後ホテルは、県内外からの災害派遣やボランティアの受け入れ先となり、日々に追われるまま3年が過ぎた。あの日私は困っている人のために何ができたのだろうか。後悔と誰かの役に立ちたい思いを抱えながら進んだ道は、東北の子どもたちを長期的に支える活動だった。
今回は、ハタチ基金の助成先団体「認定NPO法人 キッズドア」の對馬良美さんに当時の思いと、今の宮城県の子どもたちにまつわる課題を伺った。
3.11で何もできなかった 当時の思いが残り子ども支援の道へ
ーー3.11は對馬さんにとってどのような出来事だったのでしょうか。
3.11の震災当時、私は仙台市のホテルで働いていました。震災の発生は、まさに勤務中の出来事でした。お客様を外に誘導し、職員も屋外に避難。地面は大きく揺れ、みるみる間に亀裂が入り、電線がグワングワンと大きく揺れていたのを覚えています。交差点では信号が機能していないため大渋滞となり、さらに突然の吹雪にも見舞われ、恐ろしい天変地異が起きたと感じました。電車は当分復旧しないと見込んで、停電の中ロウソクを灯し寝泊りする職員もいました。また自宅が心配だから歩いてでも帰ると言って、その後1週間行方不明になった年配の職員もいました。心配した家族が職場に来ましたが、その後自宅に帰る途中の避難所に身を寄せていて無事だったことが分かりました。
私の自宅では、家電や家財のほとんどが被害を受け一式買い替える必要がありました。テレビでニュースを見る機会も無くなり、どこで何が起きているのか分からない不安な日々が続きました。
その後、勤務先のホテルでは国の機関から派遣された救助・支援者の方々、メディア関係者、地元の社協やボランティアセンターなどの受け入れを始めました。自宅からの交通手段を断たれ出勤できない職員もおり、問い合わせや復旧に向けた施設の整備などの対応にも追われる忙しい日々が続きました。全国各地から支援が集まる中、私自身は日々の対応に追われるだけで精一杯でした。
慌ただしい日々が過ぎていき震災から3年が経つ頃、何か困っている人の役に立つ仕事がしたいと思うようになりました。あのとき何もできなかった。そんな思いが、心の片隅に残り続けていたからです。
でも、自分に何ができるのだろうか?
考えていたときに、子ども支援をしているキッズドアを知りました。震災直後は何もできなかった分、これから地元の子どもたちのために役に立ちたいと想い、長く活動を続けています。
震災とコロナが子どもたちに影響を及ぼした 不登校児童の増加
ーー日々子どもたちと接する中で、今現在感じている課題はどのようなものでしょうか?
震災後、宮城県では不登校出現率全国1位が数年間に渡り続きました。現在、コロナ渦でも全国的に不登校が増えています。今改めて、交流や居場所の大切さを感じています。
また、地方では急速な過疎化・少子化により、明らかに子どもの人口が激減しています。小中学校も統廃合が進み、さらにコロナもあり、様々な人々との交流は以前よりも少なくなっているように感じます。
キッズドアでは、甚大な津波被害を受けた宮城県南三陸町や、内陸へ避難した方の多い仙台市で現在も子ども支援活動を継続しています。普段出会うことのない大学生や社会人スタッフと交流することで、子どもたちは良いロールモデルを獲得でき、目標ができたり、やる気が上がったりする中で将来の選択をしていっています。
震災、コロナ、人口減少などの様々な課題の下で、スタッフやボランティアの方々と連携をしながら、学習支援だけではなく、人々の出会い、特に体験の場を大事にし、これからも東北の子どもたちを応援していきたいと思っています。
ハタチ基金は、「東日本大震災発生時に0歳だった赤ちゃんが、無事にハタチを迎えられるその日まで」をコンセプトに、2011年より活動をスタートしました。2023年3月に12年目を迎え、残りの活動期間は8年となります。東北被災地の団体が、ハタチ基金活動期間終了後も子どもたちを持続的に支え見守れるように。そんな思いで、これからも皆さまからのご寄付とともに支援を続けてまいります。
ハタチ基金についてはこちら https://www.hatachikikin.com/
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